コンテンツ

ホーム

サイト紹介

はれのくに

鉄の旅岡山

の旅

遍路歩き旅

海外旅行

伝統こけし

マイブログ

天台宗別各本山・毛越寺

 

 「天台宗別各本山・毛越寺」は、「世界文化遺産」である「平泉の文化」を構成する寺院である。

平泉では「中尊寺」と並び称される有名なお寺で、古くは「もうおつじ」或いは「けごしでら」などと呼ばれていた時期が有ったそうだが、今日では「もうつうじ」が定着した呼び名となっている。

 

入口で拝観券を求め、武家屋敷のような門を潜る。

この入口はおよそお寺の山門らしからぬ門で、これは江戸時代にこの付近を治めていた一の関藩・田村氏の城門を移築再建したものだと言う。

 

4030101.JPG

4030102.JPG

4030103.JPG

 

4030104.jpg

4030105.jpg

4030106.JPG

 

 潜ると左手に「宝物館」が、右手に雪に覆われた「大泉が池」が見える。

その間を貫く広い参道の先に建つのが、平安時代の建築様式に倣い、平成元年に再建された朱塗りの柱も鮮やかな一山の根本道場「本堂」で、そこに安置される本尊の薬師如来像は平安時代の作と言う。

 

 「毛越寺」は嘉祥三(850)年、慈覚大師円仁により開山されたお寺で、その後、藤原氏二代・基衡と三代・秀衡の時代に再興がすすみ、多くの伽藍が造られた。

往時は堂塔四十余宇、僧坊五百を超え、中尊寺を凌ぐ規模と華麗さを誇っていたという。

そう言えば先ほど訪ねた「高館・義経堂」の券売所の男性が、「ここは毛越寺が管理する場所だ」と言い、「当時は寺域も広く、その勢力は中尊寺を凌いでいた」と誇らしく語っていた。

 

4030107.JPG

4030108.JPG

4030109.JPG

 

4030110.JPG

4030111.JPG

4030112.JPG

 

 藤原氏の再興により一時は栄華を極めたこの寺も、藤原氏の滅亡後は頼朝が武門の祈願所としたが、次第にその勢力が衰え、さらに度重なる戦火や、三度の火災に会い、建物などすべてが焼失した。

実はこの「毛越寺」では、創建当初からの伽藍らしい建物や、仏像・仏具・経典など何も残されてはいず、殆どが焼けてなくなった。境内では江戸時代に再建されたと言う常行堂が一番古い建物であるが、それ以外残されたのは「大泉が池」と呼ばれる池と、広大な荒れ地だけであった。

儚く消え去った寺は、その後長い間放置され再興されることも無く、草生す静寂の中に取り残されていた。

 

 

夢の跡・大伽藍

 

そんな地を、昭和29年から5年間にわたり全面的な発掘調査が行われた。

その結果毛越寺の規模、池とかかわる浄土庭園、平安時代の伽藍など、寺域の全容がほぼ完全な形で保存されていることが解り、その全体像が解明された。それらの遺構は旧来を彷彿させる姿を留めており、「吾妻鏡」などの古文書の記述と合致することなどから、伽藍の復元図が起こされた。

 

 奥州藤原氏は奥州を貫く「奥大道」と呼ばれる街道を整備していた。

その道筋に残されているのが「本堂」手前右手にある「南大門跡」である。東西の桁行が三間、南北の梁行が二間の平面を持つ「二階惣門」で、その存在は「吾妻鑑」にも記載が残されているらしい。

今この地に立つと、土の中に整然と埋った礎石が見て取れる。数えてみると12個ある。

 

4030201.JPG

4030202.JPG

\4030203.JPG

 

4030204.JPG

4030205.JPG

4030206.JPG

 

4030207.JPG

4030208.JPG

4030209.JPG

 

ここが浄土庭園の中心となる「大泉が池」への入り口になる。

池は東西180m、南北90mほどあり、池の中央に勾玉状の「中島」が造られている。惣門からは中島に向け長さ17間の反り橋が架かり、そこからはさらに10間の橋が対岸に掛かっていた。その遺構である挟石や橋杭などが残されているが、わが国では最古の橋遺構であると言う。

 

 その対岸には「万宝を尽くした」と言われる「毛越寺」の中心伽藍、金堂である「円隆寺」が煌いていた。

寺は翼廊と呼ばれる回廊が東西に延びる華麗な寝殿造りである。

奥州を攻め藤原氏を滅ぼした源頼朝も、荘厳な伽藍に感嘆し「霊場の荘厳は吾朝無双」と幕府の史書に書き残す程であった。

金堂から延びる翼廊の先には二階建ての「鐘楼」や「経楼」が置かれていたらしい。

 

4030214.JPG

4030210.JPG

4030211.JPG

 

4030212.JPG

4030213.JPG

4030215.JPG

 

4030216.JPG

4030217.JPG

4030218.JPG

 

寺域の各所に残る遺構は、今は礎石しか見えないが、ほぼ完全な姿で残されているという。

広大な境内を発掘すると、今日でも玉砂利が出土するのだそうだ。当時は池や伽藍を取り囲むように、一面に玉砂利が敷き詰められていた。伽藍の遺構は、池を中心に浄土庭園を形成し、それは平安時代末期の様式を良く表しているといい、その規模は浄土庭園と言っては思い浮かべる宇治・平等院を、はるかに凌ぐものであったと言う。

 

 


浄土庭園と大泉が池

 

大泉が池にも見所は多い。惣門跡から少し行った南西側には「築山」がある。

水際に大小の石を幾つか組み立上げたもので、水面からは4mの高さがあり、その上から松が水面を覆うように伸びている。

深い淵に臨む断崖を、枯山水で表わしたものだそうだ。

 

4030301.JPG

4030302.JPG

4030303.JPG

 

4030307.JPG

4030305.JPG

4030306.JPG

 

その反対側の東部には、柔らかい曲線を描く「州浜」が造られている。

これは南西部の「築山」の厳しい崖とは対極をなす物で、池を浅くしてその水際に玉石を敷き詰め、柔らかい曲線で穏やかで美しい海岸線を表現している。

 

 「築山」と「州浜」の中間に位置するのが「出島石組・池中立石」だ。

池辺から大小の岩が水中に飛び石となり、その先端の出島には大きな岩がそそり立っていて、これは荒海を表している。

池の中で最も美しい景観の一つとされる象徴的なもので、池全体の引き締め効果を果たしていると言う。

 

4030310.JPG

4030311.JPG

4030312.JPG

 

4030313.JPG

4030314.JPG

\4030315.JPG

 

 このように池には、色々な場所に意図した造形が加えられている。

それは平安時代に書かれた、わが国最古の庭園書「作庭記」の内容に基づいて作られたものらしく、現代的考察では学術的にも貴重な池と言われている。

 

 しかし現代の評価がどうであれ、ここ「毛越寺」は仏教で言う「極楽浄土」を具現化した場所である。

日が沈む西方に阿弥陀堂を造り、阿弥陀如来を安置し、命ある者すべてが安らぎ救われる浄土とした。

庭園の池は現世である此岸と神聖な彼岸を隔てるもので、この浄土には長い戦乱の時代に命を落とした人々を救いたいと言う、先人たちの祈りの場としての思いが強く込められている。

 

4030304.JPG

4030308.JPG

4030309.JPG

 

4030316.JPG

4030317.JPG

4030318.JPG

 



 

| ホーム | 国内の旅行 | このページの先頭 |

 

(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved.

 

inserted by FC2 system