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吉備の中山

 

 桃太郎(吉備)線の列車が備前三門、大安寺と停車を重ね、やがて田畑の広がる郊外に出ると、行く手正面左手に小高い、独立した美しい姿をした山が見えて来る。平安時代には既に歌枕としても有名で、あの清少納言も『枕草子』のなかで名山と褒め称え、古今和歌集には有名な歌も残されているほどの山である。

 

「真金(まがね)吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ」(詠み人知らず)

 

かつて中央の大和政権にも劣らない勢力を有していた古代吉備の国の中心に位置する象徴とも言える山で、その名は「吉備の中山」(標高175m)と言い、山の姿が鯉にいていることから「鯉山」とも呼ばれている。

 

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 吉備の国の主体となる岡山平野は大河が流れ、水が豊富なため、稲作が盛んであったことが指摘されている。

更に砂鉄の豊富な山間の地では古くからしきりに鉄が生産され、当時このあたりまで深く入り込んだ入江では、塩造りも盛んにおこなわれていたと言う。

このように主要な産業を有する古代吉備の国は、それらをこの国の礎とすることで、飛躍的な発展をし、古墳を築けるほどの豪族を多数輩出した。

 

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そんな吉備の国の力を畏れた大和政権はこの地を、備前・備中・備後、美作に分割した。

これにより太古より神体山・神奈備山(かむなびやま)として崇められてきた吉備の国にとってはシンボルともいえるこの山に、備前と備中の国境が引かれてしまった。古代の人々の落胆、屈辱感は如何ばかりで有ったのか・・・想像に余りある。

 

 今日、山には麓から遊歩道も有り、車でも気軽に山頂付近まで行くことが出来る。

山中のその南の峰・茶臼山には、空濠を周囲に廻らした南北約200m、東西約100mの前方後円墳・中山茶臼山古墳がある。

四道将軍の一人として大和政権から派遣され、吉備の国を治めたとされる吉備津彦の墓と伝えられ、御陵として明治7年に宮内庁の管理となった。

 


備前の国の一宮・吉備津彦神社

 

 時の大和政権により備前と備中に分割されてしまった「吉備の中山」が、重要な地であることに変わりなない両国は、国にとって最も大切な神社の一宮をその麓に置いた。

それが「吉備津彦神社」と「吉備津神社」であるが、両社の間は2キロと離れていない。

 

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四道将軍の一人吉備津彦を祀る「吉備津彦神社」の最寄り駅となるのが、桃太郎(吉備)線の「備前一宮」駅である。

車窓左手に「吉備の中山」が近付き、その山裾に鳥居が見えて来ると到着だ。

備前の国一の大社で、一の宮として信仰を集めるここは、「吉備の中山」の東麓に位置している。

 

改札脇のホームの端に、何やら赤茶けた長方形の石の塊が置かれている。

これは「吉備の中山」の東麓にある、「石船塚古墳」で発掘された石棺の蓋で、現地には家形の石棺が有り、これはその蓋の片側半分である。無造作に置かれてはいるが、凡そ1500年も前のものらしい。

 

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 「吉備津彦神社」へは、駅を出て旧道を右に進み、今来た線路の踏切を渡ると参道に出る。

参道の正面に石造りの大鳥居が聳え、その足元には備前焼の狛犬が控えている。

高さ1.4mの堂々とした狛犬は、幕末から明治にかけて作られたものらしく、備前焼としては最大級のものだ。

近年痛みが激しかったものを、備前焼作家(備前市伊部在住)が修復を試みたと話題にもなった。

 

 両側に神池が広がる参道を進むと随身門があり、それを潜ると巨大な灯籠が目を引き付ける。

安政年間地元有志らが発起、寄進を募り奉納された石造の灯篭で、六段造り高さは約11m、笠石は畳8畳分の広さが有り、日本一と言われている。

 

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正面の社殿は大屋根を備え、簡素ながらもどっしりとした美しさを醸し出している。

江戸時代に時の藩主池田綱政公により再建されたもので、「三間社流造り」と言われる建築物で、県の重要文化財に指定されている。

境内にある「子安神社」は、縁結び子授けの神様として特に若い女性たちの信仰を集めていると言う。

 

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三備の一宮・吉備津神社

 

 桃太郎(吉備線)線は「吉備の中山」を回り込むように進み、「吉備津」駅に到着する。

その駅の裏手には、線路と並走するように旧山陽道が通っている。

旧街道に出て、そこを曲がると正面に鎮座する「吉備の中山」に向け600mほどの見事な表参道の松並木道が続いている。

 

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吉備津の松並木と言われるもので、「吉備の中山」の西麓に位置し、分国前の吉備の国の一宮、その後も三備(備前・備中・備後)の一宮と称せられた「吉備津神社」に到る道だ。

この神社が確かな文献上に現れるのは、847(承和14)年と言われているが、それは創建から遥かに降ったころで、それだけにこの大社の歴史は相当に古いことがわかる。御祭神は「吉備津彦神社」と同じ吉備津彦命である。

 

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 参道を抜けると、正面に「矢置き岩」と言われるコケの生した大岩が見えてくる。

温羅退治の折、この地に陣を構えた吉備津彦が、矢を置いた岩との言い伝えが残されている。

 

その下から延びる急な石段を上がると、その途中に朱色に塗り込められた随身門があり、それを潜り更に石段を上れば、大しめ縄の下がった本殿・拝殿が姿を現す。三備の一宮と言われるだけに、地元の信仰も篤くお正月ともなると、献灯で飾られた境内は初詣の人々で埋め尽くされ、その数は県下でもトップクラスである。

 

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ご本殿は「比翼入母屋造り」と言われ、それは全国でも例のないここだけの神社建築で、俗に「吉備津造り」とも言われている。

現在の建物は室町時代初期に再建されたもので、国宝に指定されている。

流麗で躍動感が感じられる屋根を戴くご本殿のその広さは、京都の八坂神社に次ぐものであり、また出雲大社と比べると2倍以上も広いと言われ、その大きさを誇っている。

 

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 本殿の横からは、この神社の見所の一つでもある長さは200間余りとされる回廊が延びている。

現在のものは16世紀末に再建されたもので、緩やかな傾斜地を巡る回廊は真っ直ぐに伸びながらも、その建物は波のような優美な曲線で境内にある幾つかの末社や摂社を結び、特色のある景観を呈している。

 

 回廊沿いには桜や梅、ボタンやアジサイなどが植えられていて、四季折々の花木が参拝者の目を楽しませてくれる。

その中ほどには、吉備津彦と温羅伝説に纏わる「御竈殿」が有り、今でもここでは温羅のお告げによる「鳴釜神事」(お湯を沸かしたお釜の、鳴動の大小や長短で吉凶禍福を占う)が伝えられている。

 



 

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