リベンジ

 

朝早く岡山で土讃線の特急・南風1号に乗り換えた。

そこから後免までは、2時間半足らずで到着し、ここで土佐くろしお鉄道に10分ほどの連絡で乗り換える。

ここ後免はその昔、町の繁栄を図って色々な税を免除されたので「御免」の名が生まれたと言う。

それが後に町名として「後免」に改められたのだそうだ。

 

リベンジ

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リベンジ

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リベンジ

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前回無念のリタイアをした野市迄は、更に10分程かけて到着し、駅ナカの産直市でお弁当を仕入れ歩き始める。

9月も半ばと言うのに、四国は連日の30度越えの暑い日が続いている。

今日も昼前なのに結構日差しがきついが、竜馬歴史館を左に見て進む道は、気温の割には歩きやすくて快適だ。

周辺は県内でも温かい土地柄らしく、農家では色々な作物が作られ、豊かな収穫をもたらしているらしい。

 

 

花の寺・大日寺

 

そんな風景を見ながら、1.5キロ程進むと市街地を離れ、遍路道らしい地道のちょっとした登り道が現れる。

暫く登るとやがて車道に合流し、その先に門前の茶店が右手に見えてくる。

その前に境内に続く石段があり、その途中に構える仁王門を潜ると第28番札所・大日寺だ。

寺は金剛山(265m)の山裾の、小高い場所に伽藍を構えている。

 

大日寺

大日寺

大日寺

 

大日寺

大日寺

大日寺

 

 寺はサンシュウ、コブシ、シダレザクラ等、四季折々の花が美しいところとして知られている。

土佐藩の祈願寺として、七堂伽藍や末寺、宿坊などを構え、栄えた歴史が有るが、明治に入り一時廃寺となった。

正面に本堂、その右手に大師堂、その前がチョッとした広場に成っている。

 

納経を済ませ、山門を抜け、この小さな山を下る。

駅前から続く県道を横切り、烏川の小さな橋を渡り、9q先の第29番札所・国分寺を目指す。

ここから右手、さらに5キロ程山に向かうと、あの有名な龍河洞が有るらしい。

 

 

大師堂とへんろいしまんじゅう

 

最初の目標(目印)、物部川に架かる戸板島橋を目指す。

橋を渡り左折して、2キロ半程歩くとやがて前方に小さな丘の木立が見えてくる。

松本大師堂・へんろ小屋だ。

前を通りかかると、お堂を掃除していた男性に「休んでいけ」と勧められる。

丁度お昼も近いので、言われるまま腰をかけ、駅で求めた弁当を食べることにした。

 

立派な建物で、まだ木の香も新しい堂々としたものである。

以前あった大師堂が老朽し、朽ちかけたのを、800人余りもの寄進によって建て変えられたお堂らしい。

堂の横に寄進者の銘板が、天井には旧大師堂で使われていた梁と彫り物が掛けられている。

 

向かい側には土地の有力者の墓が有り、その脇には墓主の名前が付けられた一本の堂々とした桜の古木がある。

他にも木が茂っているから、この辺りだけがひんやりと冷たい風が吹き抜け、涼しくて気持ち良い。

この辺り一面をコスモス畑にする計画も有るらしい。

 

松本大師堂

松本大師堂

松本大師堂

 

松本大師堂

松本大師堂

松本大師堂

 

松本大師堂

松本大師堂

松本大師堂

 

国分寺に向かうバス道は車も多く、叉道は門前町であろうか、両側には商いの店も多い。

その道中で向こうからやって来た逆打ちの遍路に出会う。風体から察するに野宿覚悟の歩きらしい。

聞けばこの猛暑の夏の間も、歩き続けていたと言う、顔の黒い日焼けがそれを物語っている。

 

 ここら辺りの地名を「へんろいし」と言うらしい。バス停にもそう書かれている。

ここで“へんろいしまんじゅう”と書かれた茶色い暖簾を下げたお店を見付け、折角だから訪ねて見る。

建物は比較的新しく最近出来たように思えるが、暖簾には明治25年創業と書かれている。

100年以上も続く、歴史のある老舗饅頭屋さんらしい。

 

バラ売りも大丈夫と言うので、休憩がてら頂いてみる。

一つ74円の薄茶色の割れた皮が特徴的なまんじゅうで、中のさっぱりした小豆あんが口に馴染み美味しい。

なんだか懐かしい香りのするまんじゅうだ。

昔から国分寺に向かうお遍路さんに愛され、育てられてきた伝統のまんじゅうなのであろう。

 

 

史跡に建つ寺・国分寺

 

レジャーセンターを左に見て、国分川に架かる橋を渡り左折、川沿いの土手道に出る。

前方に視界が開け、その中にこんもりとした木立が見え、国分寺の白い塀と伽藍の屋根が見えてくる。

昔、国分川にまだ橋が架かっていなかった頃、この辺りに「地蔵渡し」と呼ばれる渡し船があったらしい。

その名残を伝える地蔵堂が川辺に立っていて、その手前で土手を下り、田の畔道を行くと寺は目の前だ。

 

29番札所・国分寺は旧土佐国分寺跡に建っている。

天平の頃、聖武天皇の勅命で全国に一ケ寺ずつ開かれたのが国分寺である。

白塀で囲まれた森の中に佇む、しっとりとした感じのお寺だ。

 

