風と雲に誘われて
写真と文でつづる旅の思い出
■ ■ 都心の繁華街に 旧街道の歴史を探し(武蔵の国) ■ ■
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→ 大江戸の中央にして かつて 諸方への行程ここより定・ (東海道五十三次・お江戸日本橋〜)
→ 旅立つ人を見送るのはここまでで 江戸の庶民が訳もなく・・ (日本橋〜新橋〜高輪の大木戸)
→ 罪を犯し処刑される罪人が 身体を縛められ裸馬に乗せられ・ (品川宿〜鈴ヶ森〜六郷の渡し)
→ 初旅のまず鶴見から喰いはじめ と言われる東海道での名物第一号は・ (川崎宿〜鶴見〜生麦)
→ 「お休みなさいやアせ 奥がひろふございやす」と 店先で・ (神奈川宿〜台町〜松原商店街)
→ 思い思いに お菓子や果物 お弁当などを持ち込んで終日話に花・ (帷子橋跡〜保土ケ谷宿〜)
→ 鎌倉の腰越浜に打上げられたお地蔵さんが 地元の漁師に・・ (権太坂〜境木地蔵尊〜焼餅坂)
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■ ■ 最初の試練は 箱根のお山の東坂(相模の国) ■ ■
→ この坂は 箱根に次ぐ難所の坂として知られていて 二つの・・ (品濃坂〜戸塚宿〜鉄砲坂)
→ 関東大震災の折 液状化現象により突然田畑から姿を・・ (藤沢宿〜左富士〜旧相模川橋脚)
→ 海のある風景が 中国湖南省の洞庭湖のほとりにある湘南に・・ (平塚宿〜大磯宿〜鴫立庵)
→ 富士山の噴火の影響で 大量の火山灰が川底に溜り幾筋・ (大磯〜酒匂川の渡し〜小田原宿)
→ 領主の菩提寺があり 門内に逃込めば重罪人でも・ (小田原板橋〜風祭〜箱根東坂・早雲寺)
→ 箱根の難所の一つで 昔馬に跨がった夫人が落馬した・ (箱根東坂・湯本茶屋〜女転ばし坂)
→ 「殊の外に危険 猿といえどもたやすく登り得ず」と・・ (間の宿・畑宿〜笈の平・甘酒茶屋)
→ 背後には屏風山が聳え立つ まさに人が通るには・ (白水坂〜芦ノ湖畔・杉並木〜箱根関所)
■ ■ 天下の険を越え 西坂を下る(伊豆の国) ■ ■
→ さすがに飯盛り女はいなかったが それでもこの時だけは 飲み・・ (箱根宿〜箱根西坂〜)
→ 旧道に入り暫く行くと 一風変わった墓が立ち・ (箱根西坂・雲助徳利の墓〜三島・新町橋)
→ 昔から 三島女郎衆が広く知られた所らしく 人足が一人・・ (三嶋大社〜三島宿〜黄瀬川)
■ ■ 駿河湾と 富士のお山を友として(駿河の国) ■ ■
→ 日本橋を発つ折 遙か遙か先に小さく霞んでいた富士の姿が・・ (沼津宿〜原宿〜千本松原)
→ 左富士神社の先では 富士山の姿が一変する・・ (左富士〜吉原宿〜富士川〜間の宿・岩淵)
→ 急峻な薩田山の山塊が急激に海に落ち込み 海岸線には平地が・ (蒲原宿〜由比宿〜薩田峠)
→ この地を縄張りとする次郎長一家が フグ中毒で寝込んだと・・ (興津宿〜江尻宿〜府中宿)
→ その昔 家康が対岸の金山を巡視し 当地で休息した折・ (安倍川〜間の宿・手越〜丸子宿)
→ かなりの勾配で登りながら ヘアピンカーブを過ぎる・ (間の宿・宇津ノ谷〜宇都ノ谷峠〜)
→ 橋の上から夕映えの 西山の景色に見とれていた小野小町は ふと足元・ (岡部宿〜藤枝宿)
→ 幕府は江戸の治安維持のため 川に橋どころか渡船さえも許さず・・ (島田宿〜大井川越え)
■ ■ 東海道はど真ん中 お茶の香りに包まれて(遠江の国) ■ ■
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→ 上りの坂路にして峻(さか)し 大井川の流れ見下ろし 富士山など・・ (大井川〜金谷坂)
→ 年たけて またこゆべきと思いきや 命なりけり 小夜の中山・・ (諏訪の原〜小夜の中山)
→ 葛の粉にてつくり 豆の粉をまぶして 旅人にすすむる・ (七曲がりの急坂〜掛川・馬喰橋)
→ 三ツ池という池が有り 池端で草刈りをしていると どこからともなく・・・ (掛川〜名栗)
→ 両側の茶店賑しく 往来の旅人各々酒飲み 食事など・ (東海道ど真ん中・袋井〜三ヶ野台)
