寅さんの愛した「よもぎ餅」
遍路道のルートを外れ、この日は屋島の麓のビジネスホテルに宿泊した。
その翌日、対岸の五剣山(八栗山:375m)を目指し、7時半には宿を出て歩き始める。
次の札所までの距離は、8q弱ではあるが、ルートからは完全に外れているので、まずそれを戻すのが先決だ。
源平戦史跡の石標などを横目に引田川に沿って町中を歩き、牟礼の町に入ってきた。
どうやら道標を目にするようになってきたので、ルートに乗ったようだ。
ここは牟礼石が知られた町で、遍路道沿いでも幾つかの石屋さんを目にすることが出来る。
洲崎寺には、四国遍路初めてのガイドブックと言われる「四国遍礼道指南」の著者である「真念」の墓がある。
そこを過ぎると。道はゆるく坂を上り始め、五剣山(八栗山)の麓に入ってきたようだ。
振り返れば、屋島が随分と遠のき、見事な屋根型の全容を見せてくれる。
次の札所は観光寺としても知られている。
その性か、寺(ケーブル乗り場)に近づくにつれ、大きなうどん店などもチラホラと目にするようになる。
細い道を緩く上っていくと、昔から遍路宿として知られた「旅館 高柳」が有る。
更に上ると道はやがて広い駐車場とともにある八栗ケーブルの乗り場に行き当たる。
その建物の横には大きな鳥居が建ち、それを潜ると八栗寺への参道が延びている。
暫く登ると左手に「よもぎ餅の本家」の看板を掲げる茶店がある。
ここは近頃ではテレビなどでも取り上げられる有名店で、百年以上も続き今の店主が三代目と言う老舗である。
売りは何と言っても近くの山で摘んだ新鮮なヨモギと、地元産に拘った米ともち米を合わせた粉で作った餅生地だ。
「出来立てを味わってほしいから・・・」と作り置きはせず、注文を聞いてから一つずつ餡を包んで丸めてくれる。
手に取ると、柔らかなお餅の食感が何とも優しい。
一口頬張ると、きな粉の香ばしさ、餡の甘さ、ヨモギの僅かな苦味が口いっぱいに広がり、その頃合いが良く、得も言われぬ美味しさである。
「男はつらいよ・寅次郎の縁談」で香川ロケの際、わざわざ寅さんが食べに来たと言う。
「寅さん、その日調子がすごく悪くて・・、それでもここに座って食べて行ったよ」
「みんなあやかって、そこに座って食べながら写真を撮っていく」
奥で電話の呼び出し音が鳴り、話が中断した。
どうやら大きな団体が到着を前にして、「よもぎ餅」の予約をしているようだ。
もっと寅さんの話を聞きたかったが、電話はなかなか終わりそうにない。
五剣山と八栗寺
五剣山の名は、五つの峰が剣の尖のように聳え立っていることに由来する。
しかし今では、一峰が豪雨や地震で崩れ、半分ほどになりさしずめ4剣半と言ったところか。
第85番札所・八栗寺は圧倒的な迫力で背後に聳え立つ、五剣山に守られるよう建っている。
そこは標高230mの8合目付近である。
仁王門を潜るとそこに境内が広がっている。
岩峰群を背に本堂が建ち、左には弘法大師作と伝わる歓喜天を祀る立派な聖天堂がある。
聖天尊は、商売繁盛の仏様らしく、商業を営む人々の信仰を集めていて、そんな事も有ってか、境内には遍路や団体のみならず、観光地並みに家族連れの参拝も多いようだ。
内陣ではこの日、霊場開場1200年記念事業として「招福ぜんざい」のお接待が行われる。
本堂前を右手、ケーブル駅の方に進むと大師堂や朱塗りも鮮やかな多宝塔などがある。
廻りは巨木と岩肌で、それに隠れるように並び建っている。
そこに向かう参詣道の途中に、天津甘栗を売る屋台が香ばしい匂いを辺りに振りまいていた。
その栗が寺号に因んでいるのかどうかは定かではないが、ただ一軒だけの曰くのありそうな屋台である。
牟礼から志度へ
五剣山の中腹から山を下り、次の札所のある志度の町を目指す。
土産物屋の並ぶ裏参道を抜け、ケーブルの山上駅を右に見て境内を抜ける。
ここから下る道は、長くてうんざりするような下り坂で、車の行き交う車道をただひたすら歩き続けるだけだ。
道中で振り返ると、背後の屋島は次第に遠ざかり、前方眼下には時折牟礼の町並みが見え隠れする。
