岬の高台に建つ・最御崎寺
景色に見とれ海岸の遊歩道を歩き続けていたために、肝心の登山口を見落としてしまった。
結局スカイラインの入口まで来てしまい、引き返すのも癪で、そこを登ることにした。
太平洋の眺望が素晴らしい。
登るほどに視界が開け、眼下に碧い大海原と、海辺に犇めく坂本から津呂に続く集落が箱庭のように見える。
この景色が気を紛らわし慰めてくれるからか、結構キツイ上り坂の割には、さほど疲れは感じない。
足もテーピングのお陰で、痛みはあるものの歩けない痛さではないから有りがたい。
スカイラインを30分ほどかけて登ると、門前の駐車場に到着する。
さすが県下でも有数な観光地だけあって自家用車や観光バスも多く、白衣の遍路や観光客等で賑わっている。
車から降りた人々は、狭い車内から開放され、足取りも軽く一団となって寺に向かう急坂を登っていく。
息を切らせながら暫く行くと、左手に第24番札所・最御崎寺の山門(仁王門)が見えてくる。
最御崎寺は別名を「東寺(ひがしてら)」と言い、かつては女人禁制のお寺であったが、明治に入り解禁された。
仁王門を潜ると正面には本堂が、右手に多宝塔、左手には大師堂を抱えて建っている。
その裏手には宿坊が続いているようだ。
駐車場から続く坂道を、仁王門には向かわず上り詰めると、室戸岬灯台が建っている。
(室戸市観光協会HPより)
始めてこのお寺を訪れたのは、まだ20代初めの頃、田宮虎彦の小説「足摺岬」に刺激されての事である。
小説の舞台が、どんなところかこの目で確かめたくなり、遥々足摺岬を訪れたことがあった。
その折、折角ここまで来たのだからと、この室戸岬にも足を伸ばしたのだ。
電車とバスを乗り継いで、登山口でバスを降りる頃には、辺りはすっかり暗く成っていた。
車掌さんに教えられた道ではあったが、裸電球しか無い山道を一人で心細く登った記憶は今も忘れられない。
当時泊まったユースホステルは、最御崎寺へんろセンター(宿坊ホテル)として営業を続けているようだ。
海の駅・とろむ
スカイラインを下り切ると国道に並行して坂本、津呂の集落を抜ける旧道がある。
津呂には土佐の国司、紀貫之の「土佐日記」縁の港が有るらしい。
広い道を歩いていると、いたるところに「昭和9年 海嘯襲来地点」の石碑を見かける。
後から広辞苑で“海嘯”を調べて見ると、読みは“かいしょう”とあった。
“満潮の際に遠浅の海岸、特に三角形状に開いた河口部に起こる高い波”で、津波とは異なるようだ。
昭和9年9月21日室戸岬付近に台風が上陸した。所謂室戸台風だ。
最低気圧911.6hPaを記録し、大阪湾を横切り近畿地方に再上陸、猛烈な勢力を保ったまま駆け抜けた。
各地で高潮の被害が発生し、死者・行方不明者3,036人、負傷者1万5千人近くとなる、未曾有の被害が発生した。
この岬周辺の集落にも、大きな高潮が押し寄せ、甚大な被害を齎したようだ。
石碑はこのときの高潮の襲来を今に伝えるものらしい。
旧道を抜け、再び国道55号に合流する。最御崎寺から25番の津照寺までは7キロ弱、2時間ほどの道のりだ。
昨日とは違って今度は左手に海が広がって見える。
1時間ほどで「海の駅 とろむ」に到着し、ここで休憩がてら昼食を摂る。
尾崎の女将が「お接待だ」と言って出掛け持たせてくれた心づくしのお弁当である。
おにぎりに、バナナ、みかん、乳酸飲料、それに僅かばかりのお菓子が添えられていた。
栄養バランスを考えた、女将の心遣いが本当に嬉しい。
通称津寺・津照寺
なんの変哲も無い国道を更に40分ほど歩くと、左手前方に小型の漁船が何艘も係留された室津港が見えてくる。
土佐山之内藩の家老、野中兼山が苦労をして改修した港らしい。
港を開くにあたり、兼山の部下、普請奉行の一木権兵衛は人柱になったと言う、そんな悲しい話を秘めている。
エメラルド色の静か水面は、その悲しみを今に伝えているようにも映っている。
港の先広い道路を隔てた反対側には、何軒かのお店が連なり小さな門前町が見えている。
