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ナガシマスパーランド

 


関西本線を行く快速・みえは、名古屋から15分ほどで木曽川に架かる大きな橋梁を渡り、愛知から三重への県境を越える。

ここら辺りは木曽三川、すなわち木曽川、長良川、揖斐川(伊尾川)が伊勢湾に流れ出る沖積地帯で、この川に囲まれた低地は古くから「輪中」と呼ばれた土地である。

 

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そんな地に有る長島(快速の停車駅ではない)は、「ナガシマリゾート」の最寄り駅・・とは言っても近いと言うだけで路線バスの便もなく(コミュニティバスはあるが便数が極めて少ない)アクセスは頗る悪い。

そこに向かうには多くの場合、電車ではなく名古屋や桑名から直通バスを利用することに成る。

関西圏や中京圏からは、伊勢湾自動車道(湾岸長島IC)や東名阪道(長島IC)など高速道路のアクセスが良い。

 

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「ナガシマリゾート」は、日本有数のアミューズメント施設、ジャンボ海水プール、大自然露天風呂、アウトレットモールや幾つもの温泉ホテルなどを併設した複合レジャー施設で、中京圏に近いと言うだけではなく、関西圏からのアクセスも良く、気軽に出かけられると人気のスポットである。

 

その中の中心的な施設である「ナガシマスパーランド」は、国内第二位の広さを誇り、数々の絶叫マシンが人気を呼んでいる。

スチームドラゴン、ホワイトサイクロン、アクロバット、ルーピングスター・・・などなど、捻りや回転を利かした高速に躍動するマシンがめじろ押しで、その数も含め日本有数の規模を誇っている。

 

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宝暦の治水

 

 その昔木曽三川は、流れが定まらない暴れ川であった。

いまでは完全に分流され、更に強靭な堤防で囲まれ、この地が水禍に煩わされることも少なくなったが、この地には激しく壮絶に繰り返し続けられてきた、水との戦いの悲しくも力強い歴史が秘められている。

それは「薩摩藩士による宝暦の治水」と言われる史実である。(詳しくは、「孤愁の岸」杉本苑子 1982年 講談社文庫)

 

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 江戸時代この「輪中」地帯の尾張藩側(徳川御三家の一)には、「お囲い堤」が聳え建っていたが、美濃側はそれよりは一段と低い堤しか築く事を許されていなかった。木曽三川はそれぞれの水面の高さが違うため、ひとたび豪雨に見舞われると、大水害から逃れることの出来ないのがこの地の、特に美濃側の宿命でもあった。

 

 幸か不幸か、巨大な河川がもたらすのは災害だけではない。度重なる氾濫は、尾張・美濃を広大な沃地にし、豊かな農産物をもたらすものでもあった。しかし幕府は、それでも大水害を見捨ててもおけず、川普請に着手することになる。

とはいえ、幕府が直接金を出し工事を行うのでは無く、当時の有力な大名、薩摩藩77万石にその工事を下命する。

薩摩藩の勢力を衰えさせるための、外様潰しの方策で有る。

 

剣術では後れを取らないと自負する薩摩隼人でも、土木工事は全くの素人集団に過ぎず、彼らが立ち向かうには、自然の猛威は余りにも大きなもので、その工事は凄惨を極めることになる。

 

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 宝暦四年一月、総奉行・平田勒負(ひらたゆきえ)を初めとする薩摩藩士947名は美濃の地に派遣されることに成る。

工事区域は三川の河口域から上流に向けた数十キロの広範に渡ったが、もともと地盤が緩い低湿地な上、とにかく流れる川の水の勢いが強いところで、工事は難渋を極めた。何度も自然の猛威に苦しめられる過酷な飯場は、人と自然とが闘う凄惨な消耗戦となり、人柱まで立てて、ようやく完成したと言われるほどに困難を極めることに成る。

 

慣れぬ地で疫病に倒れ、望郷の念を抱きつつ朽ち果てる藩士も多数出た。

中でも最大の難工事は、木曽川と伊尾川(揖斐川)の流れを分離する「油島千間堤」で、多くの犠牲者を出した。

藩士を事故や病で亡くし、藩に多額の借財を残した責任、度重なる設計変更や工事費の増額など、幕府の不条理な対応への義憤。

それらを決着させ、鎮魂の思いを込めた平田勒負は、労苦を共にしながら、半ばで逝った多くの藩士と共に、かの地に眠ることを決意、終には自裁するのである。

 

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 しかし、その死すら「持病による病死」と届けられている。

当時割腹は「お家断に処す」と定められていたから、身を呈した抗議も幕府に伝えられることが無かったのだ。

宝暦五年六月、島津藩主・薩摩守重年は、幕府に請負普請の完成を届け出ている。

出来栄検分を終えた背割り堤約1Kmには、勒負らにより薩摩から取り寄せられた日向黒松が植えられた。

今その場所は「油島千本松原」と名付けられ国の史跡に指定され、その北端には勒負を祭神とする「治水神社」が祀られている。

 


 

おちょぼさん

 

 治水神社から北に10キロ程行った旧海津町の町中に、今から500年余前の室町時代の創建で知られる稲荷神社がある。

「御先祖の御霊を千代に保て」との教えから、正式には「千代保稲荷神社」と言うが、地元では「おちょぼいなり」や「おちょぼさん」の愛称で親しまれている。

この社もお決まりのように、京都の伏見、愛知の豊川と共に日本三代稲荷の一つを名乗っている。

 

 この神社参拝の楽しみは、南口大鳥居から神社の門前を経て、東口大鳥居に至る800mほどの参道に立ち並ぶ100軒以上にも及ぶ様々な店巡りだ。食べものなら草餅、串カツ、ドテ煮、漬物、川魚料理などと多彩で、特に淡白な味で美味しいナマズのかば焼きはこの地方の名物料理として知られている。招き猫や、子供のおもちゃ、お菓子、野菜、果物、唐辛子などなど何でもありの参道は、雑然とした雰囲気がどこか懐かしく、昭和の香りがプンプンする通りである。

 

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神社としてはどこの町中でも見かけるような小さな社域で、規模的にも余り大きいとは言えないが、商売繁盛、家内安全などのご利益があるとされ、特にこの地域での信仰には目を見張るものがあり、年間の参拝者は200万とも250万人とも言われている。特にお正月の初詣や、月末の夜から月初の朝にかけてお参りする「月並祭」が知られていて、徹夜でお参りする老若男女が尽きないと言う。

 

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参拝は社前で「おあげ」と「ローソク」のセットを買い求め、献灯所で「ローソク」を献じ、その奥の社殿に「おあげ」をお供えしてお参りする。お供えされた「おあげ」は、時におさがりとして参拝者にふるまわれたりもする。

商売繁盛を願う人は、お賽銭に名刺を張り付けて投げ込んだり、霊殿に自身の名刺を挟み残し、お願いするのだそうだ。

 



 

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