ここは串本
「♪ここは串本 向かいは大島 中をとりもつ巡航船・・・♪」
古座を過ぎる辺りから左手車窓には、太平洋の絶景が間近に広がって見えるようになる。
ここらあたりは沖を流れる黒潮の影響で、冬でも雪を見ることが無いと言われるほど温暖な地だ。
列車が串本駅に到着する少し前、車窓左手には沖合1.8kmに浮かぶ大島(正式には紀伊大島)が見えて来る。
東西約8Km、南北約2.5Km、周囲が28km、島に住む人口も2000人を数えると言う和歌山県下では最大の島である。
そんな大島が見えてくると串本に到着だ。
串本は本州最南端の駅である。
紀伊山地から延びた陸地が、半島となって太平洋に突き出した潮岬半島が位置する所にあるのがこの町だ。
その岬は東京都の八丈島とほぼ同じ緯度に位置していて、本州最南端の町でもある。
目の前に広がる海も温暖で滋養豊か、温帯と熱帯の入り混じった海中景観が楽しめるらしい。
昔からマリンスポーツやフィッシュウォッチングが盛んな町でもある。
嘗ては串本から対岸の紀伊大島に向け、フェリーや巡航船が頻繁に行き来していたそうだ。
就航した当初は20分ほどを要したらしく、これが島への重要な足となっていた。
離島振興策により島に念願の橋が架けられたのは、平成11年9月のことだ。
ループ橋とアーチ橋の二本の橋が、1キロほど離れた潮岬半島とを結び付けている。
これで待望の本州と繋がり、島を結ぶ船は姿を消すことになったのだそうだ。
橋杭岩
この地には昔に遡れば、「弘法大師立岩伝説」が残されている。
それは天邪鬼が大師に向けた、離島と陸地を結ぶ橋の、一晩の内の早や架け競争の誘いである。
無理を承知で戦いを挑んだ天邪鬼であった。
一方大師は、山から切り出した大岩を軽々と海に立て、橋杭を並べる作業を黙々とこなしていた。
そんな姿を盗み見て、驚きの余り邪魔をしようと鶏の朝鳴きを真似たのだそうだ。
それを聞いた大師は、朝が来たものと思い作業を途中でやめてしまい、その状態が今に残されているのだと言う。
国の天然記念物に指定されている「橋杭岩」の起源伝説である。
串本の沖合1.8Kmに浮かぶ紀伊大島に向けて、丁度橋でも架けようとするかのように奇岩が立ち並んでいる。
大小40余りに及ぶ岩は、海による浸食の為、岩の固い部分だけが残り、建ち並べた橋の杭のように見える様になった。
こんな伝説を聞き知ると、昔から架橋願望が強かったことが良く解る。
駅から西方に6キロ程離れた海岸には、観光の中心施設ともいえる「串本海中公園」が有る。
「海と水族館がまるごと楽しめる」のが売りの施設だ。
海の中に建つ海中展望台や水族館、ダイビングパーク、レストラン、売店などの施設が揃っている。
本州最南端・潮岬
紀伊山地から延びた陸地が、半島となって太平洋に突き出し、海に激しく落ち込む潮岬半島の突端が潮岬である。
ここは、気象情報や台風の進路予想などではお馴染みの場所だ。
「台風〇号は、潮岬の沖合〇キロ付近を、北北東に向けて・・」などと良く耳にする。
その岬には「望楼の芝」と呼ばれる広大な芝生広場が広がっている。
この地には昔、日清戦争を受けて海軍が造った物見櫓の遺構が残されている。
太平洋が遥か彼方まで、何も遮るものもなく見通せる場所だからその施設が造られたようだ。
近くに建つ観光スポットの一つ、潮岬観光タワーは、7階建ての円柱形をした建物だ。
ここでは300円を払って入場すると「本州最南端訪問証明書」を発行してくれる。
エレベーターで最上階まで昇ると、そこは海抜100mの展望台である。
ここから目の前の太平洋を望めば、地球の丸さが実感できる素晴らしい眺望が楽しめる。
又反対の北に目を転じれば、世界遺産・那智の山並みまでが見渡せると言う。
西には、「日本の灯台50選」にも選ばれた、白亜の潮岬灯台が望まれる。
ここからは800m程離れた30mの断崖上に建っていて、内部は有料で公開されている。
現在の石造りの灯台に成ったのは明治11年と言うから、ゆうに100年以上もの長い年月を経たことになる。
灯台は、海上交通の要衝を行きかう船舶の為に、海上安全のために、今も照らし続けている。
またこの施設にはオーシャンビューのレストランが併設されている。
串本沖で獲れた新鮮な魚介料理の他、近畿大学が完全養殖に成功したマグロが「近大マグロ」として提供されている。
軍艦・エルトゥールルの悲劇
潮岬半島から平成11年に架けられたループ橋とアーチ橋の二本の橋を渡ると、紀伊大島に入る。
島に入り、海を臨むことが殆ど無い、島の中央部を貫いている道を東に向かうとそこが樫野埼だ。
ここには日本最古の石造り灯台である樫野埼灯台が建っている。
辺りは黒潮が岬にぶつかり、海蝕が進む崖や岩礁が複雑入り組んだ厳しい海岸線となっていて、景勝の地である。
近くの海、金剛は「21世紀に残したい日本の自然100選」に選ばれている。
そんな地で、折からの台風に煽られた一艘の軍艦が岩礁に激突し座礁した。
明治23(1890)年9月16日夜半、機関部に浸水した艦は、水蒸気爆発を起こし沈没、500名以上の犠牲者を出した。
