まちなか周遊バス・ハイカラさん
会津若松の町中観光には、若松駅前から30分おきに出るレトロ調ボンネット型周遊バスの利用が便利である。
町のシンボル・鶴ヶ城、会津武家屋敷、東山温泉、飯盛山を巡り駅前に戻るのが「ハイカラさん」(一日20便)だ。
その逆ルートで周る真っ赤な車体の小型のタウン型バス「あかべぇ」(一日18便)で、何れも運賃は210円である。
「ハイカラさんあかべぇ専用フリー乗車券」も有り、路線内で一日自由に乗り降りが出来、大人は500円である。
この切符には、指定された施設での割引特典も付いている。
まちなか周遊バス「ハイカラさん」は、若松駅前を出るとすぐに右折し、まず最初に町方伝承館に向かう。
その後、七日町通りを経て七日町駅に向かい、タイルを敷き詰めた駅前広場に乗り入れている。
駅舎は2000年になって建て替えられた真新しいもので、「駅Cafe.」を併設したモダンな造りだ。
途中バスは、青春館のレトロな建物群や青春広場など見どころも沢山ある、野口英世青春通り通って行く。
更に会津のシンボル・鶴ヶ城を巡り、御薬園を経て、藩の家老・西郷頼母の会津武家屋敷前を通る。
その後、市街地から少し山側に入り、奥座敷と言われる東山温泉を目指しそこで折り返す。
最後に白虎隊ゆかりの飯盛山下に立ち寄り、およそ1時間弱で発地の駅前に戻って来る。
フリー乗車券には、他にも会津バスの他の路線も含めて乗り降り自由な「あいづ1dayパス」(700円)もある。
鶴が城天守閣や御薬園などの入場料がセットになった「まちなか周遊物語」(1360円)と言うのも有る。
他にも会津エリアの鉄道を含めバスが二日間有効な「会津ぐるっとカード」(2670円)等多彩に用意されている。
会津戊辰戦争の終焉
お城前の、電柱が地中化された北出丸大通りの桜並木が、丁度紅葉の見頃を迎えている。
周辺には、会津藩家老の屋敷跡・白露庭跡、公園や学校、裁判所、道の駅などが立地し文教地区のようだ。
藩政時代は家老や重臣達の屋敷が連なっていたと言うが、今はそば処やカフェ、レストランなどが点在している。
広い通りの桜の紅葉のその先にはお城を望み、静かで落ち着いた趣のある景観を見せている。
当時、城中や城下周辺には、ほとんど桜は植えられてはいなかったそうだ。
これら1000本余りの桜は、明治40年に陸軍が歩兵聯隊を新設した折、記念として植えたものだと言う。
ここは、会津戊辰戦争終焉の地、会津藩士にとっては「泣血氈(きゅうけつせん)の誓い」の場である。
この地に有った城の北出丸に、「降参」と大書きした白旗を掲げ、一か月に渡る籠城戦の幕を閉じたのである。
この降伏により明治元(1868)年戦争が終結し、この地の路上で降伏式が行われたのはその僅か2時間後だ。
藩にとっては無念極まりない屈辱の長い一日となった。
「明日よりは いづくの誰か ながむらん なれし御城に残す月影」
この日地面には、2200石の家老内藤家にあった4.5メートル四方の緋毛氈が敷かれた。
式が終わると藩士たちは敷かれていた緋毛氈を引きちぎり、小片を懐深くしまい込んだ。
そしてこの日の無念を噛み締め、故郷との惜別を断腸の思いで耐え、四方に散り、立ち去ったと言う。
開城の前夜、山本八重子(後の同志社大学を創設した新島襄と結婚・新島八重)が詠んだ詩が残されていた。
会津のシンボル・鶴ヶ城
会津のシンボル・鶴ヶ城は、古くは「会津城」とも呼ばれたお城である。
当時文部省は所在地を登録名にする慣例で、北出丸大手門の石碑には、「若松城」が公式名と書かれている。
今日では、「会津若松城」などと呼ばれることもあるが、一般的には「鶴ヶ城」として知られている。
本丸に向かうにつれ、辺り周辺がやや高くなる程度の平山に建てられたお城である。
幕末の戊辰戦争では、一か月もの籠城に耐え、砲弾に晒され大きく損壊しても落ちなかった城である。
その後新政府の命令により取り壊され、ようやくにして天守閣が再建されたのは昭和に入って40年の事だと言う。
近年天守閣の屋根が赤瓦に葺き替えられ、明治以前の姿を取り戻している。
七重の天守閣は、地上五階地下二階の鉄筋造りで、内部は一階から四階までが博物館として公開されている。
高さ36mの最上階は、展望室になっている。
ここからは城下の町並みと、その背後に聳え立つ磐梯山が一望の筈だが、生憎この日は雲の中であった。
城内には茶室・麟閣もあり、公開されている。
戦国時代に織田信長の怒りをかい千利休は切腹を命じられた。
その弟子であった時の会津藩主・蒲生氏郷は、利休の子・小庵を当地に匿った。
丁度そのころに建てられた茶室と伝えられているそうだ。
また一角には有名な「荒城の月」の歌碑も建てられている。
作詞した土井晩翠が、仙台の青葉城とここ鶴ヶ城をモチーフとしたことから建てられたと言う。
石碑に刻まれた歌詞は、氏の直筆だ。
飯盛山と白虎隊
飯盛山は会津若松駅前から真っ直ぐ東に2キロ程向かうと正面に聳えている。