そんな山道を40分ほど下ると、二つ池親水公園の噴水が見え、その先に碧い瀬戸内海が見えてきた。
ようやく平坦道に戻った琴電八栗新道駅辺りで、国道11号に出て左折、ここからは琴電志度線と並走して歩く。
左手は、すぐそこに瀬戸内海の志度湾が広がっているが、国道から海を見ることはほとんどない。
ここ志度湾は昔から牡蠣の養殖が盛んな海だ。
冬のシーズンともなると周辺は、牡蠣を食べにくる観光客で大層賑わうところである。
この近くには、何度も通った馴染みの店もあり、懐かしい。
食べ方は豪快で大きな火鉢の上に、畳半畳程の金網を敷き、スコップで掬った殻付き牡蠣を乗せて焼く。
軍手をはいて焼けた牡蠣を掴み、反対の手に持ったナイフで殻をこじ開け、好みの調味料をかけて食べるのだ。
店により仕組みに違いはあるが、大方は時間制限があるものの食べ放題で、締めに牡蠣ごはんが付いてくる。
昼食場所を探し求め、原駅辺りから国道11号線に出て、そこを歩いて来た。
そのまま旧志度街道を行けば途中には、当地の出身・平賀源内の生家や記念館等所縁の場所がある。
その門前通りの先、突当りが志度寺である。
寺域に入るとすぐ右手に塔頭・自性院常楽寺が有り、境内に檀家でもある平賀源内のお墓が残されている。
志度寺の門前に赤いテントに「元祖名菓竹林糖 三浦でんぼや」と書かれた店が有り、気になったので覗いてみる。
竹林糖を売る店で、聞けば今が四代目、100年以上も前から続いていたそうだ。
わけ有って暫く休んでいたが、最近又店を開け、作りはじめたと言う。
竹林糖は水飴を原料に黒砂糖、白糖を煮詰め、生姜で香り付けし型に入れ固めたものだ。
縁日の屋台などでしばしばお目にかかる、いわゆる板状の生姜糖と言うお菓子の一種である。
その昔、志度寺塔頭で修行した「竹林上人」と言う名僧を偲ぶお茶会の茶菓子として造られたものらしい。
少し割って口の中に入れて溶かすと、砂糖菓子だから甘いのは当たり前だが、ほのかな黒砂糖の味と、生姜の程よい辛みと刺激が口一杯に広がる。これは、遍路の疲れた身体を癒してくれそうな、そんな気のするお菓子である。
能楽の舞台・志度寺
第86番札所・志度寺は、志度湾に面して建立されているが、境内から海は見えない。
木造の金剛力士像の立つ仁王門(国指定重要文化財)は、堂々たる大屋根を構えるものだ。
江戸時代に高松藩主が寄進したものと伝えられている。
門を潜ると境内は広く、樹木に覆われた中に石畳の参道が、堂宇へと導くように敷かれている。
境内に聳える五重の塔は、高さ33m、塔屋の間口4.5m、五層総檜造りで、昭和50年5月に落慶した。
当地出身で、大坂に出て成功をおさめた篤志家の、私財3億円の寄進によるものだそうだ。
入母屋造り本瓦葺の本堂も、江戸時代に高松藩主が寄進したもので、国の重要文化財に指定されている。
その右手には大師堂が控えている。
緑に覆われた境内に人影はなく、聞こえるのは時折木立を揺らす風の音と、鳥の声ぐらいで、表を行きかう車の音も聞こえてはこない。
寺は閑静でひっそりとした佇みを見せている。
篤志家の道標
海辺の町志度を後に、県の中央部に向かう平坦な道を7qほど歩いて長尾の町に向かう。
ほぼJRの高徳線に沿って、少しずつ高度を稼ぎながら進む道である。
道中には「京都中井氏の道標」や「秋田清水九兵衛の道標」のサインと共に古い道標が路傍に残されている。
昔はこうして地方の篤志家が遍路となって巡礼すると同時に、施主になって石標を立てていたようだ。
高松自動車道を潜り、オレンジタウン駅を過ぎた辺りで、JR線と分かれる。
歩き始めておよそ2時間、古い趣のある町並みが残る長尾の町に到着した。
いよいよ明日最後の札所を打つこの日は、民宿「ながお路」に宿を取っている。
長尾寺の門前通りにあり、昔からの仕出し屋が営む遍路宿である。
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