当時のオスマン帝国(現在のトルコの一部)の軍艦・エルトゥールル号(全長76m)の悲劇である。
灯台下に流れ着いた僅かな生存者は、必死に崖をよじ登り燈台守に助けを求めた。
通報を受けた村は、住民たち総出で生存者の救出と介抱に当り、結果69名が救出され無事生還を果たした。
当時の村は大して豊かでもない中、衣類や食料などを出し、非常時用に飼っていたニワトリすら惜しみなく提供した。
事故が衝撃的なニュースとして全国に報道されると、たちまち多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。
この事故における時の明治政府や村民の対応は、その後の日本とトルコの友好関係の礎となった。
先のイラク・イラン戦争の折、窮地に立った日本人に、その時の恩返しと、トルコ政府が手を差し伸べた事があった。
トルコ航空により、215名の脱出劇を生んだ事は、「親日国トルコ」を語るエピソードとして記憶も新しい。
このことはその後小説や映画などでも取り上げられ、語り継がれ広く知られるようになった。
灯台そばに立つ「殉難将士慰霊碑」や「トルコ記念館」では、そんな友好の物語を今に伝えている。
白浜・三段壁
串本を出た列車は、西から少しずつ向きを変えながら、やはり海岸線に沿って北上する。
半島が海に落ち込む辺りの沿線には、急勾配区間が有り、トンネルも多く、小さな曲りを幾つも繰り返しながら進む。
白浜は、「アドベンチャーワールド」や、「南紀白浜温泉」が知られた人気の地である。
かつては東の熱海、西の別府と並んで新婚旅行の人気地として知られた時期もあったようだ。
三段壁は、長さ凡そ2q、高さ50〜60mに及ぶ柱状節理を見せる大岸壁である。
南紀白浜の観光名所の一つで、断崖絶壁の名勝として知られている。
展望台からは、雄大な南紀の海に伸びるこの吉野熊野国立公園に指定された大岸壁を望むことが出来る。
ここは「恋人の聖地」に認定されていて、愛を誓う南京錠を掛けたハートのモニュメントがおかれている。
また近くには、ピンクのポストも置かれていて、感謝や愛の告白を告げる投函が出来る。
更に、源平合戦の折熊の水軍が舟を隠したと伝わる洞窟もあり、エレベーターで降りることになる。
紀伊田辺
その先で、車窓に賑やかな町並みが戻ってきたら紀伊田辺に到着である。
新宮や串本発の列車の多くはこの駅停まりで、ここで御坊や和歌山行に乗り換えることに成る。
「世界遺産熊野古道」観光の拠点駅らしく、色々と趣向を凝らしたものがホームで旅人を迎えている。
改札脇には、畳敷きの小上がりの有る待合室「平安茶屋」が有り、中辺路をイメージした小庭園も造られている。
「牛馬童子」の木造モニュメントは、樹齢110年の紀州杉からチェーンソーで削りだしたものだ。
平成17年の町村合併により誕生した新田辺市を記念して建立された。
「田辺の三人」と書かれた看板が有った。
南方熊楠、植草盛平、武蔵坊弁慶の三人の似顔絵で、当地が生んだ偉人・有名人と言うことらしい。
南方熊楠は、明治・大正・昭和にかけて活躍した生物学者で、民俗学にも造詣の深い人物として知られている。
今年が生誕150年の年で、その頭脳は「歩く百科事典」と言われるほど卓越していたと言う。
武蔵坊弁慶は、紀伊の国は西牟婁郡、田辺の生まれ、新熊野の別当職湛増法眼の倅 幼名は鬼若丸と言う。
後には源平の合戦で源義経の腹心として活躍したことは良く知られていて、馴染みのある人物だ。
又、植草盛平は調べてみると、日本武道家で合気道の開祖とされる人物とあった。
終点・和歌山市駅
紀伊田辺から出る電車の多くは御坊行だが、中には和歌山まで行くものもある。
御坊では0番線で、営業キロ数が僅か2.7キロと言うミニ鉄道、紀州鉄道と接続する。
駅の数は5つ、平均時速20キロと言う市内電車並みの速度で、終点の西御坊までを約8分で結んでいる。
(紀州鉄道は、平成29年1月22日の脱線事故により運休中。)
古い鉄道地図で調べると嘗ては更に数百mほど先の、日高川が太平洋に流れ込む河口辺りの港に終着駅が有った。
今は、廃止になっている。
JR駅と市街地を結ぶ生活路線は、日本最短のローカル私鉄として、鉄道フアンも多いらしい。
紀勢本線の終点は和歌山駅ではなく、そこから更に3.3Kmほど西に向かった先の和歌山市駅である。
本線の電車の中には、ここから先の阪和線にそのまま乗り入れるものもあるが、多くはこの駅止まりだ。
ここから本線終点の和歌山市駅に行くには、僅か6分程度の乗車ではあるがここで乗り換えることになる。
その本数は1時間に2本程度である。
私鉄の南海本線も乗り入れる和歌山市は、人口がおよそ36万人、和歌山県の県庁所在地である。
紀ノ川左岸に開けた町で、その中心市街地はどちらの駅からも少し距離がある様だ。
江戸時代には徳川御三家の一つ紀州徳川家の城下町で、和歌山城を始め近隣には雑賀衆所縁の場所や名所・旧跡も多い。
| ホーム | 国内の旅行 | このページの先頭 |
(c)2010
Sudare-M, All Rights Reserved.
|