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写真と文でつづる旅の思い出

 

 

 

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東海道五十三次・歩き旅

 

■ ■ 都心の繁華街に歴史を探し(武蔵の国) ■ ■

 

東海道・武蔵国

 

日本橋は東海道の起点である。

江戸に幕府を開いた徳川家康は、直ちに伝馬制をしいて国内に街道を整備した。

これは宿場ごとに人馬を置き、それを交代しながら引継ぎ、幕府公用の書状や荷物を目的地まで円滑に運ぶ制度であった。

 

この橋を起点とする「東海道、中山道、奥州道中、甲州道中、日光道中」の所謂五街道は、最重要と位置づけ、幕府道中奉行による直轄として管理した。

 

中でも東海道は、江戸(日本橋)と京(三条大橋)を結ぶ大動脈でその距離126里6丁1間、現在の距離で凡そ492Kmと言い、その道のりに53の宿場を整備した。

街道そのものから、松並木、一里塚などの整備がすすめられ、道中休憩する茶屋なども設けられたという。

 

当時の旅人は東海道なら、12泊13日を標準としてただひたすら歩いていたらしい。

一日の歩行距離は10里(およそ40キロメートル)と言われる。

 

そんな健脚には及びもしないが、今も日本の大幹線道に変わりない東海道を、ゆっくりのんびり歩いて見ようと思う。

これはその体験記である。

 

 

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→ 海端を通る由海道と申すと言う東海道の出発点は 昔の旅人は七つ立ち今で言う午前四時ころで、まだ夜も明けやらぬ・・

→ その先には石垣と大きな木が茂る高輪の木戸跡が ここには七軒の茶屋が有り、水杯を交わす旅人の姿も多く見られた・・

→ 罪を犯し処刑される罪人が身体を縛められ裸馬に 家族や知人は助けの手を差伸べる術もなく密かに後に続き見送った・・

→ 初旅のまず鶴見から喰いはじめと言われる名物が 間の宿として賑わった立場のあったところで、東海道の名物第一号・・

→ 幕府の役人や大名身分の高い侍公家などが泊まる 高い格式が許される半面、制約も多くまた施設運営の経費もかさみ・・

→ 参拝や観光のため古い道標が四基立てられている 通称「金沢横町」といわれ、金沢や浦賀に至る往還への出入り口に・・

 腰越に打ち上げられたお地蔵さんが地元の漁師に 江戸に連れて行って欲しい、もし途中で動かなくなったらそこに・・

 

 

 

 

■ ■ 最初の試練は箱根のお山(相模の国) ■ ■

 

東海道・相模国

 

 箱根の山は天下の険。

これは上り四里下り四里の道のりが、人家とてない山また山の中、幾度となく繰り返される厳しい坂の連続で、それが旅人にとって取り分け過酷であったということだけではなさそうだ。

 

 苦しい峠越えを緩和するために、当時は人も住まない、痩せた平地の無い山岳の地であった箱根の山中に、宿場町が開かれると同時にここには関所も設けられた。

 

そのことがなお一層、箱根の峠越えを厳しくしていたようだ。

東海道を上り下りする旅人にとって、この関所の手形改めが、殊の外気高く厳しく立ち塞がっていたことは容易に想像ができる。

 

街道を整備した江戸幕府は、全国に53か所に余る関所を設けたと伝えられているが、その中でもここ箱根の関所は江戸の守りを担う関所として特に重要視されていた。

 

 番所の周りや背後の山、芦ノ湖の湖岸にまで強固な柵を巡らし、関所破りをさせない備えがされていた。それだけに関所破りは重罪である。

抜け道となる間道の要所にも「裏関所」が設けられて、厳しく監視し、取り締まっていたと言う。

また街道を行き来する旅人も常時監視の対象となっていたようだ。

その役割を担ったのが間の宿である。

 

 

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 → この坂は箱根に次ぐ難所として知られていて 当時坂は二つの起伏からなり、一番坂の上りは一町余り、二番坂の・・・

 → 道路脇に牡丹餅立場跡の案内板が建っている ここでは名物の牡丹餅で旅人をもてなしていたと言うが、今日その・・・

 → 富士山の噴火の影響で大量の火山灰が川底に 浅瀬では人が歩いて渡り、深みは舟で、あるいは人足渡しの世話に・・・

 → 門内に逃込めば重罪人でも罪を免れたらしい 大きな中州が二つあり、橋は中州を結んで三枚かかっていたという・・・

 → この先で峠への登り道はいよいよ厳しくなり あまりの苦しさに、どんぐりほどの涙がこぼれるほどだといわれて・・・

 → 背後に屏風山が聳え立つまさに人が通るには 抜け道となる間道の要所にも裏関所が設けられ、厳しく監視をして・・・

 

 

 

 

■ ■ 天下の険を越え西坂を下る(伊豆の国) ■ ■

 

東海道・伊豆の国

 

関所の通行には手形の所持が必須とは言われていが、京に上る男や、江戸に下る女にはほとんどお調べ無かったそうだ。

しかしその一方で、「女人と武具は御証文無くしては通さず」とされ、とりわけ「入り鉄砲に出女」は厳しさを極め、女改めと言われるお調べが行われていた。

大名の子女が江戸に軟禁状態にされていた時代だけに江戸を離れ国元に帰る女人の取り締まり強化されていたのだ。

 

それだけに無事関所を超えた旅人の喜びは格別のものがあったようだ。この時ばかりは飯盛り女こそ相手にはできなかったものの、大いに羽目を外し、飲めや歌えと祝ったという。

 

箱根の宿場を後にして、芦ノ湖と分かれ、箱根山の外輪山846mの箱根峠を超えると伊豆の国に入る。ここからは延々と「箱根西坂」と言われる三里二十八丁(凡そ15Km)の長い下り道が続き、それを下りきれば東海道では伊豆の国唯一の宿場町である三島の宿が待っている

 

  三島は東海道の宿場町であると同時に、伊豆の国の一宮「三島大社」の門前町であり、下田街道や甲州街道が交差する交通の要衝として、大層賑わったと言われている。

旅篭の数は何と70軒を超えていたと言う。

人足一人を雇うと34文に対し、飯盛り女郎は500文と言われ、ガイドブックには「いにしえより名高し」と書かれていたそうだ。

 

 

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 → 結い上げた髪を解いてその中や人相身体的な 江戸を離れ国元へ帰る女人の取り締まりは、ことのほか強化されていたらしく

 → 旧道に入り暫く行くと一風変わった墓が立っ さる大名家で剣術指南を務めた人物らしく、酒で事件を起こし追放されこの地に

 → この地は三島女郎衆が広く知られた所らしく 人足が一人34文に対して、「古より名高し」と言われる飯盛り女郎は500文と

 

 



 

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