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古代吉備の国

 

岡山市の西部から総社市にかけて広がる桃太郎線(吉備線)の沿線地域は、かつて3世紀末の古墳時代から飛鳥時代にかけ、中央の大和政権と競うほどに、或は時に敵として描かれるほどの強大な勢力を持ち、高度の技能文化を持つ「古代吉備の国」が栄えたところである。

 

昔から温暖な気候と肥沃な土地で、弥生時代に始まった稲作は日本では最も古いと言われている。

豊かな自然に恵まれたこの地では、風化した花崗岩地帯が多くの砂鉄をもたらし、山間部では鉄が生産されていたらしく、その生産量は出雲を凌ぐほどであったと言う。周辺の古墳からは鉄滓(てつさい・製鉄時に出る鉄の屑)が出土している。

 

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また当時の瀬戸内海の海岸線は、吉備高原と言われる高地の辺りまで深く入り込んでいて、「吉備の穴海」と呼ばれる多数の島々が点在する風景が広がっていた。

入り海は天然の良港となり、その海浜部では塩の生産も盛んに行われている。

当時の主要な産業である鉄・塩・稲の三つを礎にして国は大いに発展し、5世紀前半にはしきりに巨大な古墳を築造するほどの大豪族となっていった。

 

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最近の研究では邪馬台国成立前、九州と畿内勢力の中間に位置しキャスチングボードを握っていた吉備が、畿内勢力と手を結び大和政権の成立を図ったとされている。

然しその後その力を畏れた大和政権は、7世紀末には備前・備中・備後の三国に分割し、更に8世紀に入ると備前の一部を割いて美作国とし、その威光を減じ勢力を削ぎやがては完全に支配下に置いてしまう。

 

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「古代吉備の国」の繁栄ぶりは、今日この周辺地域に残された巨大な古墳群やその埋葬品、塩・鉄・須恵器などの生産遺跡など、考古学的な発掘で窺い知ることになる。

そんな古墳から出土した特殊壺と特殊器台は、弥生時代の「吉備の国」を特徴づけるものとして注目を集めていて、それらは「吉備の中山」にある、「岡山県古代吉備文化センター」で見学することが出来る

 

 

楯築弥生墳丘墓

 

 片岡山と呼ばれる小高い丘陵地の上にあり、「楯築(たてつき)さん」と呼び親しまれていた祠の中の、不思議な文様の刻まれた石の存在は、地元では昔からよく知られていたと言う。

龍神石、或いは亀石等と呼ばれていたこの石は、弧状の文様が線彫りで全面を覆うご神体であった。

 

その祠の周りには、大きいものなら3メートル、小さなものでも2メートルもあろうかと言う板状の、或いは棒状の巨石群が、一見して人々が運び、並び立てたと思われるように林立し、丘の斜面にも板石が多数横たわっていたという。

 

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そんな地の存在が広く一般に知られると、弥生式墳丘墓では・・・との議論を呼ぶようになった。

やがて周辺の宅地開発に押されるように、この地に初めての発掘調査のメスが入ったのは、1976(昭和51)年のことである。

 

結果、自然地形を盛土によって整えられた円丘が確認され、その径は四十数メートルもあり、既知の弥生墳丘墓の中でも群を抜く大きさであることが判明した。

 

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発掘が進むと、主墳の地下1.5メートルのところに、この墓の主人公が埋葬されていることが確認された。

また土中からはヒスイの勾玉、メノウの管玉、ガラスの小玉などに交じり孤帯文石、鉄剣、人形、壺や高坏などの土器なども多数見つかった。中でも注目されたのは木棺と共に見つかった30キロを超える水銀朱や、吉備固有の首長クラスの継承儀式祭礼時に用いられたと考えられている特殊器台や特殊壺が墳丘の各所で出土したことだ。

 

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発掘の結果からは、当時この丘で首長権継承の祭祀がにぎにぎしく執り行われていた様子を想像させると一躍話題になった。

わが国最大級の規模を誇り、弥生時代末期と言われる「楯築遺跡」は、その後の前方後円墳の出現に深くかかわる考古資料として、国の史跡に指定されている。

 

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造山と作山、さらに古墳群

 

 「造山(ぞうざん)古墳」は、全長360m、全国でも4番目の大きさを誇る巨大な前方後円墳で、古墳時代中期(5世紀頃?)に築造されたもので、この地を治めた大豪族の墓と言われている。また、墳丘の大きさや形が大阪の石津丘古墳(履中天皇陵と言われている)とほぼ一致することから、国を治めた王の墓だとの見方もある。

 

然しこの古墳は、埋葬者が未だに比定されていないため、天皇陵などとされた古墳と違い、立ち入りの規制は無く、だれでも気軽に築山に登り立ち入ることが出来、そのことが全国的に見ても貴重な存在となっている。

古墳の裾には人家が建ち、既に田畑となっているところも見受けられる。宮内庁管理の古墳とはえらく趣が違うが、そんな古墳だからこそ地元には愛着も深く、ボランテァや小学生が課外学習の一環でクリーン活動を行っていると言う。

