特急「はやとの風」

 

 黒光りのする精悍な面構えの特急「はやとの風」は、観光特急である。

車内は木材を多用した内装で、シートも暖かい色のリクライニング、中央部には展望スペースを設けている。

女性の客室乗務員も乗車し、車窓の案内や物販、記念撮影のお手伝いをするスタイルは、他の観光特急と同じだ。

 

JR九州の企画切符「アクティブ65」は、シニア向けの全九州エリア3日間乗り放題切符である。

このような観光列車にも乗車が可能で、普通列車の少ない区間では大変に助かる。

九州に入るまでは18青春切符を使うなどすれば、お得に九州一周旅行が楽しめるので有り難い。

 

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

 

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

 

 栗野駅は、嘗て鹿児島本線の水俣に向け、「山野線」が出ていたが、昭和631988)年に廃止になった。

駅構内にはその廃線跡など、活気有る駅の当時の面影が今も残されている。

朝の点呼や貨車入れ替え時に、合図で使われていた鐘がホームに残されているが、これもその一つである。

 

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

 

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

 

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

 

大隅横川駅は、かつては金山で栄えた町の玄関駅である。

山ケ野金山と呼ばれた金鉱山は、国内でも三指に入る有力な金山で、300年余りに渡り多くの金をもたらした。

採掘の基地となった金山集落は、バスで50分ほどの山奥で、今でも当時の繁栄を随所に偲ばせ残されている。

 

木造の駅舎は県内でも最古のもので、開業当時のものがそのまま残されている。

ホームの屋根を支える柱には、第二次大戦中アメリカ軍の機銃掃射で打ち抜かれた痕跡が残っている。

「百年駅」が見てきた年月の歴史の深さを思い知らされる傷跡である。

 

 日本初の国立公園に指定された霧島への入口が、霧島温泉駅である。

駅は開線から遅れること5年後に貨物駅として開業し、この駅名になるのは平成152003)年の事である。

 

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

 

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

 

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

 

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

 

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

 

 鹿児島空港から車で10分と地の利も良く、「はやとの風」も観光停車するとあって、人気なのが嘉例川駅だ。

県内でも最も古い駅の一つで、当時の味わい深い木造の駅舎が残されていて、ここでは5分ほど停車する。

 

駅構内には、地元の人達が運営する特産品を販売する「ふれあい館」がオープンした。

また特急の停車を記念した「百年の旅物語 かれい川」という駅弁が土日に限り駅で販売されている。

駅弁ランキングでも上位に入っているらしく、百年駅舎はすっかり観光駅に様変わりしている。

 

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

 

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

特急「はやとの風」

 

「はやとの風」は、吉松から凡そ50分で隼人駅に到着し、ここから日豊本線に入り鹿児島中央まで運行される。

ここ隼人は、大和朝廷に抵抗を続けた古代隼人族所縁の町で、今もその勇ましい血は町に伝わっているという。

1600本の竹で覆われた駅舎は、竹の加工技術に秀でていた隼人族に因んだものだそうだ。

 

 

鹿児島神宮

 

町村合併で霧島市となった嘗ての隼人町は、鹿児島県のほぼ中央に位置する歴史と神話の町である。

観光案内所で、次の列車までの僅かな乗り換え時間を利用して行ける所を訪ねたらここを教えてくれた。

駅を出て、15分ほど歩くと、「大隅の一宮・鹿児島神宮」が鎮座しているので是非訪れてと言う。

教えられた通りすぐに右折し、何の変哲も無い町のメインストリートを北に向けて歩く。

 

鹿児島神宮

鹿児島神宮

鹿児島神宮

 

鹿児島神宮

鹿児島神宮

鹿児島神宮

 

鹿児島神宮

鹿児島神宮

鹿児島神宮

 

鹿児島神宮

鹿児島神宮

鹿児島神宮

 

古事記の登場人物で知られる「海幸彦・山幸彦」神話の地で、その山幸彦がご祭神として祭られている。

創始は、神武天皇の御代と伝えられる格式ある古社でもある。

鬱蒼と茂る木々に囲まれた静かな境内には、県の有形文化財に指定されている本殿や拝殿などが厳かに建っていた。

現在の神殿は江戸時代に島津公により再建されたもので、本殿は木造建築では、日本随一の広さである。

 

