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知覧の町

 

知覧観光の入り口、“武家屋敷入口”でバスを降りる。

県道に沿って形の整った槇の木の街路樹が立ち並び、その足元には幅1メートル余りの疏水が流れ、その透き通った清流には大小様々の鯉が身をくねって泳いでいる。静かな箱庭のような街並みだ。

 

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しばらく疏水べりを歩き、右折して県道を外れ麓川に架かる城山橋を渡ると、左手に中世の知覧城の出城・亀甲城跡に造られた「知覧亀甲城公園」の林が見える。

 

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 知覧の武家屋敷群は、江戸時代薩摩島津家の分家である佐多氏が地頭として治めていた場所に有る。

数々の功績により領地の私用化と島津姓の使用を許された上級武士が、自らの住居と外敵を防ぐ砦を兼ね備えた屋敷を構えたもので、その時代のものが今日に残されていると言う。

 

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 背後に聳える母が岳を借景に、国名勝に指定されている庭園をもつ屋並みの美しい町にも悲しい時代が有った。

1941年に陸軍の知覧飛行場が造られた事により、太平洋戦争の末期では、沖縄戦での特別攻撃隊の出撃基地となり、多くの若者が「お国のため」と飛び立ち南の海で散華する。

 

 そんな悲しい過去を秘めた知覧の町も、今は「薩摩の小京都」と称えられ、観光の町として生きている。

 

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知覧の武家屋敷

 

本馬場通りには、七つの武家屋敷とその庭園が続いている。

通りは車両の通行も規制されているので、静かで落ち着いた雰囲気の中、入園料500円で全ての庭園を心行くまで鑑賞して廻る事が出来る。

 

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 屋敷は石垣と槇の木の生垣に囲まれている。

聞けば生垣は、盆と正月前に刈り込みを行うそうで、さすがに良く刈り込まれ手入れが行き届いている。

石垣は、切石を規則正しく整層積みされたものが多いが、中には野石を乱積みしたものもあり、多くは琉球の影響を受けたものらしい。

 

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 街並みの写真を撮っていたら通りかかった手押し車のおばあちゃんが、シャッターを押すまで立ち止まって待ってくれた。お礼を言うと、「普通の町だよ〜う」と独り言のような言葉を残し、車を押して去って行った。

 

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この武家屋敷群の多くの庭が、植え込みと石組で表現する枯山水式の庭園であるのに対し、通りの西麓にある森邸だけが、石組みの池に水を湛えた池泉式の庭園だ。

 

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 七つの庭園の中での変わり種は、東麓の平山邸の庭で、石組みが一つも無く、サツキとイヌマキの大刈り込みだけで表現された珍しい庭園である。

 

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右手に見える母が岳の山裾が、そのまま刈り込まれたイヌマキに引き継がれ、借景と一体となって大きな峯を表していると言う庭は、250年前からそのままの形で引き継がれていると言う。

 

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ホタル館

 

武家屋敷通りを抜けると麓公園があり、園内に物産品を売る“ふもと横丁”が併設されている。

 

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公園の中には、映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」のロケ地に成った事を記念した碑が建っている。

この映画は太平洋戦争当時、ここ知覧の地で特攻隊員と関わった鳥濱トメさんや、知覧高等女学校生徒との暖かくも悲しい交流を描いたものである。

 

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 その鳥濱トメさんが営んだ食堂が、近くに資料館として復元され残されている。

 

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『少年飛行兵の教官をしていた藤井中尉は、少年兵たちの戦死の報を聞く度に「お前たちだけを死なせるわけにはいかん」と自らも特攻兵を志願した。しかし、中尉は年齢的にも若くは無く、既に結婚し子供もいたことから当然のようにその願いは却下された。しかし中尉の信念は固く、ついには血書を認め再度願い出るのである。

 

当初、出撃に反対していた妻は、夫の決意の余りにも固い事を知り、ある日幼い二人の子供を道連れに、近くを流れる荒川に自ら身を投げる。

「これで後願の憂いも無く成りましょう・・・お先に行って待っています」と言う遺書を残して・・。

 

やがて特攻志願が受理された中尉は、特攻出撃も終わりが近づいたある日、部下を率いて出撃、華々しく南の海で散華、愛おしい妻子の待つ彼の世へと旅立って逝った。妻子の死から13日後の事である。』

 

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唱歌のBGMが流れる、静まり返った館内で涙が止まらなかった。

