武家屋敷通りを抜けると、大銀杏が見えてくる。
知覧領主が京から持ち帰った苗木を植えたものらしく、今では樹齢は350年を越える大木になっている。
その下の麓川に掛かる麓橋を渡り、門を潜ると麓公園で、東屋の建つ日本庭園が広がっている。
園内に「ふもと横丁」も併設されていて、物産品やお土産が販売され、食事処もある。
公園の中に、映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」のロケ地に成った事を記念した碑が建っている。
この映画は太平洋戦争当時、ここ知覧の地で特攻隊員と関わった鳥濱トメさんを中心とした物語である。
厳しい戦況にあった当時の、兵士や知覧高等女学校生徒との暖かくも悲しい交流の人間愛が描かれている。
ホタル館 特攻の母・鳥濱トメ資料館
鳥濱トメさんが営んだ食堂が、近くに「ホタル館 特攻の母・鳥濱トメ資料館」として復元され残されている。
軍の指定食堂だった「富屋食堂」を当時のままに再現した、有料施設である。
唱歌のBGMが流れる静まり返った館内では、誰もが掲げられたパネルの文字を無言で追っていた。
時折、歩を進める足音だけが、コツンコツンとか弱げに、板敷きの床に響くだけの静寂な世界だ。
息を呑むように、呻くように、呟くように、微かに囁き合う声と、鼻をすする音がどこからか聞こえてくる。
見れば回りでは、多くの人々が口元にハンカチを当て、止らぬ涙を指先でぬぐっている。
余りにも悲しい現実に、誰もが心を奪われ、呆然とただただパネルを見つめているだけである。
『「お前たちだけを死なせるわけにはいかん」
少年飛行兵の教官をしていた藤井中尉は、少年兵たちの戦死の報を聞く度に、自らも特攻兵を志願した。
しかし、中尉は年齢的にも若くは無く、既に結婚し子供もいたことから当然のようにその願いは却下された。
しかし中尉の信念は固く、ついには血書を認め再度願い出るのである。
当初、出撃に反対していた妻は、夫の決意の余りにも固い事を知る。
ある日幼い二人の子供を道連れに、近くを流れる荒川に、親子共々身を投げ自死の道を選んでしまった。
「これで後願の憂いも無く成りましょう・・・お先に行って待っています」と言う遺書を残して・・。
やがて特攻志願が受理された中尉は、特攻出撃も終わりが近づいたある日、部下を率いて出撃した。
そうして華々しく南の海で散華、愛おしい妻子の待つ彼の世へと旅立って逝った。妻子の死から13日後の事である』
歩けば30分ほどかかると聞いて、中部バスの「ホタル館」前からバスに乗った。
知覧は小さな町で、暫く走ると屋並みは切れ、切り通し道が緩く登る県道に成り、坂を登り切る。
すると突然道路の両側に、夥しい数の石灯籠がびっしりと立ち並ぶ姿が見えてくる。
そこが「特攻観音入口」のバス停で、目の前に護国神社に向かう桜並木の参道が続いている。
この幾本とも知れぬ灯籠は、全国各地から集められた浄財によって立てられたものだ。
戦争末期、沖縄の空に散った若い特攻兵の霊を慰めるためである。
全国に散った元兵士や教官、遺族などに広く呼び掛けたもので、その一つ一つに献灯者の名前が刻まれている。
鳥濱トメが女将を務める「富屋食堂」は、昭和4(1929)年に開業した。
やがて戦局が激しくなると、当地に大刀洗陸軍飛行学校知覧分校が開設され、軍指定食堂に任命される。
こうして女将トメと、特攻隊員との心の交流が始まり、やがては「特攻の母」と呼ばれるようになる。
戦後に成り、高度経済成長期の煽りで、道路拡張に伴い店は取り壊された。
その後、「知覧平和公園」内に、女将の味をそのまま引き継ぐ店として、「知覧茶屋」が開業した。
慰霊顕彰の特攻観音像
木佐貫原と言われる知覧の平地に目を付けた陸軍が、この地に飛行学校を造った。
福岡にある陸軍大刀洗い飛行学校の分教場として整備、少年兵の卵を迎えたのが、昭和17年1月の事である。
十四五歳の少年兵は、過酷な訓練に明け暮れる毎日であった。
