ねやがわ文化と歴史の道

 

 寝屋川の町に入り、掘割の底を走るJR線を寝屋川公園駅の近くで越え、突当りを左に折れると旧道に入ってくる。

町中にはお伽草子「鉢かづき姫」をモチーフにしたサインが有り、「ねやがわ 文化と歴史の道」として街道の道標と、謂れの説明がなされている。

 

 少し進むと小学校の前に一寸した小さな森のような、少し異様な雰囲気のする場所が有る。

樹木が生い茂り、草の伸びた地に、大石で組み立てた祠のようなものが有り、中に仏像が二体祀られている。

祠の中の仏像は、お地蔵さんかと思ったが、弘法大師像だと言う。古くからこの地にもお大師信仰が有ったらしい。

 

寝屋川の町

寝屋川の町

寝屋川の町

 

寝屋川の町

寝屋川の町

寝屋川の町

 

寝屋川の町

寝屋川の町

寝屋川の町

 

寝屋川の町

寝屋川の町

寝屋川の町

 

 その周りには巨大な石が幾つも無造作に転がっている。大石は古墳に使われていた石だと言う。

今に残る地名から、この付近には元々古墳が多く存在していたと推測されるらしいが、多くは耕地などに変り消滅してしまい、大石だけがここに集められ残された名残なのだそうだ。

 

 さらに進むと、趣の違う燈籠が二基並んで立つ場所が有る。

大きな燈籠は花崗岩製で、正面には「二月堂」、側面には天保14年の年号が刻まれていて、奈良東大寺二月堂のお水取りに関連するものらしいが、詳しいことは解っていないと言う。もう一基は江戸時代中頃のもので、近くの八幡宮に寄進された塔らしい。

 

 

四条畷

 

 忍ケ丘の駅を超え、曲がりくねつた旧道を進むと、この辺りが四条畷市で、旧正法寺跡と言われるところだ。

説明板によると旧正法寺は白鳳時代から江戸初期の頃までこの地に有った寺院らしく、発掘された遺物などから、東西に二つの塔を持つ、薬師寺式の伽藍配置を誇る大寺と推定されている。

白鳳時代には持統天皇が幼少期を過ごしたのが、この正法寺であったと伝えられている

東高野街道と清滝街道の通るこの四条畷は、原始時代の遺跡や貝塚なども残され、このほかにも古寺・古社の多い、北河内でも特異な地域で有ったらしい。

 

四条畷

四条畷

四条畷

 

四条畷

四条畷

四条畷

 

四条畷

四条畷

四条畷

 

中野で国道163号を潜ると、住宅地の中の道となり、右手からJR片町線が近付いてくる。

そんな住宅地の中に、四条畷市の「歴史民俗資料館」が有った。

入口付近に大きな楠が植えられ、傍らに「この道は京都の東寺より高野山に至る街道であり」と書かれた石柱が建てられている。

 

 ところでこの四条畷の「畷」は、難読漢字の一つで有ると同時に、中々難しい字でもある。

この字は「道」と言う意味を持っているらしく、古代農地を区画整理した条里制の「四条にある道」とでもなるのか、なかなか面白い興味深い地名で有る。

 

 

忠臣・楠公の地

 

「四条畷歴史民俗資料館」を後に、少し歩くとその先で国道170号線に行き当たる。

このあたりが南北朝時代の「四条畷の戦い」の旧跡らしく、和田賢秀公の墓所との説明が有り、楠正行とともに四条畷の合戦で戦い、戦死したのがこの地だという。

 

正成は建武の新政の立役者として知られる武将だ。

鎌倉時代には悪党、非御家人と呼ばれるが、江戸時代には忠臣、それが明治になると「大楠公」と呼ばれた人物だ。

時代と共に評価の変わった武将で、その嫡男の正行は「小楠公」とも呼ばれていた。

 

忠臣・楠公の地

忠臣・楠公の地

忠臣・楠公の地

 

忠臣・楠公の地

忠臣・楠公の地

忠臣・楠公の地

 

忠臣・楠公の地

忠臣・楠公の地

忠臣・楠公の地


 

所縁の地でもある四条畷には、「楠公(なんこう)」と言う地名も残されていて、通には四条畷神社がある。

楠正行を主祭神とし、楠一族の将士24人も配祀する神社で、その街道沿いには参道へと通じる一の鳥居が建っている。

飯盛山の西麓に建つ神社の拝殿までは600メートル程、真っ直ぐに広い参道が延びている。

境内は桜が多く、春の花の咲くころが特に美しいという。

 

先ほどの和田賢秀公墓所からこの大鳥居前までの道は、古道(東高野街道)と重なるという。

北条交番前を過ぎると、道沿いの真新しい山門の前に「小楠公並一族菩提寺」と書かれた石碑の建つ十念寺がある。

その先で国道170号線を離れ、左の旧道へと向かうと、道は四十畷市から大東市に入っていく。

 

 

野崎観音

 

「野崎参り〜は、屋形船で〜参ろ〜♪♪」

その分岐から、500メートル程直進したところが「野崎まいり公園」だ。

野崎参りで知られた「野崎観音」への入り口近くに建つ公園で、その先に野崎観音がある。

「福聚山慈眼禅寺」が正式名の曹洞宗のお寺で、参道の石段が山の木々の中に延びている。

 

野崎観音

野崎観音

野崎観音

 

野崎観音

野崎観音

野崎観音

 

その昔江戸時代に入ると観音参りは庶民の楽しみとなった。

毎年五月初頭の「野崎参り」の頃には、大阪天満橋から川を伝い深野池まで、参拝客向けに屋形船が運行されていた。

かつてこの生駒山地の西麓一帯は、寝屋川やその支流の谷田川に繋がる大きな沼池(深野池など)の多い湿潤な地で、大阪とは川続きで、川舟の行き来が有ったらしい。

 

野崎観音

野崎観音

野崎観音

 

野崎観音

野崎観音

野崎観音

 

 「野崎まいり公園」の先に「メノコ橋」の欄干石が忘れ去られたようにポッンと残されている。

弘法大師が当地に10日程滞在した折、この橋の欄干を枕にして休息したとの伝説が残される地だ。

今は川も橋もなく、欄干石だけが道路脇に残されているが、うっかりしていると見過ごしてしまうほど目立たない。

 

 

石切の町を抜ける

 

 石切中学校の所で国道を離れ、左の旧道に入ると道は、ほぼ新道と並行して延びている。

途中には「ようおまいり石切さん」と書かれた横断幕がかかっていた。

腫物できものの神様としてこの地で信仰を集める「石切神社」がある。

 

ここはその西参道で、表参道は近鉄奈良線の石切駅から延びていて、そこからは歩いて10分ほどだそうだ。

この参道が結構面白くて、人気があるのだとか・・・。

 

石切の町

石切の町

石切の町

 

石切の町

石切の町

石切の町

 

石切の町

石切の町

石切の町

 

石切の町

石切の町

石切の町

 

 その先で第二阪奈道路を超え暫く歩くと、左に河内の国の一宮「枚岡神社」の一の鳥居が建っている。

街道からは、松の馬場と呼ばれる参道が延びている。

傍らに立つ燈籠は、かつては鳥居の中央部にたてられていたものらしく、東大阪市内では一番古いとされている。

 

 河内の国では唯一の南北を貫く重要な官道であった「東高野街道」は、この辺りでは池や枝川の多い低湿地を避け、地盤の固い山麓により近い場所に通されていた。

街道の直ぐ東には生駒山地が南北に延びている。



 

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