明石寺を終え、教えられた山道を登り、そして下ると卯の町の古い町並みが残る一角に降りて来る。
旧宇和島藩の在郷町として栄え、江戸中期から昭和初期頃までの白壁の商家が建ち並ぶ一角は、電線も地中化され、古い時代にタイムスリップしたような感覚に陥る。
高野長英が一時身を潜めたと伝えられる、当時の大庄屋鳥居家の見事な欅造りの屋敷門が残っている。
江戸時代の蘭学者・二宮敬作は、シーボルトとその妻タキの間に生まれたイネを、日本で最初の女医として育てたことでも知られていて、その住居の跡が残されている。
またそこを頼って訪れた高野長英が身を隠した家の一部も保存されている。
その周囲には、明治時代に建設された重文の開明学校がある。
また宇和米博物館として公開している古い移築された小学校は長い廊下が残されていて、その廊下では雑巾がけ体験が出来ると言う。
そのタイムを競う大会も毎年開催されていて、卯の町の駅前に「雑巾がけの町」の大きなアーチが建っている。
宿泊した宇和パークホテルをユックリと8時過ぎに発った。
ここからは国道56号線に所々で合流しながら、鳥坂峠を目指す。
国道はほんの少しずつ登っているようで、そんな道を1時間半程歩いて、峠下の分かれ道に到着した。
古来の遍路道はここを左に取り、南予から中予を結ぶ難所と言われる標高470m余りの鳥坂峠を越える。
その難所を解消する目的で開かれたのが、1117メートルの国道鳥坂トンネルである。
「トンネル内歩道狭し 峠道5.5キロ 約60分 トンネル道2.1キロ 約25分」
峠道は足元が不安定で、道標も解りにくいと言い、実際には2時間ほど掛かるらしい。
分岐点に立つ道標を見て、距離・時間とも倍以上もかかる峠の道を避け、トンネルを選択する。
入口付近には“反射タスキ”が置かれていて、歩行者に着用して歩くよう注意を促している。
トンネル内は白線で遮られているとは言え、歩道の幅が狭いし、道路と水平な側溝の上を歩く事になる。
覚悟はしていたが直ぐ脇を対向してくる車が、こちらに飛び込んでくるのではないか・・と恐怖が襲う。
トンネル内に響く轟音が、その恐怖心を一層掻き立てるので、自然に速足に成って15分ほどで抜けてしまう。
ここは遍路道の中でも、特に危険度の高いトンネルとして知られている。
トンネルを抜け、伊予大洲に向かって国道を下る。
途中のドライブインで小休止の後、しばらくして国道を離れ、金山橋を渡り右折して川沿いの道に入る。
更に20分ほど歩いてから、遥か前方の山際に臥龍山荘を望む梁瀬橋を渡り、大洲の中心部へと入り込んできた。
車の往来も多く、久しぶりに屋並みの続く賑やかな道である。
伊予の小京都と言われる、伊予大洲の町中へと入ってきた。
大洲神社を見て、さらに先に進むと当地の観光名所である「おはなはん通り」に出る。
ここの通りは昭和41年に、NHKで放送されたテレビドラマ「おはなはん」のロケ地として使われた。
江戸や明治の屋並みが残るところである。
通りにある「おはなはん通り休憩所」で、当時のスチール写真などを見ながら小休止をさせてもらう。
肱川橋からは、左手の小高い山の上に大洲城を望むことが出来る。
反対側に目を転じると、鵜飼い船なのか、川岸に何艘もの屋形舟が休んでいるのが見える。
橋を渡り国道を外れ左折、とのまち商店街アーチを潜り、昼食のため通りをJR伊予大洲の駅へと向かう。
昼食はここまで歩いて来たご褒美で、少し奮発して“うなぎ定食”で腹ごしらえだ。
駅前で昨夜同宿の男性と偶然に再会した。
今日ここで区切り打ちを終え、これから東京に帰ると言うので、駅で別れを告げる。
ここからは仁淀川の上流域である、愛媛県の久万高原にある第44番札所・大宝寺に向け歩き始める。
伊予大洲の駅前から延びる賑やかな道を5分ほど歩き、国道56号線に行き当たったところで左折する。
ここからは車の往来の多い国道を暫く歩くことになる。
十夜ケ橋
40分ほど歩くと、松山自動車道への取付け道路が分岐する広い交差点に出る。
ここには広い国道56号線の、道路の一部としてコンクリート橋が架けられている。
車なら橋の存在すら気付かないかもしれないが、「十夜ケ橋」で、手前に番外霊場・永徳寺がある。
「行きなやむ 浮世の人を渡さずば 一夜も十夜の橋と思ほゆ」
今から1,200有余年前、弘法大師が四国を巡錫中、この辺りに差し掛かったところ日が暮れてしまった。
泊まるところもなく、空腹のまま小川に架かる土橋の下で野宿をした際、一夜が十夜の長さにも感じられた。
その野宿をされた場所に建つのがこの霊場である。
しかしこの地の人々は、お大師様を橋の下で休ませたことを恥じて、今ではこう信じて止まないと言う。
「皆がお大師様をお泊めしようと奪い合ったので、お大師様はどの家にも気兼ねしそっと橋の下で泊まられた」
橋の袂には、河原に降りる階段が付けられている。
そこはコンクリートの広場で、その隅の丁度橋の下に祠があり、大師が横になって眠る石像が置かれている。
そのわきにはピンクの暖かそうな布団が寄進されている。
このように橋の下で眠っておられるお大師さんに配慮して、遍路が橋の上を通るときは杖を突かないとの風習は、この逸話から起こったと伝えられている。しかし今では橋の上は、そんなコツコツという細やかな杖の音どころではなく、手を伸ばすと届きそうな頭上でゴーゴーと行きかう車の騒音が絶え間なく聞こえている。
ここは全国でも珍しい修行としての野宿が認められた場所らしいが、とても安閑と眠られる環境にはない。
国道を離れ平入りの低い屋並みの続く、新谷の集落を貫く旧街道に入る。
車が激しく行きかう国道と違って、車も少なく時折猫を見かけるだけで、人とは出会わない。
古い屋並みと生活感のある通りは歩いていても何故かホッと落ち着くものがある。
神南堂と名付けられた遍路の休憩所を左に見て、再び国道に合流、緩やかな上り道をしばらく歩く。
JR五十崎駅の手前で旧道におり、民家の続く狭い道を行く。
やがて人家が途切れると、木々の生い茂る上りの一本道となり、峠越えでも・・といった雰囲気だ。
地図を見ると原ケ峠とあったが、案じるほど大して登ることもなくすぐにアスファルトの下り道となる。
しばらく下るとカーブの先に野球場が見えてきた。
休憩がてらネット裏に腰を下ろそうと近づくと、練習の手を一瞬止め、振り返って「チワッス」と挨拶をくれる。
聞けば内子高校の野球部と言うので、しばらく見学させてもらう。
高校生の元気の良い掛声と、きびきびとした動き、カキーンと言う金属バットの打撃音で、すっかり疲れも吹っ飛んだ気分になってしまった。
坂を下りると右手に大きな池があり、白鳥に混じって黒鳥(と言うのかな?)が泳いでいる。
その先に目を転じると、高架上にJRの内子駅が、その先に内子の小さな町並みが広がっているのが見える。
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