土地の人から「津寺」と呼び親しまれている、第25番札所・津照寺に着いたようだ。
最御崎寺からは凡そ7q、2時間弱の行程である。
最御崎寺が女人禁制で有ったため、一般の在家の人との交渉はこの寺が勤めていたらしい。
山門(朱門)を入るとすぐ右の平地に大師堂と納経所がある。
その前に120段余りのかなりな急勾配の石段がそびえ、途中には竜宮城のような鐘楼門(仁王門)を構えている。
それを潜り、更に登った先に小さな本堂がる。
本堂前から振り返れば、眼下に室戸の大海原が広がっていた。
参拝を終え、門前の茶店で「野根まんじゅう」を買い求め、しばらく休憩がてらそれを頂く。
20代初めの頃、足摺から室戸を見ての帰り道、甲浦でバスを降り、時間も有ったので町中を少し歩いてみた。
たまたま町中で見付けた店に躊躇いながら入り、買い求めたのがこの饅頭である。
その店先でしゃがみ込んで貪るように食べていると、暫くしてお店の人がお茶を持ってきてくれた。
以来、四国を来訪した折は、定番の土産となった。
明治・大正生まれの両親には、「昭和天皇に献上された有名なお饅頭だ」と、よく買って帰ったものだ。
すると「勿体無い」「有りがたい」と封も切らず、先ず仏壇にお供えし、すぐには食べようとしなかった。
そんなことが懐かしく思い出される、味でもある。
評判の宿坊料理・金剛頂寺
次の第26番札所・金剛頂寺までは、4qほどであるが、最後に山登りが待っている。
長閑な町中を1時間ほどかけて行った先の上りは、30分程見る必要がありそうだ。
左手に見える海岸は元海岸、ウミガメが上陸して産卵する海岸として知られている。
小さな元川を渡って右折すると、山に向う自動車道があり、少しずつ登っている。
そこを行くと途中に、大きく右に曲がる自動車道とは分かれ、直進する遍路道を案内する看板が出てきた。
自動車道なら40分、遍路道なら15分とある。
厳しいことは覚悟の上で、やはり遍路道を選択し、人家の間の道に入り込むと、登るほどにその幅は狭くなる。
やがて地道の山登り道となり、生い茂る草木をかき分けて登る地道は、次第に厳しさが増してくる。
歩き始めて1時間半、遍路道が途絶え、厄除けの石段を登ると山門があり、その先に広い境内があった。
寺は室戸三山の一つで、「西寺(にしでら)」とも呼ばれている。
今日泊るここの宿坊は、「料理が素晴らしい」との評判が遍路の間では広く知られている。
参拝の後隣接する「西寺檀信徒会館」に入る。
本館は団体が使うからと案内されたのは、会館の一番奥の離れの部屋で、それはもったいない程の広さがあった。
部屋には宿坊にしては珍しく、テレビが有ったが、それは文化財級の今時珍しいチャンネル式の旧型である。
夕食は6人ほどが座れる円卓に、各人が好きなところに座る方式で、鯖瀬の宿坊と比べると随分と自由がきく。
中央に回転卓があり、豪華な刺身の盛り合わせ、季節のお寿司等の、大皿が並べられている。
他にも一人ずつに取分けたてんぷら、茶碗蒸し、酢の物、漬物などが所狭しと並べられている。
知らない者同士だが、遍路談義に花を咲かせながら料理を楽しむのだから、まるで宴会をしているように賑やかだ。
大きな団体も同席で、お接待のお母さんたちもてんてこ舞い、凡そお寺の宿坊とは思えない雰囲気だ。
どのグループも、今夜はことのほか話とアルコールが進んでいるようだ。
飲んだビールは各々が、会計時に自己申告するのだが、誤魔化す者はまず居ないと言う。
両足の指の爪は、何本かが黒く変色している。
足の裏の肉刺は、もはや潰れて跡形もなく、尾崎で同宿の女性遍路に頂いたテープで、グルグル巻状態だ。
この日は部屋に入り、入浴と洗濯を済ませた後、痛む足のケアに時間が掛かり、そればかりに気を取られていた。
残念なことは、折角の豪華な食事風景をカメラにおさめておこうと気が回らなかったことだ。
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