 

近年、造山古墳にようやく県教委の調査メスが入ることに成った。

かつては古墳の外周に有ったとされる、墳丘を囲む周濠の本格的な調査に着手したのだ。

 

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 県下ではそれに次ぎ、全国的に見ても9番目と言う規模の古墳が「作山(さくざん)古墳」である。

独立した小丘陵を削り、三段に築成、整形加工した墳墓で、それは全長286m、高さ24mの前方後円墳だ。

この古墳は盗掘された痕跡がなく、未だ発掘調査も行われていない。

この後円部の足もと地下深くに、どんな埋葬者が眠っているのか・・・もしかして、などと考えると、なんだかワクワクするような、そんな謎解きの楽しみを秘めた墳丘でもある。

 

墳丘の形態や円筒埴輪などから、五世紀中葉頃の吉備に君臨した大首長の墓と考えられているが、早く本格的な調査が入り、どんな秘密が眠っているのかその謎が解き明かされる日が待ち遠しい。

 

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 「両宮山古墳」は、全長206メートル、前方部の幅145メートル、後円部の径は116メートル、高さは25メートルあり、墳丘は三段に築成されていて、備前地域では最大級のものである。

築造当初は、周囲に二重の周濠が廻らされていたと考えられていて、その総延長は349メートルと推測されている。

現在外堀のすべては埋め立てられ田畑になっているが、水を湛えた内堀の一部が残されていて、こんもりと茂る木立を静かに水濠に写す姿には堂々とした風格さえ感じられる。

 

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 卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳は、「昼は人が造り、夜は神が造る」と表現されるほどに、壮大な築造工事が行われたことを日本書記は伝えているが、吉備の国でもそれに劣らない古墳造りが行われていた。

今日、日本国内には前方後円墳と思われる遺跡が凡そ5,200基あると言われている。

その内岡山県下では150基ほどが確認されていて、100mを超える大型墳は何と13基もある。

 

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 岡山県下の古墳群は古墳時代中期と言われる、4世紀末から5世紀にかけたおよそ100年の間に次々と築造されていた。

そうした古墳群の中でも、これら「造山(ぞうざん)古墳」、「作山(さくざん)古墳」、「両宮山古墳」は、吉備を代表する巨大な前方後円墳である。

 

それらは旧備前の国に7基、備中の国に6基あり、その分布は岡山県の三大河川と言われる吉井川と高梁川に挟まれた、岡山平野と言われる地域の丘陵や小高い尾根上に立地している。

そこはこれらの河川により次第に形成されつつあった沖積平野で、温暖な気候、豊な土壌に恵まれた地であった。

 

 

一つ星平野のシンボル

 

2015年、吉備路周辺地域の「吉備平野」が、ミシュラン評価で「星なし」から「一つ星」に昇格した。

「吉備平野」は「古代吉備の国」の繁栄を偲ぶ地域一帯で、その観光のハイライトが、「吉備路風土記の丘」である。

このエリアには「県立吉備路郷土館」が有り、近くには「吉備路観光案内所」もある。

 

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 昔からこの吉備の地には、海岸線が今よりかなり内陸部に入り込んでいた。

いわゆる「吉備の穴海」であるが、ここ吉備には古くから津(港)が設けられていた。

その後海岸線は次第に南に後退していくが、総社平野から岡山平野にかけての原型が縄文時代には形成されたと言われている。

(現在に見る岡山平野は、江戸時代以降の大規模な干拓に負うところが大きい)

 

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そんな当時から、この地には役所や備中国の国分寺と国分尼寺などが造営され、政治・経済の中心として賑わっていた。

古代には旧山陽道が東西に走り、陸路の要地、瀬戸内海への海交通の要衝でもあったようだ。

南の集落の中に入れば、旧道のその宿場の「宿」の町並みが今も残されている。

古い家並みの中には、今も当時の名残をとどめる屋号の残る家が沢山あると言う。

 

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 吉備路の中心に位置するのが「日照山国分寺」である。

ここは寺域が国の史跡に指定されている「備中国分寺跡」で、境内からは壮大な当時の堂宇や門などの跡地が確認されている。

中世には廃寺となったものの、江戸時代に再興されていて、現在に残る伽藍は全て再興後に建てられたものだ。

 

その中でも一際目を引くのが、江戸時代後期に建てられ、国の重要文化財に指定されている「五重塔」であり、その立ち姿は吉備路のシンボルともなっている。

普段は非公開であるが、春の「吉備路れんげまつり」の期間中は、塔の初層が特別に公開される。

 

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ミシュラン「一つ星」評価の「吉備平野」は、周りに近代的な建物の少ない田園地帯である。

緑豊かな山々に囲まれ、遮るものもなく広々と広がる田畑には稲が実り、春には菜の花やレンゲが咲き誇る。

そんな中に吉備のシンボルともいえる備中国分寺の塔が聳え立つ姿は、一幅の絵にも似て美しい。

当時から、山陽道を行きかう人々も、こんな美しい光景にホッと一息つき、旅の疲れを癒されていたのであろう。

 



 

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