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京のランドマーク

 

京都駅前に建つ「京都タワー」は、土台となっているビルの高さを含めると131m有り、京都市内では最も高い建物である。

一見すると京都と言うことで蝋燭をイメージしてしまうが、そうではなく京の町を明るく燈す灯台をイメージしたものらしい。

一方駅の裏口である八条口側には、黒い家並みの中に重厚な歴史を感じる五重の塔を見ることが出きる。

その高さ約55mで、木造の建築物としては日本一の高さを誇っていて、「東寺」のものだ。

 

東寺の塔は9世紀末が創建と言われているが、その後何度も戦火などで焼失したらしい。

しかしその都度再建され、今日目にする塔は、寛永年間に再建されたものだ。

何れも古今の京都を代表するランドマークとも言うべき建物である。

 

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 今日、東海道を列車で行き来する旅人は、車窓からこれらを認めると、京都に来たことを実感する。

昔の旅人も平安京に向け、東寺の塔を目指しながら歩いていたのであろうか。

当時の塔と言えば、都の正面に建つ羅城門と、その向こうに聳え立っていたであろう東寺と西寺の塔だ。

現在、西寺の塔跡を位置づける礎石などは確認されてはいないらしいが、おそらく同じような塔が並び立っていたのであろう。

 


 

東寺(教王護国寺)

 

東寺は羅城門の東に位置していたからこのように呼ばれているが、教王護国寺が正式な寺名である。

西暦800年代に嵯峨天皇より空海に下賜された寺である。

讃岐の満濃池の修築や、古寺の復興などで見られた空海の経営手腕が注目されてのことであったと言う。

 

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平安京の都市計画の一環として、都の南端の羅城門を挟んで、その西と東に官営寺院が置かれた。

それが東寺と西寺である。これらは、表向きは都の霊的な守りをするということであるが、実は平安遷都に際し、平城京の寺院が平安京内に移転し、寺院による政治的な介入を嫌った桓武天皇の意向が働いてのことであったと言う。

 

東寺を下賜された空海は、都における布教拠点として、真言宗の僧50人余りを住まわせるとともに、他宗の僧の居住を禁じ、教義の純粋さを保ち、真言密教の根本道場としての整備に着手した。

 

 

月命日の弘法市

 

 その後「大師(空海)信仰」の高まりから東寺は、「お大師さんの寺」として広く信仰を集めるようになり、空海が高野山・奥の院に入寂になると、月命日の21日には御影堂で御影供(みえいく)と言う法要が行われるようになる。

江戸時代になるとその命日に合わせ、境内では「市」が開かれるようになり、人々はそれを「弘法市」とか「弘法さん」と呼び親しむようになった。

当時は、参拝客の喉を潤すお茶屋さんが中心であったと言う。

 

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 境内を埋め尽くす出店の数は千を超えるといい、扱う商品は多彩だ。

衣料品や古着・骨董品、市松人形・雛人形など京都らしさが感じられる品々から、各地の名産・特産品、アクセサリーや履物、陶器や食品類から飲料水、植木や花木まである。

 

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 この日はお参りと買い物を楽しむ多くの善男善女が境内に溢れていた。

近年では「古都京都の文化財」が世界遺産の指定を受けたこともあってか、リストアップされたここ「東寺」にも、地元の人々や観光客のみならず、外国からガイドブックを片手に訪れる観光客が殊の外多くなっているようだ。

 

 

羅城門

 

 東大寺の南大門を出て、九条通りを西に500mほど行くと、右手の住宅街に埋るように小さな公園が有り、そこに「羅城門遺跡」と書かれた石柱が建っている。

うっかりしていると、通り過ぎてしまいそうなほど目立たない奥まった地である。

大した遊具も無い小さな公園で、園内に遊ぶ子供の姿はなく、代わりに老婆が一人、木陰でたばこをふかしていた。

 

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 この羅城門と言うのは、平安京の中心を貫く朱雀大路の南の端に設けられた大門のことで、京都の表玄関に当る場所になり、この門の西と東に官営寺院である西寺と東寺が建っていた。

丁度このラインが京の都の内外、いわゆる洛中・洛外を分けていたことに成る。

 

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 平安京に200年近くその威容を誇っていた羅城門は、暴風雨により倒壊すると、その後は再建されることも無く、礎石などは他の寺院などの建立で持ち出されたらしく、近年の発掘調査でもその遺構は何ら見つかってはいないと言う。

 

 余談になるが、芥川龍之介の小説「羅生門」なども有り、昔「羅生門(らしょうもん)」と習った記憶が有るが、今は「羅城門(らじょうもん)」と表記も読みも統一されているらしい。

 

 

高野山への道

 

高野山に向かう「高野街道」は、「高野参拝道」の総称であり、「京都の東寺が起点」とされている。

一般的には「高野街道」と言うと、京都の石清水八幡宮から生駒山の西麓を南下して河内長野に至る「東高野街道」と、商人町として栄えた堺から大阪・狭山などを経て道中で大阪・四天王寺からの「下高野街道」や、大阪・杭全神社から延びる「中高野街道」を吸収し河内長野に到る「西高野街道」などが知られている。

 

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 この西道と東道は河内長野で合流し、その後は一本の「高野街道」として「高野七口」の一つ「不動坂口」に到る参詣道であり、その先の不動坂を登れば山上に「女人堂」が待っていた。

 

江戸時代に入るとこの道は、従来の九度山から町石道を登り山上の大門に至る道よりも距離が格段に短いこともあり圧倒的に利用者が増え、街道には旅籠や茶店も建てられ、大そうな賑わいを見せるようになったらしい。

 

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 この「高野街道」と、京の都を結ぶのが「鳥羽街道」である。

この羅城門から真っ直ぐに南下し、下鳥羽から鴨川の堤防沿いに、淀の納所までを結ぶ道で、江戸時代においては京都や大阪を行き来する主要な街道であることから「京・大阪道」とも呼ばれていた。

 

道は淀の納所の先で木津川を渡り、石清水八幡宮のある八幡の地で「東高野街道」と結ぶ。

このルートが、京の東寺を起点として高野山へと向かう「高野街道・京大阪道」である。

 



 

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