誰もが一様に掲げられたパネルの文字を追いながら、口元にハンカチを当て、指先で瞼をぬぐっている。

息を呑むように、呻くように、呟くように、微かに囁き合う声と、鼻をすする音が聞こえるだけで、時折歩を進める足音だけがコツンコツンとか弱げに、板敷きの床に響いていた。

 余りにも悲しい現実に、誰もが心を奪われ、呆然とただただパネルを見つめるのである。

 

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 “ホタル館 特攻の母・鳥濱トメ資料館”は、特攻の母と慕われた、軍指定の富屋食堂を営むトメと特攻少年兵たちとの数々のエピソードをパネルや遺品・写真を通じて「命の何たるか」を悲しく問いかけている。

 

 

鎮魂の思いを込めて

 

歩けば30分ほどかかると聞いて、“ホタル館”前(中部バス停)からバスに乗った。

知覧は小さな町である。暫く走ると屋並みは切れ、切り通しの山道が緩く登る県道に成る。

すると突然道路の両側にびっしりと並ぶ夥しい数の石灯籠が現れる。

 

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 戦争末期、沖縄の空に散った若い特攻兵の霊を慰めるために、全国各地から集められた浄財で立てられたもので、その一つ一つに献灯者の名前が刻まれている。

 バスは坂を登り切った辺り、護国神社に向かう桜並木の参道が続く“特攻観音入口”で停まる。

 

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木佐貫原と言われる平地に目を付けた陸軍が、福岡にある陸軍大刀洗い飛行学校の分教場として整備、少年兵の卵を迎えたのが、昭和171月の事。

 過酷な訓練に明け暮れる十四五歳の少年にとって、たまの休日を過ごす富屋食堂やトメの存在は、息を抜き、心を休める唯一のものであったようだ。やがて戦局が変わり知覧が特攻基地となると、少年兵たちは、国や家族の将来を思いながら、次々と南の空に飛び立って行くのである。

 

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 戦後に成って、知覧から出撃した特攻兵の霊を慰めるため、観音像建立の提案を続けるトメの想いが叶うのは、昭和30年の事である。

“特攻平和観音堂”には、大和法隆寺の秘仏・夢ちがい観音を模した「特攻観音像」が建立され、その像内には特攻勇士1,036名の芳名が納められた。そこは旧陸軍知覧飛行場跡地の北東部に当たる場所である。

 

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特攻平和会館

 

 父母・兄弟・姉妹を思いながら、ただ純粋に国の永久を信じ、飛び立って散華した少年兵の御霊を鎮めようと、全国から集められた浄財をもとに建てられたのが“特攻平和会館”である。

 

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ここには戦局が悪化した太平洋戦争末期の沖縄戦で、250キロもの爆弾を抱え特攻機で出撃し、特攻戦死した1,036名の陸軍特別攻撃隊員の遺影や遺品・遺書・絶筆などおよそ4,500点が展示されている。

その多くは、自らも特攻隊員であった初代館長が収集したものだと言う。

 

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 館内には、当時特攻機として使われた陸軍三式戦闘機「飛燕」や、薩摩川内市沖の海底から引き揚げられた零式艦上戦闘機が展示されている。

壮絶な肉弾の生々しさを伝える激しく損傷した機体は、やり場のない憤りと悲しさを伝えるに余りある。

 

「敵に神州の地を踏ますな」「敵兵の沖縄上陸阻止」のスローガンのもと、ひたすら祖国の勝利を信じ、勇猛果敢に飛び立って行った僅か二十歳にも満たない少年兵たちの心の慟哭が聞こえるようである。

 

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“特攻平和会館”の脇には、三角兵舎が復元されて林の中に建っている。

敵の目を欺くため屋根だけを除いて建物は地下に埋められているので、こう呼ばれるようになった建物は、中央を通路が貫き、その左右に上り框が造られ、その片側に八人ほどが寝起きした場所である。

 ここに入った兵士は早い者で一日、長くても三日から一週間の内には、南の空に飛び立って行ったと言う。

 

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木佐貫原の茶畑

 

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知覧からバスで枕崎に向かう。車窓には広大な茶畑が広がっている。

昼夜の温度差が大きく、霧深い山間の知覧はお茶の栽培に適した土地だと言う。

この茶畑こそ、旧陸軍知覧飛行場の跡地である。

南北に二キロ半、東西に二キロほどの広さの木佐貫原と言われる平原には、鮮やかな緑の小山がうねり、今その痕跡は何処にも見当たらない。

 

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途中の停留所で女子学生を降ろしたバスは、以後停まる事も無く、たった一人の乗客を乗せて、50分ほどで枕崎に到着した。



 

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