 

日豊本線と宮崎空港線

 

 「日豊本線」は、小倉と鹿児島を結ぶ462.6キロもの長大路線である。

嘗ては西鹿児島を目指し、長距離の寝台列車や特急が走る時代もあったが、今全線を通しで走る列車は無い。

大分や宮崎が区切りの駅で、多くの特急列車もこの間で運行され、普通列車の便はすこぶる悪い。

九州の東側を貫く幹線だが、特に佐伯と延岡間は、早朝に一往復、夕方に二往復有るのみで乗り継ぎには苦労する。

 

日豊本線

日豊本線

日豊本線

 

日豊本線

日豊本線

日豊本線

 

日豊本線

日豊本線

日豊本線

 

隼人から都城で乗り継いで南宮崎までやって来て、ここで乗換えこれから「宮崎空港線」を乗り潰す。

宮崎空港へのアクセス路線として、平成8年に開通した僅か1.4qの短い路線である。

宮崎、延岡や大分方面を結ぶ特急が始発・着していて便利は良い。

その特急も、空港〜宮崎間は普通列車扱いに成るため、特急券なしで乗車する事が出来る。

 

日南線の起点駅南宮崎を出ると、空港線の起点駅田吉に到着で、そこを出て日南線を離れると高架を行く。

とすぐに左手に空港の広大な敷地が見え始め、しばらくすると終着の宮崎空港に到着である。

 

日豊本線

日豊本線

日豊本線

 

日豊本線

日豊本線

日豊本線

 

 折り返しの特急で大分に向かう。

大淀川を渡ると宮崎に到着し、そこを過ぎると、やがて右手に日向灘の海が広がって見える。

そして高鍋を過ぎた辺りであろうか、本線と並行して右手に延々と続く高架線が目に入ってくる。

かつて旧国鉄がリニアカーの実験を行った廃線の跡地で、今では高架上一面にソーラーパネルが並べられている。

 

 宮崎県から大分県に入ると日豊本線の最大難所「宗太郎越え」が待っているが、特急には関係ない。

急坂も難なく快適に飛ばし、さらに佐伯、臼杵を過ぎるとやがて終点の大分である。

 

 

阿蘇高原線

 

「豊肥本線」は熊本と大分を結び、丁度九州を真ん中から二つに割くように横断する路線である。

その距離は148q、雄大な阿蘇の山並みを見て、大カルデラを行くので、「阿蘇高原線」の愛称でも呼ばれている。

 

 熊本から肥後大津の間や、大分から三重町辺りまでの間は、それぞれの近郊路線らしく本数も多い。

しかし、肥後大津〜三重町間では本数が減り、特に宮地から豊後竹田の間の普通列車は一日に数本しか走らない。

ただ、九州横断特急等の観光列車もあり、組み合わせれば阿蘇の雄大な自然を堪能できる楽しみ多い路線でもある。

 

阿蘇高原線

阿蘇高原線

阿蘇高原線

 

阿蘇高原線

阿蘇高原線

阿蘇高原線

 

阿蘇高原線

阿蘇高原線

阿蘇高原線

 

平日の朝8時半過ぎ、大分を出る列車は意外なほどに込み合っていた。

工事中の大分駅の高架を出て、大分の市街地を見ながら暫くは「日豊本線」と並走しながら東進する。

車内は、若い学生やサラリーマン風の人達が多く、どうやら通学・通勤時間帯でこれは何時もの混雑らしい。

信号所で本線と別れ大分川を越えると、沿線は次第に田畑の広がる田園地帯となり大野川に沿って南下する。

 

 市街地を離れると、列車は10分余りで大分大学前に到着し、ここで殆どの乗客が降りて行った。

大分大学前には陸上自衛隊の駐屯地もあり、職員も降りたのであろうか、車内に乗客はいなくなってしまった。

 

阿蘇高原線

阿蘇高原線

阿蘇高原線

 

阿蘇高原線

阿蘇高原線

阿蘇高原線

 

阿蘇高原線

阿蘇高原線

阿蘇高原線

 

