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名松線


 

 紀勢本線の松坂からは、伊勢奥津までの43.5Km15の駅で結ぶ名松線が出ている。

昭和4年8月に権現前までの7キロが開通したのがその始まりで、その後段階的に延伸が行われ、伊勢奥津までが開業するのに6年余を要している。駅は全て三重県内にある非電化の路線で、運行は凡そ2時間に1本程度だ。

 

路線名の「松」は起点の松坂の頭文字であるが、不思議なことに路線内の各駅に「名」の字の付く駅は無い。

それもその筈、もともとは奈良県の桜井と結ぶ計画が途中で名張に変更された経緯がある。

しかしそんな計画も近鉄大阪線が先に開業したことでとん挫、その後は貨物輸送に活路を期待し延伸が行われてきたものの、それも伊勢奥津止りとなり盲腸線で終わってしまったのだ。

かつて終着駅から名張方面へのバス接続もあったようだが、今はそれすら廃止されている。

 

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 国鉄時代には赤字による廃線の勧告対象となった典型的なローカル線であるが、当時は沿線の道路事情も悪く代替輸送手段の確保が難しいと言う事でどうにか生き長らえてきた。しかも200910月の台風18号では、急峻な山間部の家城―伊勢奥津間の路線で、38か所も土砂崩れなどの甚大な被害を受け運行が出来なくなった。

 

 元々一日の利用者も700人と少なく、年間収益4000万円に対し維持費が約8億円もかかっていることも有った。

特に被災を受けた区間は一日利用客が90人程度まで落ち込んでいたこともあり、JR東海は復旧を断念、沿線の道路事情も好転していることからバス輸送に切り替えてきた。

 

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 ところがJR東海は地域住民の根強い再開要望や後押しもあることから、三重県や津市が行う治山事業や水路整備事業の進捗に合わせ、名松線の復旧工事に着手し、4.6億円もの投資により被災から65か月を経てようやく運行にこぎ着けたのである。

災害で被害を受けたローカル線がそのまま廃線になる例は少なくはなく、こんなに長い期間をかけて復旧する路線は国内では珍しいことで日本記録だそうだ。

 

 

伊勢奥津駅

 

 名松線は松坂を出るとしばらく紀勢本線を北に向かい、最初の駅の手前でその本線と離れ、しばらくは市街地を長閑に走る。

沿線に雲出川が近づくころになると山々に囲まれた農村から、次第に山間の風景に変わる。ここら辺りは嘗て林業で栄えた村々だが、周辺にはそんな山々を切り開いたゴルフ場が幾つも立地していて、そんな景色を見せながらローカル線は長閑に走る。

 

 終着駅の伊勢奥津は、「おくつ」ではなく、「おきつ」と読ます駅で、松坂駅からは80分ほどで到着する。

ここは駅舎側に一面ある狭くて長いホームと、その先行き止まりの一線があるだけの無人駅であるが、かつてはこのホームの他に、島式一面二線のホームも有ったと言う。駅舎も昭和10年の開業当時のままの木造のものが長く残されていたらしいが、平成17年に外観を似せたログハウス風の地域住民の交流センターを併設した真新しいものに建て替えられている。

 

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 そんなホームの先の線路上には赤茶けて錆色をした車両止めが有り、その前にはSL時代の名残の給水塔が、蔓草の絡まった台座の上で錆びた姿を曝しながら残されている。

誰が詠んだものなのか、「機関車の給水あとやススキ原」の句が書かれた札が架けられていた。

 

たった一両の車両と小さな駅舎は寂寥感溢れる終着駅そのものの風景だが、その脇にはしだれ桜が植えられているので、花の咲くころなら桜と錆びたタンクとこれらの絵柄は、きっと郷愁を誘う中にも華やいだ駅風景になるのではなどと思ってみたりもする。

 

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伊勢本街道

 

 名松線の終着駅・伊勢奥津駅を出て、緩い坂道を100mほど下ると、細い街道に行き当たる。

これは大和と伊勢神宮を結ぶ伊勢参宮道で「伊勢本街道」と言われる道だ。

古くからお伊勢参りは庶民の強い憧れであったようで、江戸時代には最も人気の高い観光地はお伊勢さんだと言われていて、そこに向かう街道の賑わいは東海道に次ぐほどであったようだ。

 

 「伊勢本街道」もそのルートの一つで、これは都からは最短コースで「参宮本街道」とも呼ばれていた。

猿沢の池を出発し、榛原、多気、津留、田丸などの宿場を経て伊勢の山田に至る129キロの街道だ。

しかし距離が短いゆえここは厳しい山道が多く、人々はそんな難渋を避け、遠回りにはなるが平たんな名張から松坂に抜ける伊勢北街道(青超之道)を行くようになり、この街道はいつしか衰退の道を歩んでしまったそうだ。

 

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 伊勢を目指す街道は幾筋も整備されていたようだが、十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」でも、弥次さん喜多さんは東海道とは四日市の追分で別れ、「伊勢街道」と呼ばれるルートを歩いている。

当時庶民の間では「講」をつくり、皆で小銭を貯め合い、それを元手に代表者がお参りする代参は当たりまえのように行われていたと言う。

 

現在も行われているのかは知らないが以前、奈良大学が「実践歴史学」の一環として、学生を中心に昔の「講」を組み、手作りの草鞋を履いて、本街道を四泊五日で歩いて伊勢に向かう活動を行ったことがテレビや新聞などでも話題に取り上げられたことが有った。

そんな話題もあり、近頃のウオーキングブームなどで、街道は再び脚光を浴びるようになっているとも聞いた。

 


 

伊勢奥津宿

 

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ここ奥津は、「伊勢本街道」の宿場町として栄えたところである。

伊勢奥津駅から続く道を100mほど下り、そこを左折したあたりが、かつて宿場町として栄えた奥津の中心的な場所だと言う。

 

 曲がりくねった街道の道筋には、木造瓦屋根葺の平入の古い民家が幾つも残されている。

その軒先には格子戸が嵌められ、正月飾りや餅花などで彩られた玄関先には山中や、江戸や、尾張屋などと古い屋号を染め抜いたカラフルな暖簾が掛けられている。この通りには昔からの屋号が残る家が多いらしく、そんな屋号を染め抜いた暖簾を掲げ、「のれん街道」とした町おこしには50軒余りが参加していると言う。

 

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街道端の木標に「須郷おんばさん 0.4Km」と書かれていたので、何かと聞いてみれば昔からこう呼ばれる祠が有り、延命地蔵が祀られているのだそうだ。

街道はここから更に東に向かい飼坂峠を経て上多気、相可などの宿場を過ぎたら南下、その先が伊勢に続いている。

かつてはこの地にも数軒の旅籠が有ったらしいが、今日の街道筋には昭和22年ころまで旅館をしていたと言う「中北屋」などが残されているだけだが、建物は旧街道の旧旅篭の面影を色濃く見せている。

 

静かな落ち着いた佇まいを見せる街道沿い町並みは、かつての宿場町の面影を良く残している。

今では人々の行きかう賑わいは無くなってはいるが、車などの往来が少ないのがかえって旧道らしく、このままお伊勢さんまで歩いてみたいなどと思わせる雰囲気を良く醸し出している。

 

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