臨済宗の寺・雪蹊寺
第33番札所・雪蹊寺は、臨済宗妙心寺派のお寺である。
八十八カ所の霊場は殆どが真言宗のお寺である中、二ケ寺しかないと言う珍しいものだ。
元々真言宗の寺であったが廃寺となり、その後土佐藩主の宗派である臨済宗の僧を招き再興したからだ。
今では、藩主であった長宗我部家の菩提寺となっている。
石段を上がると左手に手水場、右手に鐘楼、正面の奥まったところに本堂と大師堂が建っている。
本堂は平成に改修されたもので、大師堂も明治末期の建立、鐘楼は昭和の改築等、比較的新しい建物が多い。
鎌倉時代を代表する仏師・運慶とその長男・湛慶が滞在し、本尊の薬師如来像やその脇侍、毘沙門天像などを彫像し安置したとされ、それらの持仏は重要文化財に指定されている。
懲りない二人
新川川に沿ったアスファルト道を、6.5キロ先の第34番札所・種間寺に向けて歩き始める。
1時間ほど歩くと、前方に海を望む“黒潮ライン”の道路標識が現れた。
種間寺に向かう遍路道に、海沿いの道は無かったはずなのに・・・明らかに道を間違えたようだ。
地図で調べてみると、何と34番の奥の院へ向かっているではないか。
右へ曲がるべきポイントが、1.5キロ程手前に有ったものを、完全に見落として道なりに来てしまったのだ。
30分以上かけその交差点に戻る。
歩きに取って道を間違え、同じ道を戻ること程辛いものはない。
車ならなんてことも無い距離だが、歩くとなると僅か2キロ半でも途轍もなく遠く感じられる。
国分寺を出たときも、うっかり標識を見落とし間違えているのだから、いい加減懲りなければならないのに・・。
底抜け柄杓・種間寺
そこから田圃の中の豊かに水を流す用水沿いを歩いて、新川川を渡る。
分岐間違いの場所からは、およそ1時間で第34番札所・種間寺に到着した。
山を背後に控え、田圃に囲まれた一角に、本堂や大師堂の大きな甍が並んでいる。
弘法大師が唐から持ち帰った米、粟、黍、豆の五穀の種を境内に蒔いたことが寺名の起こりだという。
時の天皇や藩主の厚い加護で、広大な田畑や山林を有していたと言うから、農業関係者の信仰が篤いのかと思ったが、ここの御本尊の薬師如来は、安産の霊験があらたかとして、特に妊婦の信者が多いと言う。
底を抜いた柄杓を三日二晩祈願して、安産のお守りとして授けるのが人気らしい。
第35番札所・清滝寺まで、12キロ余りの長丁場を歩きだす。
この辺りはショウガが特産で、いたるところに青々とした葉を一杯茂らせた、ショウガ畑が広がっている。
突然、「お遍路さあ〜ん、お遍路さあ〜ん」と呼ぶ声が、どこからか聞こえてくる。
周りを見渡しても姿が見えないのに、また「お遍路さあ〜ん」と声がする。
どうやら生垣の向うらしく、回り込み庭先を覗くと、その家のご主人が窓から顔を出している。
「道が違う。これは自動車の道でとんでもなく遠く成る。寺の前の道を真っ直ぐに、あの山を目指していけ」と。
いきなり叉また、道を間違えてしまったが、幸い大した距離でもない内に、教えて貰ってありがたい。
礼を行って100m程戻り、角の電柱を見ると遍路シールは、確かに真っ直ぐ行けと指示をしている。
交差点の大きな道路標識を見て右に曲がったが、そのすぐ下に貼ってあった小さな遍路シールを見落としていた。
暫くはビニールハウスの多いのどかな田舎道が続く。
お寺からは4キロ程で、仁淀川の堤防に出て、左折し仁淀川大橋を渡り、直ぐに右折する。
ここから暫くは堤防を歩くことに成るが、ここら辺りまでくると、遥か前方の山の中腹に寺を望む事が出来る。
仁淀川
堤防道からは、国道56号に沿うコンビニやファミリーレストランの看板が沢山目に入る。
コンビニで弁当を買い求め、暫くは賑やかな国道を歩き、再び堤防道に戻る。
投網を打つ漁師の小舟を眺めながらの歩きは、のどかな光景に疲れが癒される。
そろそろ堤防道から下の集落に降りる頃だがと、ここまで注意深く道標を求めて来たが、一向に見付からない。
前方に京間の大イチョウが、聳えている。
その先で堤防下を指示す遍路シールをやっと見つけ、下の集落に降りる。