標高は314mほどの小高い山で、山の姿が飯を盛ったようにこんもりとしていることから名付けられた。
1700年ほど前に造られたと言う前方後円墳が山頂にあり、隠れキリシタンの祠もある。
地元住民の墓地などもあり、古くからこの地の信仰の対象となっている山でもある。
市内でも有数な観光地で、年間の観光客数は200万人近いと言う。
麓には土産物屋や食事処が並んでいて、名物の玉こんにゃくや作り立てのあわまんじゅうなどが売られている。
山を登るには二つのルートが有る。
その一つが、土産物屋が建ち並ぶ通りの奥に見えている、183段の石段を上る道である。
もう一つは二台のスロープコンベアーと呼ばれる動く歩道を乗り継ぐ道で、こちらは有料だ。
鳥羽伏見の敗戦後、会津藩は武家の少年を主体とした玄武隊、朱雀隊、青龍隊、白虎隊の各隊を結成した。
その内白虎隊は総勢343名で、15〜17歳の少年で編成され、その中も身分階級により更に三隊に分けられていた。
戦に駆り出されたものの、圧倒的な新政府軍の前に二番隊37名の少年隊士では如何ともしがたかった。
戸の口原の戦いで敗れ、敗走した17名は無事帰城を果たしたが、取り残された20名が逃れたのが飯盛山である。
ここで少年兵たちが目にしたのは、お城付近が燃え上がる遠望だ。
ここからは盆地の中心に建つ鶴ヶ城の天守閣と、それを取り巻き広がる城下の町並みが一望に見渡せる。
彼らは武家屋敷などが燃え上がり、市中に上がる火の手を、城が燃え落城と錯覚したのである。
悲劇はその誤認から引き起こされることになる。
少年兵は、危険を覚悟の帰城か、敵陣突入で玉砕かの激論を交わしたと言う。
結果「最早帰る所がない、捕虜で辱めをうけるよりは」と、彼らの決意はお城と共に朽ち果てる選択であった。
あるものは腹を捌き、ある者は喉を付き、一同は南鶴ヶ城に向かい列座し、各々が決別の意を表し自刃した。
あまりにも早すぎる生涯を、自らの手で閉じてしまったのは鶴ヶ城開城の一か月前の出来事である。
そんな中、一人だけ助けられ生き残った少年兵がいたが、彼は生き残ったことを恥じとした。
死にきれなかった自分を生涯責め続け、会津には二度と帰らず、このことは黙して何も語らなかったそうだ。
後年、ようやくにして重い口を開き、実録が伝えられ、隊の哀話が広く世に知られるようになる。
時の政府は少年兵を朝敵とみなし、その亡骸の埋葬を許可しなかったと言う。
その為少年兵の衣服等は盗られるに任せ、風雨に晒され、鳥獣にも荒らされ、酷い状態での放置が続いていた。
そんな状況を見かねて不憫に思った当時の山主が、密かに仮埋葬したのがこの「白虎隊十九士の墓」である。
埋葬の許可が下りたのが明治2年、墓地が整備され慰霊祭が行われたのは明治17年のことだと言う。
ただ一人生き残った少年兵・飯沼貞吉(後に貞雄と改名)は、78歳の生涯を仙台で終えた。
その後、大勢の友が眠るこの地に墓を建て祀られている。
飯盛山を下る道の途中には、戸ノ口堰洞穴がある。
戸の口堰用水は猪苗代湖北西岸の戸の口から、会津盆地に水を引くために開削された用水である。
その全長は31Kmに及び、今でも会津盆地を潤す農業用水として利用されていると言う。
戊辰戦争の折、戸ノ口原で敗れた白虎隊二番隊20名が敗走中に潜ったことが知られている。
また山を下れば「白虎隊記念館」がある。
白虎隊や戊辰戦争に関する一万点を超える資料(遺品や文書、写真など)が収集展示されている。
二階ではビデオ上映による白虎隊の紹介もされている。
さざえ堂
飯盛山の下山道の途中には、旧正宗寺の円通三匝(さんそう)堂がある。
国の重要文化財に指定されている、さざえの巻いた殻の形をした建物で、通称を「さざえ堂」と言う。
堂内各所には、西国三十三カ所の観音像が祀られている。
江戸時代に貧しくてお参りにも行けなかった庶民の為に、身軽に巡礼をする工夫がされた建物とみられている。
堂内を巡ることで、あたかも西国三十三か所を遍路しているかのように思えてくる効果を狙ったものだ。
建物の高さは16.5mあり、初層の径が約6.2mの六角形構造の珍しいものだ。
正面に設けられた唐破風屋根の入り口を入ると、直ぐに右に曲がる螺旋状のスロープが設けられている。
それは床板に滑り止めの桟を打ち付けた木製の通路になっている。
それを辿り上り詰めると最上部となり、そこに太鼓橋が有り、これ越えると今度は左回りのスロープを下る。
こうして上り下が堂内で交錯する事無く、裏側に設けられた出口から外に出ることが出来る構造になっている。
このお堂は、建物内を一方通行のまま、三度まわることになるから三匝堂と言われている。
こういった構造の仏堂建築は、世界的にも例を見ない大変特異なものらしい。
二重螺旋を考案した知力と、それをノミとノコだけで実現させた大工の棟梁の技術力には感服させられる。
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