足摺岬
途中幾つかの小さな漁港を見るぐらいである。
岬に向け、曲がりくねった細い道ではあるが、変化の乏しい道をひたすら歩き続けて来た。
その道を覆い隠すように、鬱蒼とした樹木が両側に茂り、昼なのに辺りが薄暗い。
そんな中を、四国霊場の中では、札所間最長距離を、ひたすら岬に向けてただ黙々と歩き続けてきた。
やがて鬱蒼とした樹木は途切れ、真昼の陽光が眩しく光るその先に、広場が有り何台か車が停まっている。
白い灯台を模した建造物に「足摺岬」と書かれている。
87キロ余りを歩いて、やっと目的地に着いた。
高知県の南西部、太平洋に突き出た足摺半島の先端である足摺岬だ。
その昔、修行中の大師もこの道を歩かれ、ここに着いたときにはさすがにくたびれ果てたらしい。
長い道中を、足を引きずるように歩いて来たことから、この地を“足摺”と名付けられたと言う。
岬には、その数約15万本もの椿が自生していると言う。
灯台を巡る一周約2qの遊歩道には、椿のトンネルが出来、2月の半ば過ぎには赤い花で埋め尽くされる。
それを抜けると展望台がある。
ここからは、高さは80メートル余りもある黒潮打ち寄せる断崖絶壁と、太平洋の大海原が一望だ。
視界は270度と広がり、大自然の眺めは迫力満点で地球が丸く見える。
岬の先に立つ白亜の灯台は、大正3年に建てられた。
高さが18メートル、光達距離は38キロメートルで、我が国でも最大級のひとつと言われている。
『私は机も本も蒲團も持つてゐるかぎりをたヽき賣って、ふらふらと死場所にえらんだ足摺岬に辿りついてゐた。』
(田宮虎彦全集から「足摺岬」
昭和27年河出書房、原文のまま)
過去にはこの岬の上から怒涛の中に身を投げる遍路達は、決して少なくは無かったと言う。
ここは海の彼方に極楽浄土があると言う「補陀落信仰」の場である。
海の向こうにあると言う、観音浄土に救いを求めたので有ろうか。
四国最南端の札所・金剛福寺
第38番札所・金剛福寺の寺域は、背後に足摺樹海を従えた岬の中腹にある。
境内は広大で、約三万六千坪を誇ると言われる大道場である。
どっしりと構える仁王門は「海の果てにある観音菩薩の浄土・補陀落」で、その東門とされる門だ。
境内で先ず目に入るのが、中央に配された池、沢山の大きな土佐五色石、亜熱帯植物が生い茂る美しい庭だ。
それを囲むように幾つもの堂宇が建っている。
本尊は、この地を最果ての聖地とした弘法大師が、自ら刻んだと言われる三面千手観音だ。
他にも境内には和泉式部の黒髪を埋めたと言われる逆修の塔など、貴重な文化財が残っていると言う。
古くから中央の皇室や貴族や武家などの信仰を集めて来たお寺の風格が感じられる。
この岬にはジョン万次郎の像が建てられている。
彼は、土佐の国中浜村で貧しい漁師の家に、次男として生まれた。
14歳のおり、手伝いで漁に出て嵐に会い漁師仲間4人と共に遭難にあう。
6日間の漂流の後奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島・鳥島に漂着、そこで更に143日間も無人島生活を続ける。
たまたま島にウミガメの卵を取りに来た、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられアメリカに渡る。
彼の秀でた才を認めた船長はその後、彼を養子にし、色々な教育を受けさせた。
漂流から10年、彼はやっとの思いで幕末期の日本に帰国した。
士分として取り立てられ、名字帯刀を許され日米和親条約の締結にも尽力した。
かの有名な坂本竜馬の世界観は、彼から聞いた話に影響を受けたものだと言われている。
ジョン万次郎はホイットフィールド船長の故郷、アメリカのフェアーヘブンを望んで、この岬に立っている。
足摺岬は県内でも有数な観光地だけに境内は、バスやマイカーで訪れる参拝客も多く、充分と賑わっている。
境内でも、殊の外沢山の遍路の姿が見受けられた。
岬からは、打戻で荷物を預けた以布利の宿まで戻る。
ここからは大岐海岸の砂浜を抜けて、再び国道321号を経て、久百々にある民宿を目指す。
| ホーム | 遍路歩き旅 | このページの先頭 |
(c)2010
Sudare-M, All Rights Reserved.
|