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にの舞い イグサの香り 錦莞莚

 

岡山のい草

 

 岡山平野では古くから、工芸作物である「い草」が栽培されていた。

江戸時代にかけて南部の干潟が干拓され、新田開発などで広大の農地が開発されると、瀬戸内の恵まれた環境の元、県南部ではしきりに「い草」の生産が行われた。その中心が早島町や茶屋町で、それは質・量ともに日本一と言われるものであった。

 

「い草」の生産は12月頃の苗堀りから始まり、厳冬期に田圃の氷を割って苗を植え付け、五月頃倒伏を防ぐため「先刈り」と言う穂の頭を刈り込む作業をし、梅雨明けの暑くなりかけのころには収穫する。

刈入れた後には稲の植え付けが控えていて、早朝から暗くなるまでと言う長時間労働で、時には九州方面からの出稼ぎの応援を得るほどの作業であったが、これらの栽培はことのほか過酷な労働であった。

 

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 昭和30年代には全国の50パーセントを占める生産量を誇った時期もあったようだが、近年急速に衰退した。

その原因に労働条件の厳しさを上げることが出来るが、近くの水島コンビナートの建設も無縁ではなかった。

工業地帯が操業を始める頃、農家の生活形態にも変化が現れ、結果兼業が多くなり、加えて「い草」製品は安価な海外ものが流入するようになった。

 

更に追い打ちをかけるように栽培中の「い草」の穂先が赤くなる現象が出始め、商品価値が下がってしまった。

このことは、工業地帯の排気ガスの影響が噂されたが真相は解明されないままで、こんな「い草」の栽培より収入が良いサラリーマンの方が楽だと、転職が相次いでやがてはこの地方の「い草」産業は衰退してしまった。


 

 

畳表の町・早島

 

 JR宇野線の早島駅の裏に、「畳表の早島」と書かれた大きな看板が立っている。

ここ早島は、かつて「い草」の香に包まれた一大生産地、畳表の加工産地として知られて処である。

 

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駅前には「早島町観光センター」が有る。

町内に有った古い蔵を解体した廃材を再利用し建てられた施設で、内部には観光案内所を始め、「い草」製品の展示即売所、パン作り工房、喫茶店などが併設されている。

 

大昔この地は、吉備の穴海と呼ばれ入り込んだ瀬戸内海に浮かぶ島であったが、近くを流れる岡山県三大河川の一つ・高梁川の運ぶ土砂で次第に埋め立てられやがては陸続きになったところだ。

その後戦国大名・宇喜多秀家による大規模な干拓で、広大な大地が生まれた。

当時汐止めとして築かれた堤は、「宇喜多堤」と言われ、その後の干拓事業の先駆けとなった。

その起点が町内の龍神社あたりだと言われている。

 

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江戸時代になると人々は「い草」を植え、やがてそれは「早島表」と呼ばれる畳表に加工され、主要な産業として町を支え発展を遂げてきた。そんな当時の、繁栄の様子は町内にある「いかしの舎」で偲ぶことが出来る。

ここは畳表・経糸の問屋であった旧寺山家の明治期に建てられた町屋を改修した施設で、内部が公開されている。

 

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 ここは岡山城下から瀬戸内海を渡る金比羅参詣の街道筋としてもにぎわった歴史が有り、町中には「不老のみち」として遥かな時を偲ぶ散策路も整備されている。

町を歩けばどこからか、織機の響きが聞こえてきそうな、そんな長閑な町である。

 

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茶屋町の鬼

 

 JR宇野線の途中駅・茶屋町は、四国に向かう本四備讃線との接続駅である。

駅を出るとその前の広場に、親子の鬼の像が建っている。

ここ茶屋町では250年も前から、秋祭りに氏神様をお守りする鬼がいて、その舞などが奉納されていたらしい。

様々な形相の鬼の面に、胸当て手甲脚絆を着け、背中にタスキを垂らし、手に手に杖やこん棒を持ち、高下駄を響かせながら派手な衣装で現れる。祭りには欠かせない存在であったが、昭和の中頃に何時しかその姿が見えなくなり衰退してしまった。

 

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その鬼は昭和の50年代に入り、地元の有志などの尽力や、町民の寄付金などによって保存会を作り復活した。

近頃では近隣のお祭りや様々な地元の催し観光イベントなどの会場には何匹もの鬼が出没し、愛嬌を振りまいている。

怖いはずの鬼は今ではすっかり町民の人気者になり、欠かせない存在になっている。

 


 

錦莞莚(きんかんえん)

 

岡山県南部の「い草」産業は江戸時代には急成長するものの、明治維新を境に衰退をはじめ、景気の後退が始まった。

そんな状態を何とか打開しようとしたのが、家業が小倉織を扱う商人、織元を生業としていた磯崎眠亀(いそざきみんき)であった。眠亀は様々な工夫を凝らし研究を重ねた結果、精巧な花筵「錦莞莚(きんかんえん)」を開発した。

これにより近隣には数多くの花ござ工場が設立され、貴重な輸出品としてアメリカやヨーロッパに輸出されるようになり、昭和40年代には最盛期を迎えることに成る。

 

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 茶屋町駅を出て駅前の通りを300mほど歩くと、右側に「倉敷市立磯崎眠亀記念館」(入場無料)がある。

この施設はこの茶屋町で生まれ、精巧な花筵「錦莞莚」の製造を可能にした磯崎眠亀の旧宅兼作業場を保存修理したもので、昭和634月に開館した記念館である。

 

研究と苦労を重ね努力の結果、当時は手織りの花筵、名付けて「錦莞莚」の製造を可能にした。

経糸を従来の3倍の120本に増やし、赤や緑・黄などの鮮やかな色に染め上げたい草を、その緯糸として通し、精巧な模様を織り込んだもので、この花ござは忽ち高級な輸出品として欧米で持て囃される様になった。

 

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眠亀は苦労して開発したその技術を盗まれないように、研究室を自宅の二階に造った。

そこに上がる階段は、物を運びやすいように全てスロープで登れるようにした。

またその土間の吹き抜け部分には、荷物を上げるための滑車を設け利便性を高める工夫をしている。

二階の窓の外に突き出す形の雨戸は、スパイ防止のためでもあったようだ。

 

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 国の登録有形文化財に指定されている建物(館内)は自由に見て回ることが出来るが、管理人の説明を聞くことも出来る。

この記念館ではそんな眠亀の偉業や、開発の苦労を随所で偲ぶと同時に、発明家らしい数々の工夫を知り、倉敷市の重要文化財に指定されている貴重な「錦莞莚」を間近に見ることが出来る。

館には手織り体験のできる「花むしろ工房」が併設されている。

 

 

■交通案内

 

 ■早島・いかしの舎

    電車  JR宇野線 早島駅下車 北西に徒歩1.0Km

 

 ■茶屋町・倉敷市立磯崎眠亀記念館

    電車  JR宇野線 茶屋町下車 西に徒歩0.3Km

 

 



 

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