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打上の弘法井戸

 

 道は洞ヶ峠を超え、かまぼこ板を立てたような建物が無数に並ぶ枚方ハイツの中を下って行く。

沿道の電柱には「高野道」との地名表示板が張られていて、どうやらこの道が「東高野街道」で間違いないらしい。

しばらくして国道一号線に合流し、そこを歩き本覚寺の建つ辺りで旧道に入ると、左手に山田池公園の豊かな森が広がっている。

その先で長ケ嶽橋を渡り左に折れ、出屋敷の古い集落を抜け、枚方市の運動公園を右に見て、出鼻橋で左の旧道に入り進むと京阪交野線の郡津駅だ。

 

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 京阪の線路を超え、梅が枝の新天野川橋を渡り、その先で左の堤防道を歩き、国道168号に出る。

それを渡りJR片町線の星田駅近くの住宅前で、植木の手入れをしている年配のご主人に道を尋ねると、さすが「これが高野街道、道なりに行けば良い」とすぐに教えてくれる。

 

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 高架を潜り、住宅地に入り込むと何となく旧道らしい風情のある細道が続いている。

打上の町に入り途中脇道にそれると、うっかりしていると見過ごしてしまいそうなところに「弘法井戸」が有った。

お伽草子「鉢かづき姫」をモチーフにしたサインが有り、それによると、昔から土地の人々が使う井戸で、「弘法観念水」と刻んだ石柱があり、いくら日照りが続いても枯れることが無いと書かれている。

それは、街道を行きかう人々の喉を潤し続けたことと、お大師様への感謝の気持ちが現れたものだと伝えている。

 

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ねやがわ文化と歴史の道

 

 寝屋川の町に入ってくると、町中にはお伽草子「鉢かづき姫」をモチーフにしたサインが有り、「ねやがわ 文化と歴史の道」として街道の道標と、謂れの説明がされている。

 

 掘割の底を走るJR線を東寝屋川駅の近くで越え、突当りを左に折れると旧道に入ってくる。

少し進むと小学校の前に一寸した緑の塊、小さな森のような少し異様な雰囲気のする場所が有る。樹木が生い茂り、草の伸びた地に、大石で組み立てた祠のようなものが有り、中に仏像が二体祀られている。その周りには巨大な石が幾つも無造作に転がっている。祠の中の仏像は、お地蔵さんかと思ったが、弘法大師像だと言う。古くからこの地にもお大師信仰が有ったらしい。

 

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 大石は古墳に使われていた石だと言う。

今に残る地名から、この付近には元々古墳が多く存在していたと推測されるらしいが、多くは耕地などに変り消滅してしまい、大石だけがここに集められ残された名残なのだそうだ。

 

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 さらに進むと、趣の違う燈籠が二基並んで立つ場所が有る。

大きな燈籠は花崗岩製で、正面には「二月堂」、側面には天保14年の年号が刻まれている。

奈良東大寺二月堂のお水取りに関連する施設らしいが、詳しいことは解っていないと言う。

もう一基は江戸時代中ごろのもので、近くの八幡宮に寄進されたものらしい。

 


 

四条畷

 

 忍ケ丘の駅を超え、曲がりくねつた旧道を進むと、この辺りが四条畷市で、旧正法寺跡と言われるところだ。

説明板によると旧正法寺は白鳳時代から江戸初期の頃までこの地に有った寺院らしく、発掘された遺物などから、東西に二つの塔を持つ、薬師寺式の伽藍配置を誇る大寺と推定されている。

白鳳時代には持統天皇が幼少期を過ごしたのが、この正法寺であったと伝えられているとか。

東高野街道と清滝街道の通るこの四条畷は、原始時代の遺跡や貝塚なども残され、このほかにも古寺・古社の多い、北河内でも特異な地域で有ったらしい。

 

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 ところでこの四条畷の「畷」は、難読漢字の一つで有ると同時に、中々難しい字でもある。

この字は「道」と言う意味を持っているらしく、古代農地を区画整理した条里制の「四条にある道」とでもなるのか、なかなか面白い興味深い地名で有る。

 

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中野で国道163号を潜ると、住宅地の中の道となり、右手からJR片町線が近付いてくる。