しかしその先の遍路シールが見付けられず、近所の人に訪ねるとこの用水沿いを行けば良いと言う。
暫く進んだがどうも心配で不安が募るものだから、止めておけば良いのに、再び堤防道に上がる。
結局三度も堤防を行き来して、今度は宅配便のドライバーに道を訪ねると親切に営業用の住宅地図で説明してくれる。
お蔭でどうにか県道39号に出て高速の側道を進むと、その先の十字路に久しぶりに見る遍路シールが有った。
厄除け薬師・清滝寺
ここからは一本道で、迷うことは無い。
暫くはうねうねと曲がりながら、緩やかに登るみかん畑の間を行く自動車道を歩く。
途中案内標識に従い、そこから外れ遍路道に分け入ると、いきなりの急坂が目の前にあらわれる。
疲れたこの身体に、この急坂の出迎えは、有りがたくも無く辛いとしか良いようもない。
この上り坂を八丁坂と言い、清滝山(378)の中腹、寺のある標高150mへの最後の登り道だ。
古い昔の自動車道だったのか、痛んではいるが一応舗装されているようにも見える。
積もった落ち葉や土が負い被さっているので良くは解らないが下はアスファルトのようだ。
それが尽きれば、最後には石段上りも待っていると言うから、もうここは気を入れて行くより仕方が無い。
やがて、33段の石段の向こうに山門が見えてくる。
そこから更に一段と高く成った石段を、113段登りつめた先に第35番札所・清滝寺の境内が有る。
息を切らして石段を上がると、やがて薬師如来の銅像が見えてくる。
高さ15mの像で、昭和8年に地元の製紙業者により寄進、建造されたものだ。
台座の内部は、88段の戒壇巡りが出来るという。
境内前を横切る道路を横切り、最後の階段を登り切ると、正面に本堂と大師堂が、山肌に抱かれるようにある。
振り返ると、今散々迷って歩いて来た仁淀川に開けた高岡平野が一望のもとに見渡せる。
次の札所・清龍寺までは14q余り、約4時間の行程で、その1キロ半程手前、龍の浜に今晩の宿が有る。
塚地峠を越えて
今登ってきた急坂を降り、先ほど越えた高知道近くまで戻り、そこから南に向かい市街地を抜ける。
かなり歩いて波介川を越えると、両側から山が迫る様相となり、自動車の行き交う道を淡々と塚地峠に向けて歩く。
お寺を出て2時間余り、県道脇の塚地休憩所に着いた。
ここから右に入ると、標高200mの塚地峠を越える昔ながらの遍路道が残されている。
「土佐遍路道」、或は「青龍寺道」と呼ばれる凡そ2qの古道である。
このまま県道を進むと、800m余りのトンネルで抜ける道で、距離的には変わらないが平坦である。
ここは迷うことも無く、アップダウンの無いトンネル道を選ぶ。
トンネルを抜けると道は緩やかな下りに転じ、その先に“アイスクリン”を売る紅白のパラソルが見える。
暑さで喉もカラカラ、歩き疲れてへとへとの身体への気付けには、甘くて冷たいものが丁度良い。
ゆず風味の高知名物“アイスクリン”を買い求め、しばしほてった身体を冷まし、少しの休息で生き返る。
ゆるいカーブを曲がると視界が開け、青い海が見えてきた。宇佐の港である。
その昔、14歳の万次郎は、炊係の乗組員として漁船に乗り、この港から太平洋に向け船出した。
万次郎の乗った漁船は、足摺岬沖で強風に遭い遭難、離島に漂着したところを捕鯨船に救われ、アメリカに渡る。
その人は後にアメリカと日本で、通訳や教師として活躍し、日米修好通商条約の締結に一役買うことになる。
彼の名は、ジョン・マンことジョン万次郎、後の中濱万次郎である。
海岸に沿った道を進むと、遥か先の方には、赤い欄干の宇佐湾を跨ぐ橋が見えてくる。
宇佐湾は、東から西に12キロも大きく入り込んだ湾に成っている。
青龍寺に向かうには、本来ならこの湾に沿って、28キロも歩かないといけないところだ。
しかしお大師さんはここだけには、渡船の利用を許されたとかで、昔は「ごめんの渡し」が遍路を運んでいた。
今ではそこに850m程の宇佐大橋が架かっていて、ここまでくれば宿までは残り僅かだ。
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