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平泉の文化遺産

 


中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡などに残されてきた四つの浄土庭園と、それらに深く関わる金鶏山を中心に、中尊寺金色堂や毛越寺常行堂などから構成される「平泉の文化遺産」が、平成23年世界文化遺産に登録された。

 

奥州平泉は、南の白河関(福島県)から北の津軽(青森県)の地までの中間に位置し、北方領域に展開する奥州藤原氏の中核的な所で、言うなれば日本朝廷の政治的勢力の及ばない地であった。

平安時代末期、仏教の浄土思想の考えに基づいて、奥州藤原氏が三代(清衡・基衡・秀衡)に渡り築き上げてきた、寺院群や庭園は、政治・経済の中心であり、繁栄と潤沢な富の証でもあった。

 

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当時の平泉は人口が10万人とも言われる繁栄の地だ。

そこは奥州だけで産出する金の恵みで、黄金郷と例えられるユートピアでもあった。

そんな地を支配する藤原氏の財力は莫大で、その庇護を受けた寺院群は大いに栄え、当時の中尊寺は毛越寺に次ぐ規模を誇っていたとされる。

 

しかしこのような繁栄・栄華は長くは続かず、急速にしかも劇的に没落・終息してしまい、その虚しさ・はかなさの象徴的な場所ともされてきた。一時勢力も衰えた中尊寺はその後再興し、900年以上もの時を経て、毛越寺などと共に「世界文化遺産」となった。

 

 

奥州藤原文化の中心地

 

 北上川が緩やかにその流れを変える辺り。

現在の東北本線に挟まれるように広がる河岸地に、広大な「柳之御所史跡公園」があり、その一角に「柳之御所資料館」が建っている。当時ここは、旧北上川の古流路で猫間が淵と呼ばれる低湿地と、北上川に挟まれた要塞の地であったようだ。

 

 ここは、奥州藤原氏が政治を行った中心地と考えられるところで、歴史書『吾妻鏡』に残されている「平泉館」と呼ばれていた場所に当たると推定されている。

 

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過去の発掘調査では、中心部を囲うような巨大な堀や苑池、掘立柱住居、井戸などの遺構が確認されていて、その建物はかなり大がかりなものであったことを窺わせているという。また遺跡からは、儀式に使用されたとみられる「かわらけ」が10トン以上も出土、中には中国産のものも多数有り、当時の文化交流の状況を知る手がかりとなっている。

 

「柳之御所」から掘りを隔てた外側に、三代・秀衡によって建立された寺院の跡が確認されている。

「無量光院」と言われる寺院で、京都・宇治の平等院鳳凰堂を模して建てられたという。

また、「柳之御所」から300mほど西方に、秀衡の日常の居館である「伽羅之御所」跡なども有る。

 

 

高館・義経堂

 

 奥州平泉は源義経の縁の地としても知られている。

京都・鞍馬山で育った義経は、後に奥州に下り藤原三代・秀衡の庇護を受けながら源氏の旗上げを待っていた。

そんななか兄頼朝の挙兵を知ると馳せ参じ、平家を相手に奮戦、一の谷、屋島、壇之浦で尽くそれを破り滅亡に追い込んだ。

 

 しかしその後は頼朝と対立、追われる身となった義経が、越後、出羽の国を経て奥州平泉に辿り着いたのは、束稲山の花もすっかり葉桜に代わった頃で、傷つき疲れ果てたその姿を見て、いたわり手厚く迎え入れたのは三代・秀衡であった。

 

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 そんな義経が、小さな平和を愉しんだのが高館の「衣川館」である。

遥かに束稲山を望み、南部平野とそれを割って悠久と流れる北上川を見下ろす場所だ。

そこは中尊寺の東南に位置する丘陵で、秀衡の居館「伽羅の御所」からも、中尊寺からも十町(約1km)とは離れていない。

当時こんもりと木の繁る丘は、片側が切立った崖となっていて、その下は北上川の流れに接していた。

そんな山上に館が有り、その麓には随身たちの武者長屋が二・三十戸ほど建っていたと言われている。

 

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 ここを暗夜、四代・泰衡が急襲した。

秀衡亡き後、嫡男として跡目をどう継ぐか混乱の中、鎌倉の頼朝の圧力に屈しての挙兵である。

時を悟った義経は、長年辛苦を共にした郎党たちに最後の別れを告げ、持仏堂に走り込み、火を放ち自刃した。

時に義経、31歳であった。

 

“夏草や 兵どもが 夢の跡”

 

今は人の気も無い荒れ地に、夏草だけが生い茂っている。かつては功名をかけ、栄華を夢見た戦いの場であったが、荒れ果てた地を見ていると一抹の哀れを感じずにはいられない。

奥の細道を旅した松尾芭蕉は、高館に立ちこう詠んだ。今そこには「義経堂」が建てられている。

 

 

判官びいき

 

 義経は高館に火を放ち自刃した。

その数か月後、頼朝は大軍を率いここ平泉へ攻め入った。

世を知らぬ四代・泰衡には、これを支える術も無く、父祖三代にわたって築かれた平泉の栄華は、虚しく火焔に包まれ灰塵に消えるのである。

 

義経の首は死後四十数日を経て、黒漆の棺の美酒に浸され鎌倉に届けられたが、頼朝は自ら首実検はしなかった。

また命じられた家臣の侍も、哀れを思うとまともに正視出来なかったと言う。

こんな首実検で、それが義経であるとの確証がなされていないこともあり、頼朝による奥州平定後も、「義経死せず」の風評は後を絶たなかったらしい。

 

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高館の「義経堂」に向かう石段の脇に、「伝説義経北行コース」と書かれた表示板が立てられている。

『高館で自刃したのは、実は義経の影武者であり、当人はその一年余り前に密かに平泉を脱出し、北方を目指して旅に出た』

と書かれている。やがて義経は北海道からさらに大陸に渡り、果てはモンゴル帝国のジンギス・ハーンは同一人物であつた、などとまことしやかに語られるようになる

悲運の英雄・義経をここでこのまま死なせたくは無い、と言う庶民の「判官びいき」がこの伝説を生み出したのであろうが、学説的には否定され、残念ながら問題にもされていないようだ。

 

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 この立て看板は岩手県の観光連盟が立てたものらしく、ここ高館を振り出しに、凡そ太平洋に沿って北上、久慈の諏訪神社まで三十数箇所に立てられていて、義経びいきの伝説を巡るコースとして確立されているようだ。

 



 

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