大分川が遠ざかる中判田駅を過ぎた辺りからは、車窓に大野川が付かず離れず、微妙な間隔で寄り添ってくる。

そんな川も見えなくなる三重町を過ぎた辺りから山が近づき、列車のエンジン音が更に高まると緒方だ。

更にその先では、今まで以上に厳しい25‰の登り坂も待ち構えている。

九州の中央に居座る阿蘇の山並みに向けた、厳しい登り坂がこの先には幾つも待ち構えている。

 

阿蘇高原線

阿蘇高原線

阿蘇高原線

 

阿蘇高原線

阿蘇高原線

阿蘇高原線

 

幾つかのトンネルを抜け、更に25‰の坂を登ると朝地に停まり、小さな盆地に入り込むと豊後竹田である。

大分からは凡そ1時間10分で、列車がホームに停まると、何だか聞き覚えのあるメロディが聞こえて来た。

山間に開けた小さな城下町・竹田は、湧水の町として知られているらしい。

また作曲家・滝廉太郎縁の町としても知られていて、廉太郎の作曲した名曲「荒城の月」が流れていたのだ。

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

降り立ったホームの背後には小高い丘が迫っていて、見上げると一筋の滝が流れ落ちているのが見える。

ホームの一段低いところにある瓦屋根の駅舎は、御殿屋敷風の造りになっていた。

豊後竹田は、滝廉太郎の「荒城の月」のモデルとされる岡城(豊後竹田城)の城下町で、駅舎はそれに因んでいる。

 

 

山間の城下町

 

稲葉川に架かる竹田橋のたもとに、田能村竹田が小さな身体をして座っている。

ここ岡藩の藩医の次男として生まれた竹田は、その後我が国を代表する南画家として世に知られるように成る。

これは彼の偉業を讃える顕彰の像である。

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

駅前から続く古町通りは、郵便局前のカリヨンベルや、古そうな商家もあり、趣のある商店街だ。

そんな中の一つ塩屋荒物屋は、江戸時代から120年も続く昔ながらの老舗らしく、建物も当時のものらしい。

並べられている商品も、何だか昭和の香りが感じられるものばかりで、懐かしい味わいがある。

 

商店街を外れ、石畳の風情に有る「八幡川横丁」を抜け、「愛染堂」にむかう。

見上げるような石垣の下に通じる、古びた石段を上がると、そこは小高い丘の上の平地になっていた。

ここからは山に囲まれた竹田の町が一望で、正面に廉太郎が「荒城の月」をイメージした岡城址の石垣が見える。

宝形造りの三間堂は江戸時代寛永年間の建立で、竹田の町では、最も古い建造物という。

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

 「愛染堂」を下り、お寺の脇を抜け「寺町れんたろう通り」に向かう。

ここら辺りは豊音寺や正覚寺が甍を並べていて、寺町と言われるだけにお寺が多い。

そんな静かな佇まいの中に、廉太郎が1214歳の頃父と共に住んだ家が記念館として残されている。

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

記念館から少し先に行くと、小高い丘があり、そこに向かう細い道の奥にトンネルが抜けている。

このトンネルは、「廉太郎トンネル」と呼ばれ、通ると廉太郎が作曲したメロディが流れてくる。

元々これは、蔵元の酒蔵として作られたものらしく、向こう側の町に通じる道として改造された。

 

トンネルを抜けると、「竹田の銘菓・三笠野」を販売するお菓子屋があった。

創業以来200年余り、六代続く県下でも有数の歴史を誇る和菓子屋らしく、焼き立てが頂けるという。

自家製こしあんを一枚ずつ手焼きした生地で包んだもので、香ばしい生地との相性も良くあっさりとして美味しい。

黄身あんを、あわ雪で包んだ「荒城の月」と共に、藩政時代の献上菓子という。

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

豊後竹田

豊後竹田

豊後竹田

 

近くには歴史資料館が有り、歴史の道、殿町武家屋敷通りに通じている。

近くには古い武家屋敷跡があり、更に東に向かえば町を一望する広瀬神社や臥牛山・岡城址等もある。

また、少し郊外に出れば、竹田の湧水群などの見所も多く、とても乗り換え待ちの50分では廻りきれない。

豊後竹田は、少し時間を掛けてゆっくり楽しみたい風情のある町である。

 



 

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