コンテンツ

ホーム

サイト紹介

はれのくに

鉄の旅岡山

の旅

遍路歩き旅

海外旅行

伝統こけし

マイブログ

ようござったな亀山


 

 「ようござったな亀山へ」「ようこそ亀山市へ」、降り立つと、こんな歓迎の掲示が目に留まる。

紀伊半島を巡る紀勢本線との接続駅でもある関西本線の亀山駅は、JR東海と西日本会社の境界駅でもある。

それだけに駅の規模は、1面1線の単式ホームと、12線の島式ホームが二つの、3面5線を誇っている。

 

9030101.JPG

9030102.JPG

9030103.JPG

 

9030104.JPG

9030105.JPG

9030106.JPG

 

そんな駅前には大きな石造りの鳥居が建っていて、これはヤマトタケルゆかりの能褒野(のぼの)神社の一の鳥居だと言う。

駅の名所案内に寄れば、その神社は北へ7Kmと書かれていたが、実際には亀山の一つ名古屋寄りの井田川が最寄り駅で、ここからは1.2Kmと近い。その能褒野はヤマトタケルが死去した地で、その周辺にある古墳がタケルの墓だと伝えられていて、その地に建立されたのが能褒野神社と言う事らしい。

 

9030107.JPG

9030108.JPG

9030109.JPG

 

9030110.JPG

9030111.JPG

9030112.JPG

 

9030114.JPG

9030115.JPG

9030113.JPG

 

 駅を出ると少し行った右手に観光案内所が有った。

「亀山城址から隣の関宿まで、ウォーキングコースが出来ていますよ。8キロ程です」と教えられる。

ここ亀山も次の関も、東海道五十三次の宿場町として賑わった歴史がある。

市は市内の井田川地区から小野地区に至る約11Kmの間を、情緒あふれる東海道「江戸の道・亀山宿」のハイキングコースとして整備している。

 

駅を背にして、古い屋並みの中にお城山に向かって緩やかに登る道を行く。

その途中激しく車の行きかう旧国道1号線の掘割を下に見る。この地では新道がここに引かれたことにより、旧東海道の道筋が残されることになった。

駅から10分ほど歩くと、道の脇によく整備された小さな公園「お城見庭園」がある。

 

9030116.JPG

9030117.JPG

9030118.JPG

 

9030119.JPG

9030120.JPG

9030121.JPG

 

 お城見庭園の近くに「石井兄弟敵討ち跡」の石碑が建てられている。

元禄時代に敵討ちがこの亀山場内石坂で行われたと言い、歌舞伎や講談ネタにもなっているらしい。

 

そこを真っ直ぐに登りつめると亀山城址で、高さ13メートルの天守台と呼ばれる石垣の上に、多門櫓が建っている。

明治の廃城令により取り壊された亀山城に有って、唯一残された遺構である。

 

 

江戸の道・亀山宿

 

お城下の小さな公園「お城見庭園」には46番目の宿場町の碑が建ち、旧東海道筋が公園を巻き込むように通っていて、そこを行くと武家屋敷や問屋場跡が残る旧東海道筋に出る。

今日の東海道筋は、人も車もほとんど通らない長閑な道で、所々で曲り見通しのきかない造りがいかにも城下町らしい。

その両側には古びた格子戸のある低い家並みが続いていて、問屋場跡等も有り、当時の繁栄ぶりを窺い知ることが出来興味深い。

 

9030201.JPG

9030202.JPG

9030203.JPG

 

9030204.JPG

9030205.JPG

9030206.JPG

 

9030207.JPG

9030208.JPG

9030209.JPG

 

9030210.JPG

9030211.JPG

9030212.JPG

 

それぞれの家の玄関先には、江戸時代当時の屋号の書かれた小さな木札が掛けられている。

これは地元の「きらめき亀山21町並み保存会」が歴史的な佇まいを復活させようとの発案で行われたものらしく、今では地元でもこの旧町時代の屋号で呼び合っていると言う。

城下には亀山城主・石川家の家老職を務めた加藤家の屋敷跡が有り、その表門である長屋門と土蔵も遺されている。

 

9030213.JPG

9030214.JPG

9030215.JPG

 

9030216.JPG

9030217.JPG

9030218.JPG

 

9030219.JPG

9030220.JPG

9030221.JPG

 

9030222.JPG

9030224.JPG

9030223.JPG

 

亀山宿のこの辺りから次の宿場・関までは1里半程の道程だ。

その途中には徳川幕府が整備した街道の里程標・野村の一里塚が残されている。

三重県内の街道筋には12か所の一里塚が設けられていたが、現存するのはここだけで、塚には樹齢400年の椋の大木が聳え立っているらしい。

 

 

関宿の町並

 

 関宿は、東の追分から西の追分まで、1.8 Kmの区間に江戸から明治にかけて建てられた、古い町屋が200軒余り残されていて、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

明治以降全国各地で、新しく鉄道や国道が整備されていく中、ここ関では幸いにもこの古い街筋を避けて建設された事で、街並みがそのまま残り伝統地として保存される事に成る。

 

9030301.JPG

9030302.JPG

9030303.JPG

 

9030304.JPG

9030305.JPG

9030306.JPG

 

