猿游号
「大内宿」は湯野上温泉駅から、一日六便の「猿游号(さるゆうごう)」で向かうことになる。
4月1日〜11月末日までの毎日運航で基本は前日までの予約制だが、当日運行が有れば予約なしでも乗車は可能だ。
料金は一日フリー券1000円で、座席指定ではないので座れると言う保証はない。
この日乗車したバスは深緑色に塗りこめられたボディーに、天井の赤いラインが印象的な車輌である。
「ペンネンネンネンネン・ネネム号」と名付けられたレトロバスだ。
夫々のバスには、このように宮沢賢治創作の名前が付けられているのだそうだ。
大内宿に向かう猿游号は、駅を出て左側の坂を少し下った駐車場にある停留所から出発する。
発車間近にどこからともなく集まった乗客で車内の座席はたちまち埋まり、立ち客も出る程の込みようだ。
発車すると前の道を右折し、すぐに源次郎橋を渡る。
ここから車窓左手には、大川渓谷の流れと、その対岸にそそり立つ奇岩・夫婦岩が見て取れる。
まるで人が二人寄り添うように立っている姿からこのように呼ばれている岩だ。
会津線の線路を踏切で越え国道121号線に出る。
そこを暫く走り左に折れ阿賀川の支流小野川に沿った県道131号線を上り始める。
その道路脇には「8.7‰ 急勾配注意」の標識が建てられている。
湯野上温泉の標高は400m余り、ここから標高670mの大内宿へは登り続ける小野川渓流沿いの道が続いている。
山々の紅葉はすでに盛りを過ぎ、黄色や茶色に色付いた落ち葉が風に舞っている。
山裾の木立を割って流れる小野川の川幅は余り広くはなく、所々で岩を食み白い急流になって流れ下る。
美しい姿は、青森県の奥入瀬渓流に似ていると評判で、ここを歩いて大内宿を訪れるハイカーも多いと言う。
そんな渓流がしばらくの間車窓の左手に、付かず離れず眺めることが出来る。
猿游号の車内の椅子は木製で、一部が窓側に向けて設けられているのはこのためである。
渓流をのんびりと眺めながら、走ることおよそ20分で大内宿入口のバス停に到着する。
宿場内の通りには車両の乗り入れが禁止されているので、バスといえども入ることは許されない。
大型の観光バスもマイカーも県道脇に設けられた駐車場に車を止めることになる。
大内宿 よってがさんしょ
大内宿は、会津西街道(下野街道とも呼ばれていた)32里の要所、会津から数えて三番目の宿場町である。
南会津の山中にあり、江戸時代には会津城下と下野の国(日光今市)とを結ぶ宿場町として栄えた。
真ん中を広々とした地道が貫き、せせらぎを聞かせる小さな水路が両側に流れている。
整然と区割りされた屋敷割には、見事なまでに統一された茅葺屋根の家々が建ち、懐かしい原風景を見せている。
そこには町家や脇本陣等が当時のままの姿で佇み、まるで江戸時代にタイムスリップをしたかのようだ。
江戸時代には、会津の物資を関東方面に運ぶ、重要な街道の宿場町であった。
宿内に本陣や脇本陣、問屋場や宿屋が軒を連ねたこの町も、何時しか忘れ去られようとしていた。
残された昔ながらの家屋も維持が困難で、一時はトタン屋根に葺き変えられたりした時期が有ったらしい。
戦後になって、マスコミなどの紹介でこの町並みの存在が広く全国に知られるようになる。
すると地元では、町並み保存の機運が俄に盛り上がり、活発になったと言う。
建物の屋根を茅への葺き直し、道路のアスファルト剥がし、電線の地中化などが順次行われた。
結果、今日見られるような姿に様変わりした「大内宿」には、年間120万人以上の観光客が訪れるそうだ。
昭和56(1981)年には、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。
宿場町を貫く往還は500mほどしかないが、道幅は思ったよりも広々としている。
この広い道は万が一の火災の折、延焼を防ぐためかと思ったが、そうではなかった。
元々は街道の中央を流れていた小川を、明治に入り両側に分けたことにより道がより広くなったものらしい。
その道の両側には茅葺屋根の民家が、妻入りの容も揃え幾重にも大屋根を連ねている。
かつてはどこの農村でも見られた当たり前の光景ではあるが、今日これだけ纏まった集落は珍しい。
こんな茅葺屋根を見に、人々は癒しを求めてやってくる。
そしてその光景を目の当たりにすると、懐かしさに思わず感嘆の声を発するのである。
ここはかつて戊辰戦争の舞台にもなり、そのため貴重な資料や図面が散失したと言う。
町並みの中央付近に一際威容を誇って建つのは、参勤交代の藩主等の宿、復元された「問屋本陣」である。
その威容の復元は、近隣の同様な施設を参考にしたもので、「町並み展示館」として内部が有料で公開されている。
宿場通りの中程に高倉神社が有る。
反平家の挙兵をし、戦いに敗れ逃げ延びた高倉の宮以仁王(後白河法皇第二皇子)伝説が残る古社らしい。
近くには宮が草鞋を脱いだとされる築400年の民家や、脇本陣を務めたと伝わる古民家などもある。
会津西街道の大内宿は、中央には小川が流れ、その両側に40軒以上も茅葺屋根の民家が軒を連ねていた。
歩き疲れやっとの思いで宿場に辿り着いた旅人は、手拭を水に浸し、火照った体を冷やし、土埃で汚れた顔を洗う。
泊まりの者は思い思いに宿を決め、早々に草鞋を脱で宿に上がり、行き交う人は茶店の縁台に腰を下ろす。
茶をすすり、小川に冷やされていたであろう、野菜や果物などで喉の渇きを癒したのではなかろうか。
この地に立つと、そんな古の姿が目に浮かんでくる。
今日の町並みでは、そのほとんどが観光客目当ての土産物屋や食事処を営んでいる。
中にはかつての家業を引き継いだのか、民宿を兼ねた家もあるようだ。
土地の名産である色々な物産、手作りの小物や、民芸品を売る店が殆どである。
漬物、しんごろう(米を潰した団子に味噌を塗り炭火で炙った物)、そば粉まんじゅう、焼き魚等多彩だ。
昼食時とあって新そばを提供する店や、名物のねぎそばを食べさす食事処等の店先は随分と込み合っている。
「よってがさんしょ」
ここ会津は、伝統的に女性が活躍する土地柄の様だ。
土産物店や食事処で往来に立ち観光客を呼び、店先で商の中心にいるのは圧倒的に女性が多いようだ。
街道を歩いているとそんな物売りのお姉さん、おばちゃん、おばあちゃん達の会津弁聞こえてくる。
通りの突き当りを小高い丘が塞いでいて、道はここで街道を鉤の手に曲がる曲尺手になっている。
これは敵の侵入を容易にさせない工夫であり、当時この辺りに桝形門が有ったのではなかろうか。
左に取ると坂の上に向けて階段道が有り、登りつめると「正法寺」と言う小さなお堂が建っている。
そこに植えられた巨大なイチョウ木が丁度紅葉期を迎え、境内一面が落ち葉を敷き詰めた金一色になっている。
そこをさらに登れば子安観音のお堂が有り、丁度その辺りでは眺望が開け、見晴らし台になっている。
ここからは茅葺屋根の町並みが一望で、テレビや雑誌、ポスターなどでお馴染みのあのアングルである。
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