補陀落渡海信仰
那智駅前から世界遺産・熊野古道巡りのまず初めは、緑濃い森に佇む「熊野三所大神社」と「補陀落山寺」だ。
熊野詣でが「蟻の熊野詣」と言われた頃、丁度この辺りが中辺路・大辺路・伊勢路の分岐地であったらしい。
当時は「浜の宮王子社」と呼ばれていた。
那智山を参拝する前に、この那智の浜(補陀落浜)で心身を清める潮垢離を行った場所と伝えられている。
当時は「渚の森」と呼ばれる鬱蒼とした森が有ったが、今では樹齢800年余と言われる一本の大樟が残るのみだ。
そしてここ那智は、補陀落浄土とみなされた場所である。
那智の浜に面し、「浜の宮王子社」の隣に建つ「補陀落山寺」が、「補陀落渡海」の東門となったのだそうだ。
「補陀落」とは、南方の彼方にあるとされる観音菩薩の住まう浄土のことだ。
「補陀落渡海」はそこに向けて渡海船に乗り、南の海の果てを目指す、いわば生きながらの水葬のことである。
船に拵えられた屋形に渡海の信者が入ると、外から釘で打ち付け、出られないように閉じ込められる。
僅か一か月分の食料と少量の燈油を乗せただけの舟は、この浜から潮に流され大海を漂う事となる。
このなんとも切ない捨身行「補陀落渡海」は、その後静かに入水し、往生を迎えるだけの行である。
この行は、平安時代から江戸時代に入って18世紀初頭辺りまで続けられたと言う。
この浜から船出し観音となった信者は、25人を数えたと境内に立つ石碑は古の信仰を伝えている。
熊野古道・大門坂
田辺から紀伊勝浦を経て、那智を結ぶ「熊野古道」の一つ大辺路は、「熊野三所大神社」の辺りで終点となる。
道はここで終わりではなく、更に中辺路、或は伊勢路へと引き継がれて行く。
その中辺路の一部とされ、ここから那智山に至る熊野古道「大門坂」が、この付近には残されている。
那智駅を出て、「熊野三所大神社」「補陀落山寺」を背に、那智川に沿った県道を山に向かい5キロほど行く。
長閑な里山を貫く道路脇に無料の大門坂駐車場が有るので、車で訪ねるならここが拠点となる。
那智駅前でバスに乗ったなら、もう一つ先の大門坂で降りることに成り、ここまで10分ほどだ。
大門坂と書かれた石柱と、その脇に立つ熊野古道の石碑を見て、何の変哲もないような緩い坂を5分ほど上る。
新道が整備されるまでは、この古道が生活道路として使われていたと言うだけによく整備された道だ。
やがて前方に鳥居が有り、その手前には旧新宮藩の関所跡(十一文関)の立て札が見えて来る。
昔はここに大きな門を構えていて、それがこの坂の名の由来らしい。
近くには関所の遺構(石造りの流し台など)も残されていて、何となく古道らしい雰囲気が現れ始める。
鳥居をくぐり、赤い欄干の振ケ瀬橋(ふりがせばし)と言う小さな橋を渡る。
この橋は俗界と聖域を分ける境の橋と言われ、橋を渡ればいよいよここから先は神域に立ち入ることに成る。
その先にある大門坂茶屋では平安衣装のレンタルがあり、それを着ての記念撮影が人気だそうだ。
その茶屋を過ぎると夫婦杉と呼ばれる推定樹齢800年の老杉が見えて来る。
古道に向かう道の入り口に立つ丁度門柱のようで、坂の両側に立ち聳える2本の杉だ。
苔むした色の古道
那智山を目指す熊野道は、都より凡そ80里(320Km程)、往復すると一か月を要したと言われている。
その最後の難関が那智山に向うこの大門坂で、参詣道はその距離650m、石段は267段、標高差100mほどの道だ。
多雨地域の参道を守る石畳が敷かれたが、石は未加工の丸石ではなく、ちゃんと平らに加工された石が遣われている。
石一つ見ても、山深い地にこれだけの道をよくぞと、その凄さを感じる石段がどこまでも続いている。
石段の脇の苔むした木立の根元には、町石が埋められている。
凡そ1町(約109m)ごとの道標で、これにより自分が、どれほど登って来たのかが良く解る仕組みだ。
更に上ると地元の人たちが、「児宮(ちごのみや)」と呼び親しんでいると言う多富気王子跡がある。
