ようござったな亀山
「ようござったな亀山へ」「ようこそ亀山市へ」
駅のホームに降り立つと、こんな歓迎の掲示が目に留まる。
紀伊半島を巡る紀勢本線との接続駅でもある関西本線の亀山駅は、JR東海と西日本会社の境界駅でもある。
それだけに駅の規模は、1面1線の単式ホームと、1面2線の島式ホームが二つ、3面5線を誇っている。
駅前には、ヤマトタケルゆかりの能褒野(のぼの)神社の大きな石造りの一の鳥居が建っている。
駅の名所案内に寄れば、その神社は北へ7Kmと書かれていた。
しかし実際には亀山の一つ名古屋寄りの井田川が最寄り駅で、ここからは1.2Kmと近い。
その能褒野はヤマトタケルが死去した地で、その周辺にある古墳がタケルの墓だと伝えられている。
その地に建立されたのが能褒野神社と言う事らしい。
駅を出ると、少し行った右手に観光案内所が有った。
「亀山城址から隣の関宿まで、ウォーキングコースが出来ていますよ。8キロ程です」と教えられる。
ここ亀山も次の関も、東海道五十三次の宿場町として賑わった歴史がある。
市内の井田川から小野に至る約11Kmを、東海道「江戸の道・亀山宿」のハイキングコースとして整備している。
駅を背にして、古い屋並みの中、お城山に向かって緩やかに登る道を行く。
その途中激しく車の行きかう旧国道1号線の掘割を下に見る。
この地では新道がここに引かれたことにより、旧東海道の道筋がほぼ昔のまま残されることになった。
駅から10分ほど歩くと、道の脇によく整備された小さな公園「お城見庭園」がある。
そのお城見庭園の近くに、「石井兄弟敵討ち跡」の石碑が建てられている。
元禄時代に敵討ちがこの亀山場内石坂で行われたと言い、歌舞伎や講談ネタにもなっているらしい。
そこを真っ直ぐに登りつめると亀山城址がある。
高さ13メートルの天守台と呼ばれる見事な石垣の上に、多門櫓が建っている。
明治の廃城令により取り壊された亀山城に有って、唯一残された遺構である。
江戸の道・亀山宿
お城下の小さな公園「お城見庭園」には46番目の宿場町の碑が建っている。
道路が公園を巻き込むように通っていて、そこを行くと武家屋敷や問屋場跡が残る旧東海道筋に出る。
今日の東海道筋は、人も車も少ない長閑な道で、所々で曲り、見通しのきかない造りがいかにも城下町らしい。
両側には古びた格子戸のある低い家並みが続き、問屋場跡等も有り、当時の繁栄ぶりを窺い知ることが出来る。
それぞれの家の玄関先には、江戸時代当時の屋号の書かれた小さな木札が掛けられている。
これは地元の「きらめき亀山21町並み保存会」が歴史的な佇まいを復活させようとの発案で行われたものらしい。
今では地元でもこの旧町時代の屋号で呼び合っていると言う。
城下には亀山城主・石川家の家老職を務めた加藤家の屋敷跡が有り、その表門である長屋門と土蔵も遺されている。
亀山宿のこの辺りから次の宿場・関までは1里半(凡そ6q)程の道程だ。
その途中には徳川幕府が整備した街道の里程標・野村の一里塚が残されている。
三重県内の街道筋には12か所の一里塚が設けられていたが、現存するのはここだけである。
塚には樹齢400年の椋の大木が聳え立っている。
関宿の町並
東海道の亀山宿の次は、関宿である。
東の追分から西の追分まで、1.8 Kmの間に江戸から明治にかけて建てられた、古い町屋が200軒余り残されている。
この東海道筋は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
明治以降全国各地で、新しく鉄道や国道が整備されていく中、ここ関では幸いにもこの古い街筋を避けて建設された。
隣の亀山と同様、そのお陰で、こうした古い街並みがそのまま残り、伝統地として保存される事に成る。
街道には弁柄塗りの鴨居や柱、潜り戸や立て格子等の家が有り、屋根や壁には漆喰の彫刻が施されていたりする。
町屋の店先には“ばったり”と呼ばれる上げ下げが出来る棚も残されている。
商品を並べたり、街道を通る人びとが座ったりしたものだそうだ。
又店先で、馬や牛を繋ぐ環金具を見かける事があるが、取り付ける高さによって、馬と牛を使い分けていたらしい。
街道筋の中ほどに、百六里庭と呼ばれる小さな公園がある。
江戸から丁度百六里の距離にある事から名付けられた公園で、眺関亭と言われる展望所がある。
ここからは関宿の低い屋並みの中に、緩い曲線を描いて通り抜ける街道が一望できる。
宿場の中間あたりのその先、一際大きな瓦屋根の建物が地蔵院だ。
天平時代の開基と伝えられている古刹で、境内の本堂、鐘楼、愛染堂が国の重要文化財に指定されている。
関の地蔵尊として知られ、これは日本最古のものだそうだ。
街道筋にあって、広がる境内にはお参りの人びとやガイドを伴った観光客で賑わっていている。
地蔵院のあるあたりが中町と言われるところだ。
関宿の中心的な場所らしく、高札場が残されていてここらでは観光客の姿も一段と多く見かける。
門前に建つ会津屋は関宿を代表する旅籠の一つで、今はお食事処と成っている。
文久年間に建てられて米屋・川音や、鍛冶屋などが軒を連ねる一帯は、より宿場町らしい風情を醸し出している。
関の山
通りで醤油の焦げる香ばしい匂いに誘われて店を訪ねると、高校生の孫が祖母の手伝いでみたらしを焼いていた。
ここの名物は、“志ら玉”と言われるお菓子だ。
上新粉で出来た生地に、北海道産小豆で作ったこし餡を挟んだもので、江戸時代から続く伝統的なお菓子らしい。
緑、黄、赤で可愛らしく飾られた生地、甘さを控えたお菓子は、いくつでも欲しく成る素朴な味である。
またこの地には11代も続くと言う銘菓「関の戸」で知られたお菓子屋さんもある。
町中を歩いていると時々、大きな板戸を閉ざした、細長く背の高い建物を見かける。
元禄年間から伝わる「関の曳き山」の山車を格納する建物で、最盛期には16基もの山車が有ったという。
華美を競うため沢山の提灯を下げ、笛太鼓で囃し立て、見送り幕や横幕で豪華に飾り立て巡行する伝統行事だ。
山車は家々の軒先を掠め、人ごみをかき分けて巡行していたので、「これがギリギリで精一杯」と言われたそうだ。
この事から、「もう目いっぱい、これ以上は無理」と言う意味で、「関の山」と言う言葉が生まれた。
それは、この祭りが語源に成ったと言われている。
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