仁王門をくぐると、正面に珍しい杮葺き寄棟造りの端正で美しい本堂が見えてくる。

国の重要文化財で、由緒ある建物らしい。

ここは“土佐の苔寺“とも言われ、本坊前の庭は余り広くはないが、青い苔が一面に植えられている。

樹木も良く手入れされており、静かでなかなか趣のある良いお寺だ。

 

国分寺

国分寺

国分寺

 

国分寺

国分寺

国分寺

 

国分寺

国分寺

国分寺

 

寺に到着した折、門前に「善楽寺方面」と書いた、小さなボードを掲げた青年が立っていた。

聞けば「歩きではすでに何回も周っているから、今回はヒッチハイクで廻っている」のだと言う。

納経を終え仁王門を出て来ると、件の青年はまだドライバーが見つからないのか、笑いながら立ち続けていた。

この青年とは、この先至る所で出会うことになる。

 

 

遍路迷わせの30番・善楽寺

 

寺の裏側から出て、集落の中の細い道を進み、国道32号に出た。

それを横切りその先の旧道を左折、そのまま直進したところで国分川に架かる岡豊大橋に出る。

ここまで4キロ程を1時間で歩き、そのままの勢いで橋を渡り、その先で木陰を見つけて休憩をする。

 

すると、遙か川の向こう岸を一人の遍路が歩いているのが見える。

訝って地図で確認すると、この場所が遍路道を大きく外れていることが判明する。

何のことはない、本来なら橋の手前で、右に折れ旧道に入る所を、橋を渡って直進してしまったのだ。

 

善楽寺

善楽寺

善楽寺

 

善楽寺

善楽寺

善楽寺

 

遅れを取り戻そうと、足早に歩き、やっとの思いで県道384号線に出る。

暫く歩いていると、その車が激しく行き交う県道の角に、一軒の小さな茶店が有った。

店先のかき氷の小旗に引かれ、中に入り、話好きの店主に一杯150円のかき氷を注文する。

「高知の夏の2時から4時頃は一番暑いし紫外線も強い。こんな時間帯に歩かん方が良い」と忠告をくれる。

 

この先で県道は緩やかに登り、やがて逢坂峠を迎える。

峠を越え、ゆるく曲がりながら坂を下ると今晩の宿の看板が見えて来た。

店主が教えてくれたとおり、宿までは思いのほか近かった。

宿に荷物を預け、第30番札所・善楽寺に向かう。

 

善楽寺

善楽寺

善楽寺

 

善楽寺

善楽寺

善楽寺

 

『つい数年前までは、30番札所といえば、「遍路迷わせの三十番」と言われてきた。

明治初めの廃仏毀釈により、善楽寺の本尊は安楽寺に移され、一時は廃寺となっていた。

昭和四年に寺は再興したものの、本尊はそのまま安楽寺に安置されていたため、・・・』である。

(「四国八十八箇所を歩く」(20004月 山と渓谷社))

 

昭和48年刊行の「札所の旅(谷村俊郎 講談社)」では、第30番札所は「妙色山・安楽寺」となっている。

それによると『長い札所争いの末、「どちらの寺も三十番。巡拝者はどちらなと勝手に好きな寺へ参ったらよろしい」という結着をつけ、両寺とも30番を名乗って・・・』とある。

『八対二ぐらいの割合で、善楽寺の方に同情しているが、多くの一般巡拝者は、地の利のいい設備の整った安楽寺の方にお参りしているようである』とこの体験記は記している。

 

善楽寺

善楽寺

善楽寺

 

善楽寺

善楽寺

善楽寺

 

その後廃仏令が改まり、一時国分寺にあった善楽寺のご本尊を安楽寺に移し、30番を復活させた折、「三年後にはご本尊を善楽寺に返し、安楽寺は善楽寺の奥の院にする」という約束の公文書が作成された。

 

その善楽寺が復興し約束の履行を迫ったが、ご本尊を握った安楽寺はそれを放さず、争いが続いたらしい。

平成六年に本尊が戻され、現在では札所が善楽寺、安楽寺はその奥の院として統一された。

この間百年余りに渡って遍路を悩ませてきた札所争いは漸くに決着を見たという。

 

 

赤い鉄塔を目指して

 

「山の上の赤い鉄塔を目指せ」、宿の女将に教えられた鉄塔が、遥か前方の小高い山の上に望まれる。

土讃線の線路を越え、県道44号に合流し、更に国分川を下の瀬大橋で渡る。

 

右手に高知市街の建物群を見ながら歩く道は、さすがに行き交う車も多く、久しぶりに目にする都会の光景である。

暫く土電後免線の軌道敷に併行し、やがて右折して解りにくい住宅地内の道へと入り込む。

道なりに暫く進むと、標高145mの五台山への登り口が見えてくる。

 

竹林寺

竹林寺

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竹林寺

竹林寺

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竹林寺

竹林寺

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竹林寺

竹林寺

竹林寺

 

石畳を敷いた道はかなりの急坂で、暫く歩くとさすがに息が上がる。

振り返って見て見ると、その急坂ぶりは良く解る。

途中の墓地の前で休憩をとるが、余りにも多い藪蚊の攻撃に閉口、早々に切り上げ歩き始める。

 

息を切らして登っていくと、遍路道は自然に植物学者・牧野富太郎博士を記念する植物園の園内にと入り込む。

「先にお大師さんが道を付けたので、遍路はただで入れる」と、宿の女将が言っていた意味がこれで解った。

目標にして来たあの赤い二本の鉄塔がすぐ上に見え、竹林寺の塔も森の中に大きく見通せるようになった。

 



 

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