参道の樹齢数百年を超える杉木立は、その数132本余り有ると言われ、そのほかにもクスノキも多数ある。
この道は、「苔むした色の古道」と言われる通り、熊野古道の中では非常に保存状態が良い古道の一つとされている。
しかし実際に歩いてみると、石畳や石段にはさほど苔が生している様子は感じられない。
思うに、世界遺産に指定された事で、俄かにハイキング等で訪れる人の往来が増えてしまった。
或は参道維持の為両側の木が切り倒され、又自然に朽ちる木等で、昔ほどの鬱蒼感が薄らいでしまった。
こんなことから、折角の苔が剥がれ落ちてしまったのでは、と推察をしてみる。
何れにしても、やがて入山制限なんて事態にならなければ良いが、といらぬ心配をしながら石段を登りつめる。
那智熊野大社
息が上がり始める頃ようやく石段を登りきると、那智山スカイラインに通じる道路脇に設けられた駐車場に出た。
ここからはさらにお土産屋さんなどが建ち並ぶ473段の石段参道が待っている。
そこからは境内も近く、木立の隙間からは赤い社殿が望まれるようになる。
それを登りつめ、朱塗りの鳥居をくぐると境内へと入り込む。
そこには熊野三山の一つ、熊野信仰の中心地である「熊野那智大社」が鎮座していた。
近頃はパワースポットとして若い女性の参拝も多いらしい。
それを意識してか社務所では平安衣裳の貸出しサービスがあり、境内や滝を巡って写真を撮るのが人気なようだ。
鎮守山を背景に建つ鮮やかな朱塗りの各社殿は、東西横一列に配されている。
その建物には彫刻を殆ど用いないなどシンプルな作りで有るが、華やいで重厚な雰囲気が感じられる。
そんな社殿の連なりは荘厳そのもので、特徴的な配置や形式は「熊野権現造り」と言うらしい。
境内で一際目立つ大クスは、平重盛のお手植えと伝えられている。
樹高が27m、幹回りは8.5mもあり、その枝は25mも張り出すと言う堂々たる大木で、県の天然記念物だ。
根元は人が入り込めるような空洞になっている。
またここには、古くから熊野の神様のお使いとされる「八咫烏」の伝承が残されている。
神武天皇東征の道案内を終えた後、この地で姿を変え休んでいた「烏石」が境内にあり、有料で公開されている。
「八咫烏」は日本のサッカー界とも縁があり、シンボルマークになっている。
那智青岸渡寺
お土産屋さんなどが建ち並ぶ473段の石段参道の分かれ道で、左に取れば、「熊野那智大社」に向かう。
右に取れば仁王門を潜ってその境内のすぐ隣に立つ「那智青岸渡寺」だ。
共に熊野信仰の中心的な古社で、古くから多くの参拝者を集めてきた。
ここは神仏習合の修験道場で、明治の分離令が出た後も、仏殿が残り今日の寺として復興された歴史がある。
一重杮葺き入母屋造りの本堂は、豊臣秀吉が再建したと伝えられている。
この地の標高は500m余りで、周りを見渡すと随分と山深く、ここからの眺望は素晴らしい。
周りを、那智山原生林(国の天然記念物)を抱える1000mクラスの山々が取り囲んでいる。
那智の谷が深く抉れていて、遥か彼方には太平洋が望まれ、標高以上に深山幽谷に踏み入れたような趣が有る。
その谷には熊野古道・大門坂がこの地まで延びている。
ここからはその杉並木や、それを取巻くように広がる那智の集落、門前町の広がりを見下ろすことが出来る。
かつてその集落には、参拝者のための宿坊などが沢山有ったと言う。
目を転じると木立の欠けた岩肌に、再建された三重塔を前景にして流れ落ちる一条の滝が目に留まる。
「熊野那智大社」の別宮「飛瀧神社」の御神体として崇められる「一の滝(別名、那智の滝)」だ。
その幅は13m、落差は日本一の133mで、滝壺は深さが10mもあり、殆ど垂直に落下する日本三大名瀑の一つだ。
かつてはこの地に本殿が有り、滝の神様を祀っていたと言う。
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