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難読な駅名


 

伯備線は大正8(1919)年8月に鳥取県側から開業が始まり、伯備南線と伯備北線として延伸を重ね、全通したのはその10年近くも後の昭和3(1928)年10月のことである。

 

総社を出ると上下線が分かれ、秋葉山トンネルを抜ける。

すると左手に岡山三大河川の一つ高梁川が近づき、間もなくすると「豪渓」に停まる。

そこからの伯備線はまるで高梁川の蛇行に合わせるように曲がり、くねりしながら、国道180号線と縺れながら北西方向に進んで行く。

 

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 田んぼの中の築堤上に造られた高架駅「日和(ひわ)」を過ぎると、4キロ足らずで次の停車駅「美袋」で、ここは難読駅の一つとして世に知られている。

ここには伯備線が美袋まで開通した大正14年5月に建てられたと言う、木造の小さな駅舎がそのままの形で残されていて、それは国の登録有形文化財に指定されている。

 

ここの地名は駅名と同じく「みなぎ」と読み、それは「水流れ」とも「水の内」とも言われる言葉の持つ情景から転じたものらしく、何れにしても地域を流れる高梁川かその舟交通に関係しているようだ。

 

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 木造平屋建ての下見板張り、切妻の屋根はセメント瓦で葺かれているが錆色に変化しいい味を出している。

正面を外しやや右に寄った位置に切妻造りの車寄せが突き出していて、これは当時の国鉄の木造駅舎の基本形を忠実に表していると言われている。

駅舎前の電話ボックスも今となれば懐かしく、その脇に建つポストが丸形であればレトロ感はさらに増すであろう。

 

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 駅は無人駅で、一面一線の単式ホームと一面二線の島式ホームを持っている。

駅舎のある単式ホームには、それに沿ってしっかりとした木組みが支えるおよそ一見幅の庇が設けられ、その下には木製の縁台のような椅子が造り付けられている。

駅務室の一部窓枠などがアルミ製に取り換えられているが、建屋自体は当時のままらしく、なかなかに味わい深い駅舎である。

 

 

高梁川に沿って

 

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 沿線の両側に聳え立つ山々は、四季折々違った顔を見せてくれる。

冬枯れから新緑が芽吹き、やがて緑に揺れ、更に紅葉し葉を落とし、時に微かな雪化粧など、その移ろいを高梁川の流れに写す。

列車は蛇行して流れる川に沿うように走るので、車窓は刻々と変化を繰り返す。

それはまるで額縁に切り取られた一枚の水彩画を見るようで、野趣に富んだ風景を楽しんでいるうちに列車は「備中広瀬に」に停車し、さらに次の「備中高梁」に向かう。

 

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伯備線は備中の小京都と言われる、「備中高梁」を出ると備中松山城の建つ臥牛山の麓を巻くように高梁川に沿って行く。

次の停車駅「木野山」は「備中高梁」と同時期に伯備南線の駅として開業した歴史の古い駅である。

更にその先の「備中川面」は、ここから「新見」を経て「足立」までの全線が開通するまでの、いわば南線当時の終着駅だ。


その後の全線開通に合わせ、「備中川面」から遅れること一年で設けられたのがその先の「方谷」である。

 

 

文化財の秘境駅

 

高梁川が目の前を流れている。

川と並行する国道180号線からは、駅に向けて心細い橋が川を跨ぎ向かっている。

その駅前には僅かばかりの広場があり、何軒かの民家が建っているが、周りに集落があるわけでもない。

こんな地にひっそりと建つ「方谷駅」には、秘境の趣がある。

 

秘境駅のランキングによると、この駅は197位である。

国道から川を渡り進入する取り付け道路が有ること、駅前に僅かながらも民家があり、普通列車も1〜2時間に1本程度は確保されていることなどから順位を下げているようだ。

 

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 しかしそれ以上に、この駅の価値は認められている。

なんとも懐かしささえ感じる昭和3年に開業した駅舎が、平成23年に国の登録有形文化財に指定された。

この比較的小振りな作りの駅舎は、木造平屋建て、切妻の屋根には、セメント瓦が葺かれていて、外壁は下見板張り、正面には車寄せが迫り出し、駅舎への出入り口になっている。

その柱は木ではなく特徴的な凝った意匠の造りで、洗い出しと言う技法によるものだそうだ。

下部が少し太くなっているので、どっしりとした安定感を感じる。

 

