二つの「高千穂」

 

都城と吉松を結ぶ吉都線の途中に「高原」と言う駅がある。

そのホームには「ひむか神話街道 天孫降臨の地 高原町」と書かれた看板が立っている。

ここ「高原」は「たかはる」と読み、その町名は天つ神が住まう「高天原(たかまがはら)」に由来するとか。

ここら辺りが『日向の高千穂』で、周辺には数多くの伝承地があると言う。

 

天照大神が統治する高天原から、その命を受けたニニギノミコト(天孫)が下りてきた。

天降った命は、日本国を治めるようになる。

その子孫が歴代天皇で、「日本書紀」では、神武天皇が2月11日に即位したと伝えている。

一昔前は紀元節と言われた日で、今では国民の祝日の一つである建国記念の日となっている。

 

高千穂

高千穂

高千穂

 

高千穂

夕日の山

高千穂

高千穂

 

高千穂

高千穂

高千穂

 

高千穂

高千穂

高千穂

 

その伝説の地が、宮崎県の南部(日向)鹿児島と県境を接する霧島連峰の第二峰「高千穂の峰」だ。

標高は1573mあり、その中腹には「高千穂河原」もある。

山頂にはニニギノミコトが降臨したとき突き立てたとされる青銅製の天逆鉾が立っている。

一説には既に奈良時代には現存していたらしいが、後々の火山噴火で折れてしまい現在のものはレプリカらしい。

その後、折れた刃の部分は行方不明になっているとか。

 

紀元節を祝っていた時代、かつての小学校などでは、天孫降臨の地をこのように教えていた。

しかし戦後に成って比較的自由にものが言えるようになったころから、話しはややこしくなってくる。

否、じつはそうではない、本当の「高千穂」は別にあると言う説が囁かれるようになる。

 

 

神々の里・神話の里

 

それが同じ県内の北部に位置するもう一つの高千穂、「北の高千穂」である。

何れも本家本元を名乗っているが、どちらが比定されるかはいまだに定説がない。

「高千穂」は、九州のほぼ中央、宮崎県の北端部、熊本県と大分県に県境を接する位置にある町だ。

ここは周りを標高1000mクラスの山々に取り囲まれた山間の小さな町で、人口は1.2万人ほどである。

 

高千穂

高千穂

高千穂

 

高千穂

高千穂

高千穂

 

高千穂

高千穂

高千穂

 

かつて高千穂郷には500余りの神社があったと言われ、この地は神々の里と言われ数々の神話が残されている。

町内にはアマテラスオオミカミが籠ったとされる天岩戸(比定された地では無い)が有り、伝説の里でもある。

神話の里、伝説の里「高千穂町」では、町中の至る所で神々と神話に纏わるモニュメントを目にすることが出来る。

 

 昔から神話は神楽として伝承されていて、その天岩戸伝説も「岩戸神楽」として、代々受け継がれている。

その神楽は、はっきりとした文献では、起源を西暦1313年と伝えているらしい。

今の形の神楽が演じられるようになるのは、江戸時代からではないかと考えられているそうだ。

 


 

高千穂峡

 

 町内を流れる五ケ瀬川流域の、「高千穂峡」は高千穂町を代表する観光地である。

御塩井駐車場近くには神社風の三角屋根被った「淡水魚水族館」がある。

それを見ながらその先の「御橋」を渡ると右側にお土産屋さんなどが建ち並ぶ一角が有り周囲は公園になっている。

ここにはチョウザメいる「おのころ池」があり、すだれ滝や水車小屋などを巡る遊歩道が良く整備されている。

 

高千穂峡

高千穂峡

高千穂峡

 

高千穂峡

高千穂峡

高千穂峡

 

高千穂峡

高千穂峡

高千穂峡

 

高千穂峡

高千穂峡

高千穂峡

 

30万年前から活発な活動が続いていた阿蘇山は、大噴火を何度も繰り返していた。

凡そ9万年前の噴火では、その噴出物は九州の半部を覆い、火砕流台地と言われる平原を形成したと推定されている。

 

ここ高千穂町を代表す観光地・高千穂峡は、その噴火の折り噴出した火砕流が大量に流れ込んだところだ。

五ヶ瀬川に沿って帯状に流れ出し、その後急速に冷却され、固結したものが更に浸食によって谷が形成された。

高さ100mと言われる断崖が、東西7キロにも及び続いているV字渓谷だ。

 

『柱状節理の断崖が左右に屹立し、その上を覆うように樹木が繁茂する。

川はあるときは淀んで淵をなし、あるときは岩を噛んで流れ落ちる。

新緑の頃と紅葉の季節の景観はこの世のものとは思えない、すばらしいものだ。』

(「高千穂伝説殺人事件」内田康夫 光文社文庫)

 

高千穂峡

高千穂峡

高千穂峡

 

高千穂峡

高千穂峡

高千穂峡

 

高千穂峡

高千穂峡

高千穂峡

 

高千穂峡

高千穂峡

高千穂峡

 

公園を抜け渓谷に出れば、高千穂大橋脇の駐車場までは1キロ程で、渓谷を巡る遊歩道も伸びている。

最大の見所は滝見台から見る真名井の滝で、これは観光ポスターでも紹介されるお馴染みの景色である。

滝は御塩井駐車場近くのボート乗り場で、手漕ぎボートを借りれば滝つぼ近くまで行くことが出来る。

 

