コンテンツ

ホーム

サイト紹介

はれのくに

の旅

鉄の旅岡山

遍路歩き旅

海外旅行

統こけし

マイブログ

墓原

 

 「墓原」とはよく言ったもので、まさに言いえて妙の観がする。

およそ20万基とも言われているが、おそらく誰も正確には数えられないのでは・・・と思えるほどの墓標や供養塔が林立している。

 

 賑やかに観光バスやマイカーが行き交い、カメラを片手に店先を冷やかしながらそぞろ歩く観光客で賑わう通りから外れ、「一の橋」を渡ると周囲の風景は一変する。

真っ直ぐに天をさすように伸びる古木の数々にまず目を奪われる。

そしてその下両側に、苔むす大小無数の墓群である。まさに「墓原」だ。

 

6100301.JPG

9007716.JPG

6100302.JPG

 

6100303.JPG

9007714.JPG

6100311.JPG

 

6100312.JPG

6100313.JPG

6100321.JPG

 

 そこは「奥の院」に続く道、樹齢千年を超えると言われる杉の巨木が無数に林立し、その中に「弘法大師御廟」に至る二キロメートルの参道が伸びている。うっそうと茂る木立で辺りは森閑として、そんな隙間から差す光と影の陰影で、あたりに霧をかけたように微かにかすみ、何やら神々しく神秘的でさえある。

 

9007706.JPG

9007705.JPG

6100323.JPG

 

6100331.JPG

9007702.JPG

6100332.JPG

 

9007699.JPG

9007700.JPG

6100333.JPG

 

 実に多彩である。

ごく普通の一般家庭の墓標もあれば、歴史の教科書でお馴染みの武将や大名から、芸能人、文化人、実業家、さらには会社や企業、戦没者などがあり、果ては他宗派の法然や親鸞の墓まである。

それらが分け隔てもなく混然一体となってこの特別で特殊な神秘空間を作り上げている。

 

9007697.JPG

9007695.JPG

9007694.JPG

 

6100363.JPG

6100342.JPG

6100343.JPG

 

6100352.JPG

6100351.JPG

6100353.JPG

 

9007685.JPG

9007684.JPG

9007683.JPG

 

 曽我兄弟、石田三成、伊達政宗、大岡越前から、忠臣蔵で知られる浅野内匠頭・四十七士などの墓があるかと思えば、芭蕉や其角の句碑や司馬遼太郎の文学碑もある。

熊谷直実と平敦盛は、源平合戦の折の須磨の浦で戦った敵同士だが、ここでは並んで葬られている。

川中島で相対した、信玄と謙信はいまだに参道を挟んで対峙しているようにも見える。

 

9007682.JPG

6100362.JPG

6100361.JPG

 

6100371.JPG

6100372.JPG

6100373.JPG

 

9007634.JPG

6100341.JPG

9007633.JPG

 

高野山焼き討ち直前で本能寺に倒れた織田信長も、その遺志を継いだものの木食応其和尚に説得され断念した豊臣秀吉も、焼き討ちを救った応其和尚もここに揃って安堵の地を得ている。焼き討ちが決行されていたら彼らの墓は・・・。

 

そんな中、信長に反旗を翻した明智光秀の墓だけは、何度立て替えてもヒビが入り、これは信長の恨みを買った怨念では・・・などと言われているそうだ。

ここは実にミステリアスな場所でもあるらしい。

 


 

奥の院・大師御廟

 

6100401.JPG

6100402.JPG

6100403.JPG

 

6100441.JPG

6100442.JPG

6100443.JPG

 

 「墓原」の途中、中の橋を渡ったところに「汗かき地蔵」の小さな祠があり、その横に「姿見の井戸」があった。

上から覗いて、水面に顔が映らないと三年以内に死ぬとの言い伝えがあるらしい。

若い女性が恐る恐る覗いていたが、振り返った笑顔につられ、勇気を出して覗いてみると・・・。

どうやらまだ三年は生きながらえそうだった。

 

6100372.JPG

6100412.JPG

6100413.JPG

 

6100421.JPG

6100451.JPG

6100422.JPG

 

 参道はいよいよ「奥の院・大師御廟」に向かう「御廟橋」を渡る。

昔はこの川で体を清め廟前に進んだと言う。近くには「水行場」も残されている。

この橋を渡れば、山内でも最も神聖な場所とされているだけに、ここからは当然飲食も撮影も禁止である。

脱帽し、一礼の上、霊域に入ることになる。

霊廟前の参道には、途中で転ぶとこれもまた三年以内に死ぬとの言い伝えがある石段道がある。

そのため石段は「しに」を超える意味から43段あると言う。

 

6100453.JPG

6100423.JPG

6100452.JPG

 

6100431.JPG

6100432.JPG

6100433.JPG

 

御廟の前に建つのが二万基以上の灯籠で満ちている灯籠堂だ。

1000年以上の不滅の燈明や、おる伝説「貧女の一灯」などがともされていて、この奥が、空海が835年に永遠の瞑想に入ったと言われる「御廟」である。

優れた知恵や法力を得るため、深い瞑想に入ることを「入定」と言うらしく、空海は高野山で「入定」したのだとされている。

したがって亡くなったのではなく、今もこの地で生き続けているのだ。

 

 

お大師さんは留守

 

 国内にはおよそ7万五千を超えるお寺が有るという。

そんな中で、四国を巡る遍路が訪ねるお寺は88ケ寺、お礼参りと称して高野山に上ったとしても百に満たない数である。

そんな一部に過ぎないお寺を巡って「何かが変わったのか」と聞かれても「格段に変わったものは・・・」、「得るものがあったのか」と問われても「目に見えて得たものは・・・」と、些か心もとない。

 

 しかし体が、とりわけこの両の足は、やり遂げたという実感をしっかりと心に刻み込んでくれている。

綺麗なアスファルト道、硬いコンクリート道、手入れされた石畳道、木の根の露出した登り道、落ち葉が絨毯のような林間道、鋭く抉れた赤土の下り道、海岸の砂道や石ころ道、夏草に隠されたあぜ道、丸石を敷き詰めた古い道、排気ガスにまみれたトンネル道などなど、いろいろな道が有った。

そんな道を幾度となく上り、下りして一歩一歩先に進んできた。それらはどこも安閑とした道ではなかった。

 

6100501.jpg

6100502.jpg

6100503.jpg

6100504.jpg

 

6100511.jpg

6100512.jpg

6100513.jpg

6100514.jpg

 

6100521.jpg

そんな道を弛まず、歩き続けて来た。

崩れそうなときもあった、ヘコタレそうなときもあった。

止めてしまおうかと思ったことさえあった。

 

それでもただひたすらに歩き続けてこられたのは、周りの多くの人々の理解と陰日向の支えが有ったからだ。

とりわけ四国の遍路道に息づく「お接待」と言う文化の後押しが有ったからだ。

1200キロとも、1400キロともいわれる遍路道を歩いたこの足は、その裏からこの厚い情けを受け止め、しっかりと心に刻み込んでくれている。

今そんな思いで満願できたことを感謝し、高野山・奥の院への参拝を終えた。

 

その高野山では昔から、生きておられるお大師様は、雨が降ればここに留まっているが、晴れれば全国を歩き回り、この地を留守にされていると伝えられている。

 

この日は暑からず寒からず、秋晴れの快晴は抜けるような青空で一点の曇りもない。その清々しさは、まるで今の心のままだ。

しかし一つだけの心残りは、お大師様の留守にこの地へお邪魔してしまったことのようだ。



 

| ホーム | 遍路歩き旅 | このページの先頭 |

 

(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved.

 

inserted by FC2 system