そんなたまの休日に過ごす富屋食堂やトメの存在は、息を抜き、心を休める唯一のものであったようだ。
やがて戦局が芳しくなく、知覧の飛行学校は南方への特攻基地となる。
少年兵たちは、国や家族の将来を思い、帰らぬ決意の基、次々と南の空に飛び立って行くのである。
戦後に成ってトメは、知覧から出撃した、若いき特攻兵の霊を慰める事を思い立つ。
そんな鎮魂の観音像建立の提案を続けるトメの想いが叶うのは、昭和30年の事である。
「特攻平和観音堂」には、大和法隆寺の秘仏・夢ちがい観音を模した「特攻観音像」が建立された。
御霊を慰霊顕彰する観音像の体内には、特攻勇士1,036名の霊名録が納められている。
そこは旧陸軍知覧飛行場跡地の北東部に当たる場所である。
全国から集められた浄財をもとに建てられたのが「特攻平和会館」である。
戦局が悪化した太平洋戦争末期の沖縄戦では、1,036名が特攻機で、250sもの爆弾を抱え出撃し戦死した。
父母・兄弟・姉妹を思い、ただ純粋に国の永久を信じ、飛び立って散華した少年兵の御霊を鎮める為だ。
ここには、陸軍特別攻撃隊員の遺影や遺品・遺書・絶筆等凡そ4,500点が展示されている。
その多くは、自らも特攻隊員であった初代館長が収集したものだと言う。
館内には、当時特攻機として使われた陸軍三式戦闘機「飛燕」等が展示されている。
薩摩川内市沖の海底から引き揚げられ、修復された零式艦上戦闘機も展示されている。
壮絶な肉弾の生々しさを伝える激しく損傷した機体は、やり場のない憤りと悲しさを伝えるに余りある。
当時のスローガンは、「敵に神州の地を踏ますな」「敵兵の沖縄上陸阻止」であった。
時の政府は、沖縄を本土の最前線と考え、その死守の為に、若い兵士の精神力までも兵力としたのである。
僅か二十歳にも満たない少年兵たちは、ひたすら祖国の勝利を信じ、勇猛果敢に飛び立って行った。
錆びて朽ちかけた機体を見ていると、少年兵の慟哭が聞こえるようである。
「特攻平和会館」の脇には、隊員達の宿舎である三角兵舎が、復元されて林の中に建っている。
敵の目を欺くため、屋根だけを除いて建物は地下に埋められているのでこう呼ばれるようになった。
中央を通路が貫き、その左右に上り框が造られ、その片側に八人ほどが寝起きした場所である。
ここに入った兵士は早い者で一日、長くても三日から一週間の内には、南の空に飛び立って行ったと言う。
「特攻平和会館」の建つ「知覧平和公園」は広大で、陸上競技場や球場、サッカー場等も備えている。
桜の名所としても知られていて、特に入口付近の桜のトンネルは、映画のワンシーンにも使用された。
映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(2007年公開)で、実際に使用された「隼」が展示されている。
陸軍の主力戦闘機として活躍した機で、当地からは120機が飛び立っていて、これは忠実に復元されたものだ。
その他にも、「特攻像 とこしえ」、母の像「やすらかに」や、航空自衛隊の練習機なども並べられている。
知覧からバスで、今晩の宿を取った枕崎に向かう。
車窓には、南北に2q半、東西に2qほどの広大な茶畑が広がっていて、これが知覧茶の畑である
この茶畑こそ、木佐貫原と言われる平原で、旧陸軍知覧飛行場の跡地であるが、その痕跡は何処にも見当たらない。
当地は、霧深く、昼夜の温度差が大きい山間地で、お茶の栽培に適したところだと言う。
「特攻観音入口」からバスに乗る乗客は、他には誰一人いなかった。
何人か乗っていた女子学生も、途中の停留所で順々に降りていくと、乗車を待つ客がいない停留所は通過する。
最後の女子学生が降りてしまうと、以後停まる事も無く、たった一人の乗客を乗せてバスはひた走る。
こうして知覧からは50分ほどかけて、陽の落ちかけた枕崎のJR駅前に到着した。
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