→ 川幅十町許 一ノ瀬 二ノ瀬の二流れとなる 舟渡也・ (見附・行人坂〜天竜河畔・中の町)
→ 南は大洋にして 三州地より豆州下田まで 海里七十五里 是を・・・ (浜松〜幻の橋本宿)
→ お関所前でござる 笠を取って 膝をなおさっしゃりませ・・ (今切りの渡し〜浜名旧街道)
→ 立場立場と 水飲め水飲めと 鮒や金魚じゃあるまいに・・ (旧宿・元白須賀〜国境の境川)
■ ■ 家康と三河武士の故郷(三河の国) ■ ■
→ 宿場の旅籠は、朝と夜に一汁三菜を基本とした食事の提供が有り・・・ (国境の境川〜二川宿)
→ 明治中期頃には、美しい女性を「べっぴんさん」と呼ぶようになり・・ (吉田宿〜豊川放水路)
→ 祭礼の当日、贄狩りに奉仕する村人の目に、若い娘の姿が・・・ (こだが橋〜御油宿〜赤坂宿)
→ 江戸の版元が、遊郭の様子や芝居の舞台など、浮世の好色な世界を・・ (山中八幡宮〜藤川宿)
→ この先街道は、城下を幾度も折れ曲がり、凡そ一里の道を行く所謂・ (男川〜岡崎宿〜矢作橋)
→ 中にはすっかり遊女に入込んで、折角手にした売買の代金を・ (予科練の地〜池鯉鮒宿〜境川)
■ ■ 徳川御三家の筆頭 街道一の宿場町(尾張の国) ■ ■
→ 治安の維持も有り、諸役を免除する条件でこの地への移住を奨励し・・・ (国境の境川〜有松)
→ 公用の武官や風流を求める文人墨客などで、皆一様に潮の引くのを・ (鎌研一里塚〜笠寺観音)
→ 大凡七里有りこう呼ばれていたが、実際の航路は、潮の干満により・・ (裁断橋〜七里の渡し)
→ 天下布武の礎となった城らしく、信長は凡10年間ここを本拠地として・ (清洲と小牧・長久手)
→ 敵が攻めにくく守りやすい、標高15m程の洪積台地で、軟弱の地が・・・ (名古屋城と城下町)
→ 白黒の写真が何枚を貼られていて、通りからは見えそうで・・・ (四間道〜円頓寺商店街界隈)
→ 近年では外国にも広く知れ渡り、特に毎年三月に行なわれる祭りは・・ (田県神社と大縣神社)
→ 味噌抜きでは名古屋の食は語れない、ひと味違うなごやめし・ (味噌文化となごやめし総選挙)
■ ■ 日永の追分け 過ぎれば鈴鹿の峠道(伊勢の国) ■ ■
→ 幕府への反抗心からの自害も、「腰の物(刀)にて怪我」・ (七里の渡し・桑名〜矢田の立場)
→ 美味い事を言っても欺されないことを、「その手は桑名の焼き蛤」と・ (江場の松原〜三滝橋)
→ この坂を馬に跨り越えようとしたが、余りにも急坂のため鞍ごと落ちて・・ (四日市〜杖衝坂)
→ 暗夜を選んで密かに築堤工事を進め、苦心の末六年の歳月を掛けて・ (石薬師〜庄野〜中富田)
→ ルートからも外れ大名達からも毛嫌いされ、賑わいに乏しい・ (井田川町〜亀山〜野村一里塚)
→ 若者の戯れを避けるために姿を隠し、もたれたと伝わる松が・・ (大岡寺畷〜関・西の追分け)
→ 「八丁二十七曲」の始まりは、石垣で固められた九十九折りの急坂・ (筆捨山〜坂下〜鈴鹿峠)
■ ■ 鈴鹿越え 琵琶湖を目指し下る道(近江の国) ■ ■
→ 山賊に会う事なく西の難所 鈴鹿峠を越えて・(鈴鹿峠〜土山・田村神社 道の駅・あいの土山)
→ 峠を控えた休息の宿 遊び呆ける訳には 飯盛り女はいらねェよ・・・(土山宿〜松尾の渡し場)
→ 「わやわやゆう」留め女の客引きで 宿選びの時刻ともなると(松尾村の立場〜水口宿・西見附)
→ 「京立ち 石部泊まり 宿の名物は 菜飯と田楽といもつぶし(北脇縄手〜石部宿〜石部天狗谷)
→ 東海道と中山道の追分けは 客舎茶店に遊女多しといわれ・・・(伊勢落〜目方の立場〜草津宿)
→ もののふの やばせの舟は早くとも 急がばまわれ・・(立木神社〜瀬田の唐橋〜膳所の城下町)
→ これやこの 行きも帰るも別れては 知るも知らぬも・・(義仲寺〜大津宿〜逢坂〜髭茶屋追分)
■ ■ 弥次さん喜多さんの待つ三条大橋へ(山城の国) ■ ■
→ 準備中です 暫くお待ちください
■ ■ 京かいどうを歩く(東海道五十七次・山城の国) ■ ■
■ ■ 淀川に導かれ(東海道五十七次・摂津の国) ■ ■
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