中に入れば少し出張った出札窓口が有り、改札を抜ければ壁には、旧国鉄時代の仕様で造られた駅名標もかけられている。

駅舎からは少し離れた小高いところに一面二線島式のホームがあり、ここでは特急やくもなどの行き違いが行われたりする。

 

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 藩政時代の備中松山藩領西方村、現在の高梁市中井町西方に開業した国鉄の新しい「方谷」駅は、誕生の経緯がちょっと珍しい。

普通駅名は、その所在地の地名があてがわれることの多い中、地元のたっての要望で地名ではない駅名となったのだ。

 

 

山田方谷

 

 その駅名は「山田方谷」に因んだものだ。

「山田方谷」は、当地に生まれ育ち、幕末から明治維新にかけて活躍した政治家・漢学者・陽明学者であり、備中松山藩の藩政時代には藩財政の立て直しを成し遂げた立役者でもある。

 

今から210年余前、方谷駅の有るこの村の貧しい農家で、幼名を球、通称を安五郎と言う男の子が生まれた。

幼いころから神童と呼ばれ、5歳になると親元を離れ新見藩の儒学塾で学ぶようになる。

20歳になり士分に取り立てられ、藩主から奨学金を賜り、それを機に京都や江戸に出て朱子学や陽明学を学び、30歳を過ぎた頃には、藩校・有終館の学頭になる。

その後45歳の時に藩主から、今で言う財政責任者に取り立てられ、藩財政の立て直しを任されることとなった。

 

 当時藩には大阪などの商人から、合わせて10万両の借金が有った。

立て直しを任された方谷は、当然その返済のため節約を強く求めた、と同時に文武を奨励し、産業の振興にも努め、新たに鉱山を開発し、この地からとれる砂鉄などを原料に農具(備中鍬)や釘を作った。

 

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 山には杉、竹、漆を植え、畑ではお茶や葉タバコを栽培、さらに藩民の屋敷などでは柚や柿を植えさせ、そこから得られる産物は、高梁川を高瀬舟で下り、玉島から藩船に積み替え、直接江戸などに運び売り捌いた。

結果約7年で借金を完済、逆に10万両を蓄えるまでに立て直した。

 

方谷は農民の出でありながら藩政にも関わり、後には明治新政府からも再三出仕を要請されるほどであったが、一民間教育者として天寿を全うする道を選んだと言う。

ちなみに今日この付近では柿を使ったお菓子、柚餅子や柚菓子は、代表的なお土産としてもてはやされている。

 

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そんな「山田方谷」の功績を広く知ってもらおうと、地元では「雲中の飛龍 山田方谷」を、NHK大河ドラマで放映を・・・と願う署名活動を行っていた。

方谷の成した改革の理念が、混迷する現代社会のヒントになるとの趣旨で、この幕末の偉人を全国区にしようとの運動だ。

運動を進める委員会は2012年の10月に設立され、2015年の放映を目指して署名活動を行い50万人以上の署名を集めたが、残念ながら放映には至らなかった。

 

 

井倉洞

 

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 吉備高原の北西部には、阿哲台と呼ばれる石灰岩の台地が広がっていて、それはおよそ3億万年前に形成されたサンゴ礁がその母体となっているそうだ。

石灰岩は水に溶けやすく、このためカルスト地形と呼ばれる独特の地形を形成することが知られていて、伯備線の車窓からもその独特な山肌や、その山を削る工場を幾つか目にすることが出来る。

 

 カルスト台地に降った雨は地下に吸い込まれ、付近の川に流出するが、その過程で時に地下に大規模な洞窟を形成する。

それが鍾乳洞で、井倉洞もそんな一つ、その最寄り駅はJR伯備線の「井倉」である。

 

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 駅をでて、すぐ前の旧道を行き、800メートルほど歩き伯備線の線路を超えると駐車場が有る。

ここらあたりは列車で訪れるよりも車のほうが便利なので、大きな駐車場は欠かせないが、それでも近頃は以前のような賑わいは見られないと言う。

 

そこを抜けてさらに奥に進むと、左側に高梁川が流れ、右側に土産物屋や飲食店の立ち並ぶ道となるが、すでに廃業している店舗の跡も見られ、ここでも観光客が減少していることをうかがい知ることが出来る。

 

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 井倉洞は、昭和33年に探検調査によって発見された。

高梁川に沿ってそそり立つ高さ240mの絶壁の壁面にその入り口を持っている。

長さが1200m、高低差は90m、洞内の温度は年間を通して15度程度と言い、夏は涼しく、冬は暖かい天然の冷暖房と言った感じだ。

 

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