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女人堂

 

当時の高野山には、ここをめぐる山々に結界が引かれ、女性は誰一人立ち入ることのできない女人禁制の山であったため、各入り口には参拝に訪れる女性のための女人堂が建てられていた。

多くは既に無くなってしまったが、現在唯一残るのが不動坂口の「女人堂」である。

 

 『平安時代には長谷寺や石山寺といった霊場が女性の参詣者を集めていた。当然、高野山にも登りたいという者も出てきただろう。そうした要望と女人禁制との一種の折衷案が女人堂であり、女人道であった。』

(「高野山と空海」 渋谷甲博 2015年1月 洋泉社)

 

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 高野山の女人禁制は、寺院が立ち並ぶ山上の盆地が、僧たちの修行の妨げになるから禁止されていたが、大師さんのお膝元の「奥の院」に参詣することは出来たようだ。

したがってここから遥拝するためだけに「女人堂」が作られていたわけではないらしい。

 

当時は、「外八葉」の尾根や峠を上り下りしながら、七口に建っていた「女人堂」と、「奥の院」を結ぶ結界の外を行く「女人道」と言う参詣道が整備されていた。「女人堂」で飽き足らない女性たちは、息を切らしながら「女人道」を巡り、時折木立の隙間から垣間見る伽藍に向かい、首を延ばし、手を合わせていたと言う。

 

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 この日訪れた「女人堂」には、すでに夕闇が迫っていた。

うっそうと茂る木立を背後にして建つ堂宇は、もっと小さなものかと思っていたが、以外に大きな建物である。

それもそのはず、ここは女性たちの参籠所でもあったのだ。

線香の煙が燻る中、あたたかな法灯に照らされた大日如来が、凛とした佇まいで今でも参詣の者を出迎えている。

 



 

結界の入り口・大門

 

 江戸時代に距離の短い不動坂道が整備されるまで、高野山への表参道とされたのが、九度山から慈尊院を経て大門口へと至るおよそ23キロメートルの登山道・町石道であった。

それを登り切り最初に目にしたのが、高野山の入り口に立つ巨大な「大門」である。

そこは結界の入り口であり、この門を潜ればそこはもう清浄な仏の世界、人々は身の引き締まる思いを感じたことだろう。

 

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現在の大門は1705年に再建されたものだ。

重層の五間構え入母屋造りの屋根を持ち、その高さは25m、幅21mの巨大な朱色の門である。

両脇には、江戸時代の仏師による金剛力士像がそこを守っている。

この門は高野山の西端にあり、西の入り口の正門であり、町石道を歩いて登る、あるいは自動車で訪れる人々の入り口でもある。

 

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人々は、ふもとの慈尊院から壇上伽藍の大塔まで、一町(およそ109m)毎にたてられた180基の町石と呼ばれた五輪塔型の道標、一つ一つに手を合わせながら山を登ったと言われている。

山上に出て大門を潜り、そこから壇上伽藍に向かい、さらにその先の町石36基を数えながら奥の院を目指したのであろう。

一般的には、ここから入り「壇上伽藍」「金剛峯寺」を経て、「奥の院」に向かうのが正式な参拝のルートとされているが、この地を訪れる人は少ないのか、中心地の賑わいと比べると心なしか閑散とした静寂がここを覆っている。

 

 

壇上伽藍

 

 「大門」から東に500mほど歩くと「壇上伽藍」がある。

「奥の院」と並んで二大聖地の一つと言われる場所で、ここは空海が最初に堂宇を建てた場所でもある。

その入り口が「中門」だ。

五間巾二階建ての楼門で、正面の両脇には持国天と多聞天が、裏に回ると胸元にトンボ(前に進み、後には引かない意)を付けた増長天と、セミ(遠くを見通す千里眼の意)を付けた広目天が祭られている。

 

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潜れば左手が「金堂」だ。

819年の創建で過去に6度も消失したが、その都度建て直され、昭和7年に再建されたのが現在の建物だという。

昭和元年の火災では本尊も消失してしまい、その後高村光雲が高さ5mに余る本尊の薬師如来を作り秘仏となっているが、1200年祭に合わせ御開帳された。

この本尊は光雲の自宅で製作されたが、大きすぎて部屋から出せず、自宅の玄関や隣の塀を壊しやっとの思いで出した・・・と言うエピソードが知られている。

 

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 「金堂」とは対照的に朱色も鮮やかに立つのが、この地における修行の中心的な建物で、高さ48mの「根本大塔」である。

建物自体が大日如来のお姿を現しているとされ、我々はその胎内に入り込むのだと言う。

内部は仏の教えを立体的にした、立体曼荼羅の世界が表され、目に焼き付くような内装は、空海が仕掛けた壮大な空間でもある。

 


 

金剛峯寺

 

 壇上伽藍を蛇腹路で抜ける。

「龍が東西に長く臥せているようだ」、これは空海が山上の霊地を形容した言葉だ。

壇上伽藍を頭として、今日の賑わいの中心地、千手院橋あたりを尾とすると、丁度このあたりが竜の腹に当たり、そのことからこの小道を「蛇腹路」と呼ぶようになったらしい。

 

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その竜の腹から尾にかけたあたりに「金剛峯寺」が建っている。

嘗ては高野山の全体をさす総称であったが、今日では高野山真言宗の座主が住む、また天皇や皇族などの賓客の接待所である寺院をさしているらしい。

壇上伽藍もこの寺の管理下にあるというから、高野山における中心的な施設であることには変わりなく、さらに言えば、高野山塔頭117カ寺、全国真言宗3600カ寺の頂点に立つ寺院と言うことになる。

 

ここには大門口や壇上伽藍に建つ、見るものを圧倒するような迫力で迫る楼門はなく、石畳の奥にしっとりと正門が佇んでいる。

江戸時代の少し前に再建されたもので、金剛峯寺に現存する建物では一番古いという。

 

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境内に入ると、正面に檜皮葺の堂々とした大屋根を構える主殿が見えてくる。

豊臣秀吉が、母の菩提を弔うため寄進したもので、現在のものは江戸時代の再建だそうだ。

入母屋屋根の大玄関と唐破封風の小玄関を持ち、内部には上段の間や豊臣秀次が自害した部屋、石庭なども備えた豪華な設えの御殿のような建物である。

 

 面白いのはその屋根の上に載っている風呂桶のようなものだ。

これは天水桶と言われるもので、近隣で火事が起きた場合、葺かれた屋根の檜皮に燃え移るのを防ぐためここに貯めた水を撒いていたという。

 



 

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