 街道には弁柄塗りの鴨居や柱、くぐり戸や表の立て格子などの家が目につき、屋根や壁には、漆喰の彫刻が施されていたりする。

町屋の店先には“ばったり”と呼ばれる上げ下げが出来る棚も残されている。

商品を並べたり、街道を通る人びとが座ったりしたものだ。また店先では、環金具を見かける事がある。

馬や牛を繋ぐための金具で、その取り付ける高さによって、馬と牛を使い分けていたらしい。

 

9030312.JPG

9030313.JPG

9030314.JPG

 

030316.JPG

9030318.JPG

9030317.JPG

 

 街道筋の中ほどに、百六里庭と呼ばれる小さな公園がある。

江戸から丁度百六里の距離にある事から名付けられた公園には、眺関亭と言われる展望所があり、ここからは関宿の低い屋並みの中に、緩い曲線を描いて通り抜ける街道が一望できる。

 

9030331.JPG

9030330.JPG

9030332.JPG

 

9030333.JPG

9030334.JPG

9030335.JPG

 

9030327.JPG

9030328.JPG

9030329.JPG

 

 宿場の中間あたりのその先、一際大きな瓦屋根の建物が地蔵院だ。

天平時代の開基と伝えられている古刹で、境内の本堂、鐘楼、愛染堂が国の重要文化財に指定されている。

関の地蔵尊として知られ、これは日本最古のものだそうだ。

街道筋にあって、広がる境内にはお参りの人びとやガイドを伴った観光客で賑わっていている。

 

地蔵院のあるあたりが中町と言われるところで、関宿の中心的な場所らしく、高札場が残されていてここらでは観光客の姿も一段と多く見かける。門前に建つ会津屋は関宿を代表する旅籠の一つで、今はお食事処と成っている。

文久年間に建てられて米屋・川音や、鍛冶屋などが軒を連ねる一帯は、より宿場町らしい風情を醸し出している。

 

9030315.JPG

9030319.JPG

9030320.JPG

 

9030321.JPG

9030322.JPG

9030323.JPG

 

9030324.JPG

9030325.JPG

9030326.JPG

 

 そんな通りで醤油の焦げる香ばしい匂いに誘われて店を訪ねると、高校生の孫が祖母の手伝いと言って、みたらしを焼いていた。

ここの名物は、“志ら玉”と言われるお菓子だ。

上新粉で出来た生地に、北海道産小豆で作ったこし餡を挟んだもので、江戸時代から続く伝統的なお菓子らしい。

緑、黄、赤で可愛らしく飾られた生地、甘さを控えたお菓子は、いくつでも欲しく成る素朴な味である。

またこの地には11代も続くと言う銘菓「関の戸」で知られたお菓子屋さんもある。

 

9030309.JPG

9030310.JPG

9030311.JPG

 

9030336.JPG

9030337.JPG

9030338.JPG

 

9030339.JPG

9030341.JPG

9030340.JPG

 

 町中を歩いていると時々、大きな板戸を閉ざした、細長く背の高い建物を見かける。

元禄年間から伝わる「関の曳き山」の山車を格納する建物である。最盛期には16基もの山車が有ったという。

華美を競うためたくさんの提灯を下げ、見送り幕や横幕で豪華に飾り立て、笛太鼓で囃し立て、家々の軒先をかすめ、人ごみをかき分けて巡行していたので、山車の巡行は「これがギリギリで、精一杯である」と言われたそうだ。

この事から“もう目いっぱい、これ以上は無理”と言う意味で生まれたのが「関の山」で、この祭りが語源に成ったと言われている。

 

 

鈴鹿の関

 

「昔此処鈴鹿の関成。故に関と言う」

亀山宿から凡そ1里半、江戸日本橋からは百六里の距離に当たる旧東海道47番目の宿場町、“関”には7世紀ころには「伊勢鈴鹿の関」が設けられていた。しかしその関所(お役所)の存在は間違いがないが、その場所となると位置が度々変えられ、今日の研究でも特定することは出来ないのだそうだ。

 

東の追分には、伊勢神宮の一の鳥居と常夜灯、道標が建っている。

ここはお伊勢参りに向かう、伊勢別街道(伊勢参宮道)への分かれ道でもあり、伊勢山田外宮まではおよそ15里と記されている。

 

9030401.JPG

9030402.JPG

030403.JPG

 

9030405.JPG

9030412.JPG

9030406.JPG

 

9030404.JPG

9030408.JPG

9030407.JPG

 

9030409.JPG

9030411.JPG

9030410.JPG

 

 江戸時代の旅人は、一日十里を目途として歩いたと言われているから、江戸日本橋を旅立った人々は、ここまで10日ほど歩き続けて来たことになる。東海道を二週間余りで踏破する旅人にとってこの宿場町は、最後の難所鈴鹿越えを前に、京・三条大橋に近づいて関西の匂いを感じ始めながら、しばし身体を休める場所でもあったようだ。

 

 そんな宿には、本陣が2軒、脇本陣が3軒あり、旅籠の数は90軒を数えたという。

当時の人口は2000人程度で、600軒余りの家屋が建ち並んでいて、中には色々な商いをする商家も軒を連ね、芸妓、飯盛り女も多く、大そうな賑わいだったと伝えられている。

因みに当時の宿賃は200文(凡そ890円)、人足一人56文(凡そ200円)、飯盛り女は500文(凡そ2200円)が相場であったらしい。

 

9030413.JPG

9030415.JPG

9030414.JPG

 



 

| ホーム | 国内の旅行 | このページの先頭 |

 

(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved.

 

inserted by FC2 system