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お伊勢さん参り

 

 滑稽本「東海道中膝栗毛」では、弥次さん喜多さんは宮の宿から七里の渡しで桑名宿に渡り、四日市の日永追分で東海道を離れ、伊勢街道を神戸、白子、上野、津、雲津、松坂、小俣と宿場を辿り、ようやく山田にやってきた。

 

『人家九千軒ばかり、商買甍をならべ、各々質素の荘厳濃にして、神都の風俗おのづから備り、柔和悉鎮の光景は、余国に異なり、参宮の旅人たえ間なく、繁昌さらにいふばかりなし。』(「東海道中膝栗毛五編追加」十辺舎一九)

こうして念願の伊勢神宮への参拝を済ませている。

 

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 江戸時代の庶民にとって「お伊勢さん」への参拝は、全国的に「おかげ参り」が大流行したとは言え、「せめて一生に一度」とて成しえ無い重大事であった。

この時代には街道も整備されるが、庶民が比較的自由に往来出来るようになったのは元禄期以降と言われている。

「お伊勢さん」と親しみを込めた愛称も丁度この頃定着したらしいが、実際の参拝ともなると憧れ以外の何物でもなかったようだ。

 

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何せ江戸日本橋から東海道を辿り、四日市・日永の追分までは100里以上(約410Km)もある。

ここで伊勢街道に入ってからも、およそ18里(約70Km)の道のりが待っている。

如何に当時の人々が健脚とは言え、1000キロにも及ぶ行き来となれば、一か月を要する長旅となり、その費えともなるとそれは庶民の生活費の一年分にも相当すると言われ、並大抵のものではない。

 

それでも当時は、乏しい中生活費を削り皆でコツコツと銭を積み立てて、講の代表に、或いはかわいい我が子にやっとの思いで何とか代参旅を願い、その土産話でようやく行ったような気になった・・・ようである。

 

 

伊勢神宮

 

 「神宮(じんぐう)」と言うのが「伊勢神宮」の正式な名称だそうだ。

今日国内に凡そ8000あると言われる神社の中でも「伊勢神宮」は、社格の対象外とされる別格の神社であると同時に、元々は皇室の氏神で、国家鎮護の最高神とされ、古くから日本国民にとっては参拝の憧れ、強い崇敬の対象となって来た。

 

 門前町を後にして鳥居をくぐり五十鈴川に架かる宇治橋を渡ると、そこはもう森に包まれた内宮の境内にと入り込む。

ここに建つ鳥居も、橋の欄干や床板にも式年遷宮を終えたばかりのまだ新しさが感じられる。

大勢の人々が踏みしめるこの橋の床板は、20年の間にその厚みが半分ほどになる聞いたことが有る。

 

ここ「神宮」では20年ごとに正殿を造り変え神座を遷し返る式年遷宮が長きに渡り行われていて、近年では平成25年には62回目が無事終わったところだ。

 

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砂利の敷き詰められた参道を進むと、やがて右手が開け、敷き詰められた石畳が、御裳濯川(みもすそがわ)に設けられた御手洗場の流れへと導いている。

手を清め、再び参道に戻り、瀧祭神の辺りで参道が左に折れると、いよいよ神宮の核心に入り込む雰囲気で、さすがにここら辺りには門前町の喧騒も届かず、聞こえるのは森で遊ぶ野鳥のさえずりと玉砂利を踏みしめる足音だけである。

 

 やがて森が切れると正面に正殿の真新しい鳥居と建物が見えてくる。聖域は当然のことながら撮影も禁止だ。

石段を踏みしめるように一歩一歩上り、2000年の歴史を引き継いだ三種の神器の一つ八咫鏡と天照大御神をお祀りする社の前で頭を垂れ、日々の無事息災をご報告する。

御神前ではお願い事をするのではなく、「おかげさまの感謝の心」を捧げるのが作法とされている。

 

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おはらい町

 

 昔から「お伊勢さん参り」は、まず外宮にお参りし、その後1里あまり離れた内宮をお参りするのが正式とされていた。

したがって、伊勢参宮道も当然外宮を経て内宮に至り、五十鈴川に架かる宇治橋付近が終点であった。

 

「お伊勢さん参り」のブームが起こった江戸時代に、庶民を伊勢に誘い、道中の案内や、現地で宿泊の世話をしたのは「御師」と呼ばれた人たちであった。当時この人たちの館が多く建ち並んでいたのが、この街道の終点辺りの門前町である。

念願の「お伊勢さん参り」が無事終われば、次に待つのは今も昔も門前町での精進落しの歓楽である。

「御師」の館では訪れる客を、お祓いや神楽の上演、豪華な食事でもてなしていたことから、何時の頃からか、この町を「おはらい町」と呼ぶようになったそうだ。

 

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宇治橋から五十鈴川に沿ったおよそ800mの町並みがその「おはらい町」である。

当時の「御師」繁栄の歴史が終わった今日では、館に変わってたくさんの土産物屋、食事処などが建ち並び、電線の地中化された通りには石畳が敷かれレトロな雰囲気を醸し出している。

 

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 しかしそんな町も繁栄の時代ばかりではなかったようだ。

国道が整備され、参宮有料道路が開通し、更にマイカーブームが到来すると、神宮を訪れる参拝客は自家用車やバスの利用が多くなり、観光客の動線が大きく変化した。結果参拝客はあるものの、おはらい町に入り込む客はその10分の一にも満たないほどに激減し、危機感を感じた町がようやく動き出すことになったのだそうだ。


 

 

おかげ横丁

 

 「おはらい町」の再生は、伊勢が最もにぎわった江戸から明治の時代の風情を再現しようとするもので、切妻・入母屋瓦葺の木造建屋が、妻入りで建ち並ぶ町並みの復元であった。

通りに面したコンビニですら、その仕様に合わせる徹底ぶりには驚かされる。

神宮の正殿などが平入で建てられていることから、それと同じでは畏れ多い事から妻入りとした伊勢特有の景観である。

 

 更に61回目の式年遷宮に合わせ、おはらい町に隣接した4000坪の地に飲食店や土産物店、美術館、資料館など57店舗からなる「おかげ横丁」がオープンした。江戸時代にタイムスリップしたかのような町並みは、伊勢を代表するお土産の「赤福」の角を曲がった辺りに広がっている。

 

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 「おはらい町&おかげ横丁」で、町は往時の繁栄ぶりを取り戻したと言われている。

大釜を店頭に飾った「赤福」の本店では、出来立ての柔らかい餅が味わえるとあって多くの観光客で賑わっている。お昼時ともなれば、名物の伊勢うどんや、てこね寿司を食べさせるお店の前には行列ができる。高級な所では、松坂牛、そのサイコロ串焼き、握り寿司や、イセエビのお造りなどを出す店から、気軽に食べ歩けるみたらし団子の店、ソフトクリームやスイーツの店、地ビールの店など美味しいものが揃っているのもこの町並みの魅力である。

 

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 横丁らしく通りには、腰を下ろして休み、店で買ったものを食べるなどするスペースも用意されていて、そこでは談笑をする多くの参拝客の声が弾んでいる。

江戸期には「お伊勢参り」を終えたら旅の仕上げに、古市の遊郭で命の洗濯をしたと言われている。

今も昔も精進落しに弾ける庶民の姿は変わらない。



 

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