そんな住宅地の中に、四条畷市の「歴史民俗資料館」が有った。

入口付近に大きな楠が植えられ、傍らに「この道は京都の東寺より高野山に至る街道であり・・」と書かれた石柱が建てられている。

京都の東寺から南下する「鳥羽街道」を、石清水八幡宮のある八幡の町で「東高野街道」に引き継ぎ、この先の河内長野で「高野街道」に結ぶ道筋と言うことだ。

 

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忠臣・楠公の地

 

「四条畷歴史民俗資料館」を後に、少し歩くとその先で国道170号線に行き当たる。

このあたりが南北朝時代の四条畷の戦いの旧跡らしく、和田賢秀公の墓所との説明が有る。

楠正行とともに四条畷の合戦で戦い、戦死したのがこのあたりであったそうだ。

 

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正成は建武の新政の立役者として知られる武将で、鎌倉時代には悪党とか非御家人と呼ばれるが、江戸時代には忠臣、それが明治になると「大楠公」と呼ばれた人物である。その嫡男の正行は「小楠公」とも呼ばれていて、それの所縁の地でもある四条畷には、そのものズバリの「楠公(なんこう)」と言う地名が残されている。

 

通りを少し歩くと四条畷神社がある。楠正行を主祭神とし、その楠一族の将士24人も配祀する神社で、その街道沿いには参道へと通じる一の鳥居が建っている。飯盛山の西麓に建つ神社の拝殿までは600メートル程、真っ直ぐに広い参道が延びている。境内は桜が多く、春の花の咲くころが特に美しいという。

 

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野崎観音

 

北条交番前を過ぎる。

道沿いの真新しい山門の前に「小楠公並一族菩提寺」と書かれた石碑の建つ十念寺の前をやりすごし、ここで国道170号線を離れ、左の旧道へと向かうと、道は四十畷市から大東市に入っていく。

 

その分岐から、500メートル程入り込んだところが「野崎まいり公園」だ。

野崎参りで知られた「野崎観音」への入り口近くに建つ公園で、その先に野崎観音、正式には曹洞宗のお寺で福聚山慈眼禅寺に向かう参道の石段が、山の木々の中に延びている。

 

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 「野崎参り〜は、屋形船で〜参ろ〜♪♪」

その昔江戸時代に入ると観音参りは庶民の楽しみとなり、毎年五月初頭の「野崎参り」の頃になると、大阪・天満橋から川を伝い深野池まで、参拝客向けに屋形船が運行されていたと言う。かつてこの生駒山地の西麓一帯は、寝屋川やその支流の谷田川に繋がる大きな沼池(深野池など)の多い湿潤な地で、大阪とは川続きで、川舟の行き来が有ったらしい。

一方、陸路を行く高野街道はそんな枝川や沼地の多い緩い地を避け、地盤の固い山裾近くを南北に貫いていた。

「野崎観音」は、その東高野街道の道筋にある。

 

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石切の町を抜ける

 

 「野崎まいり公園」の先に「メノコ橋」の欄干石が忘れ去られたようにポッンと残されている。

弘法大師が当地に10日程滞在した折、この橋の欄干を枕にして休息したとの伝説が残される地だ。

今は川も橋もなく、その欄干石だけが道路脇に残されているが、うっかりしていると見過ごしてしまうほど目立たない。

 

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 石切中学校の所で国道を離れ、左の旧道に入ると道は、ほぼ新道と並行して延びている。途中には「ようおまいり石切さん」と書かれた横断幕を掲げた「石切神社」がある。腫物、できものの神様として信仰を集める神社で、ここはその西参道である。表参道は近鉄奈良線の石切駅から延びていて、そこからは歩いて10分ほどだそうだ。この参道が結構面白くて、人気があるのだとか・・・。

 

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 その先で第二阪奈道路を超え暫く歩くと、左に河内の国の一宮「枚岡神社」の一の鳥居が建っている。

街道からは、松の馬場と呼ばれる参道が延びている。傍らに立つ燈籠は、かつては鳥居の中央部にたてられていたものらしく、東大阪市内では一番古いとされている。

 

池や枝川の多い低湿地にあって、この山麓沿いの「東高野街道」は、河内の国では唯一の南北を貫く重要道であったというから、行き来した多くの旅人もこの河内の一宮で一時の休息をとったのであろうか。

 

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