遊歩道の途中には一つの渓谷の一か所に、三本ものアーチ橋が望める全国的にも珍しい有名なスポットがある。

時間が許せばゆっくりと歩いて、そして手こぎのボートで巡るのが良いだろう。

 

 

高千穂線と高千穂鉄道

 

 嘗て高千穂には、国鉄の高千穂線が、また業務移管された高千穂鉄道という鉄道が走っていた。

廃線となったが、跡地利用の観光用車両を天岩戸駅間で運行し、今ではその先の高千穂橋梁まで延長運行している。

嘗ての高千穂駅が、現在では高千穂あまてらす鉄道のスーパーカート乗り場となっている。

 

高千穂鉄道の高千穂橋梁と言うのは、かつて東洋一を誇った鉄道橋である。

その高さは水面から105m、橋の長さは352.5mで、当時は列車も徐行サービスをする絶景スポットであった。

そこをスーパーカーで行って、楽しめるのがこの鉄道の最大の売りのようだが、生憎この日は運休だ。

 

高千穂鉄道

高千穂鉄道

高千穂鉄道

 

高千穂鉄道

高千穂鉄道

高千穂鉄道

 

高千穂鉄道

高千穂鉄道

高千穂鉄道

 

 嘗ての国鉄高千穂線は、国鉄高森線(立野から高森までの間・現南阿蘇鉄)と結ぶ計画が進められていた。

工事が進む中、高森トンネルで工事中に出水事故が発生し中断、その後工事は凍結されてしまった。

この間は23キロほどの距離で、当時工事の全体進捗率は30%ほどあったらしい。

 

この結ばれなかったことが、高千穂線の運命を大きく変えたとも言われている。

この路線が開通すれば、博多〜延岡の間は大幅に所要時間が短縮され、宮崎への短絡ルートになっていた筈である。

もしかすれば、九州を横断する主要な路線に成っていた可能性を秘めていた。

 

 とはいえ、この高千穂線も高森線も昔から繁盛路線では無い。

高千穂線の前身、日ノ影線の時代、高千穂への路線延長工事中に、地元町議会が両線廃止反対の決議を可決した。

このことから、高千穂に延伸される前から、廃線論がくすぶっていたと言うことが解る。

そんな試練を乗り越えた鉄道も、台風には為す術もなく、大被害を受け200812月に廃線となっている。


 

 

高千穂のブランド牛

 

 町の中ほどに「がまだせ市場」と言う、地の農産物や手作り品を販売する市場が有る。

そこにはJA直営の「ミートセンター」が併設されている。

嘗て「全国和牛能力共進会」で日本一を獲得したと言う黒毛和牛の4等級以上の精肉が割安で販売されている。

 

隣接地には「高千穂牛」を味わえる直営のレストラン「和(なごみ)」もある。

「とろけるような甘みのある豊潤な霜降り肉」と言うのが、ここの一番の売り文句である。

ここでは、鉄板焼き・テーブルステーキ・焼肉の3つのコースで、しかも手ごろな値段で楽しむことが出来る。

 

がまだせ市場

がまだせ市場

がまだせ市場

 

がまだせ市場

がまだせ市場

がまだせ市場

 

がまだせ市場

がまだせ市場

がまだせ市場

 

この日、高千穂神社近くの和風旅館に宿を取った。

部屋数は10室ほどで、一泊朝食付きの値段も手頃な、本通から少し奥に入ったところに在る小さな宿だ。

高千穂に来たからには是非味わいたい「高千穂牛」を夕食として外に求めたので朝食付きのこの宿を選択した。

 

早朝に雲海目的の国見岳に上ると言う、団体客の騒々しさに目を覚まされた。

建物自体の造りは決して新しいわけでもなく、それだけに廊下の行き来や、隣室の気配は気になった。

しかし、その分女将の気配りは万全で、ほのぼのとした家庭的な雰囲気を醸し出し、とても良い宿であった。

 

和風旅館 おがたま

和風旅館 おがたま

和風旅館 おがたま

 

和風旅館 おがたま

和風旅館 おがたま

和風旅館 おがたま

 

和風旅館 おがたま

和風旅館 おがたま

和風旅館 おがたま

 

 少し古い資料だが、高千穂町企画観光課が発表した平成24年の観光統計がある。

一年間に同町を訪れた観光客数は、前年より2.4万人余り増え、137.3万人ほどで3年ぶりの増加で有ったと言う。

その内宿泊者数は、前年と比べ増えていて13.5万人ほど、凡そ10人に一人が泊り客と言うことに成る。

 

観光パンフレットによると、「高千穂町」にはホテルや旅館、民宿など合わせて30軒余りが紹介されている。

中には、大型の観光ホテルもあるようで、それがどれほどの稼働率かは知らない。

しかし、殆どがこの日泊った様な小規模の旅館で、恐らく一日平均では数名程度の宿泊者であろう。

そんな厳しい状態を、経営者や女将の行き渡った気配り・心配りが支えているような気がしてならなかった。

 



 

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