東海道本線を大阪で降り、環状線に乗り換え鶴橋に向かい、更に近鉄線に乗り大和八木にやって来た。
この駅前から、和歌山県にあるJR紀勢本線・新宮駅前まで、高速道路を使わないで走る路線バスがある。
その全長は166.9Km、この間の停留所は何と167を数え、所要時間は凡そ6時間半も要するロングランだ。
これは走行距離、停留所の数、所要時間のどれをとっても日本一と言われている。
それが奈良交通の運行する日本一の路線バス「八木新宮線」である。
元々は1920年代頃から、五條市と県南を結ぶバス路線が有り、それが徐々に南に延伸されたものだ。
1963年になって奈良・東大寺大仏前から、新宮駅間で運行が始まったのがその始まりとされている。
その後、紆余曲折があり現在の路線に落ち着いたが、それでも既に50年を超える歴史を有することになる。
沿線住民の足として期待されての運行であったが、当地では過疎化が進み、マイカーが普及した。
近頃では、村民の足と言うよりは、物珍しさから観光路線としても注目を集めている。
駅前の橿原ナビプラザ内にある旅行センターで、「168バスハイク乗車券」を購入する。
このチケットは途中の五條駅・五條バスセンターから、新宮駅手前の権現前間の各停留所で途中下車が可能だ。
ただ、乗り放題ではないので逆に戻ることは出来ないが、料金は二日間有効で5,250円である。
バス車内での販売は無く、奈良交通の各営業所や案内所で、乗車前に購入することになる。
またこの路線バスは、通しで乗れば終着まで6時間半も要する長丁場が待っている。
その為途中で何カ所か10〜20分程度の休憩が予定されている(到着時刻により休憩時間は変わるらしい)。
あくまでもトイレ休憩で、食事がとれるほどの長い休憩は無いので注意が必要だ。
国道24号から168号へ
日本一の路線バスと言われる、奈良交通が運行する「八木新宮線」は一日三往復運行されている。
この日乗車したのは、大和八木駅前11時45分発の便だ。
始発から乗込んだ客は十数名で、その後、停留所に停まるたび乗客が少しずつ入れ替わる。
バスは大和八木駅前を出ると国道24号の四条町から国道166号に入る。
近鉄南大阪線の高田市駅前を過ぎ、再び国道24号を行き、近鉄御所線の忍海、御所の駅前を経由する。
途中で、葛城を過ぎて「かもきみの湯」に立ち寄るが、この辺りまで来ると車窓に賑やかな町並は見られない。
とは言え、途中の大型ショッピングセンター前などでは結構乗り降りもある。
やがて日本一の路線バスは、五條市内の比較的賑やかな市街地を進み、五條バスセンターに到着する。
ここで10分ほど休憩を取った後、バスは再び南下を始める。
JR和歌山線の五條駅前を経て国道168号に入り、大川橋で吉野川を渡り、その先で五條病院の構内に立ち寄る。
ここら辺りまでは、市内とあって人の乗り降りも活発で、路線バスの役割を十分に果たしている。
更に進み標高100メートルを超える丹原辺りを過ぎると、車窓の風景は一変する。
車内では、「カーブを重ねる山道を行くので・・・」と、注意を促すアナウンスが流される程の登りカーブ道だ。
車窓左手には丹生川が蛇行し、流れに沿う国道は、右に左に幾つも曲がりながら、少しずつ高度を上げて行く。
ここに来て気が付けば、車内は観光客らしい五名だけになっていた。
当然途中の停留所での乗り降りもなく、徒に「通過します・・・」を繰り返すのみである。
沿線の所々には小さな集落が有り、切り開かれた畑等では、たわわに実る柿木なども目にすることが出来る。
ここ西吉野辺りは全国でも有数なカキの産地らしく、国道脇には何軒もの直売所が店を広げていた。
やがて紀伊半島の分水嶺・天辻峠が近くなる。
そこに至るまでの登り道は、徐々に幅員狭く成り、大型自動車の行き違いが心配になるほどに狭い。
随分と山深いところで、車窓の下には深い谷が落ち込み、雲が湧きあがるのか所々で視界を遮っている。
分水嶺である峠を、新天辻隧道(1174m)で抜けると、標高が650メートルほどの大塔地区に到着する。
そこには「道の駅・吉野路大塔」、「天辻峠星のくに」「大塔郷土館」の停留所があるが乗客の姿はなく通過する。
道路にまつわりつくように流れる川は、何時しかその名を「天の川」と変えている。
国道は少しずつ高度を下げながらヘアピンカーブをやり過ごし大塔橋を渡ると、車窓右手にダム湖が見えてくる。
熊野川上流域につくられた猿谷ダム貯水池の、更に上流域となる地域である。
水量が少ない時期だからか、山肌には大きな爪で欠き取ったような地層の横縞模様が見て取れる。
日本一大きな村
峠を抜けると、国道168号には新しいトンネルが掘られ、幅員の広い真新しいバイパスが目立つようになる。
橋の架け替えが行われている場所もあり、いたるところで土木工事が行われているのがよく解る。
川に目を凝らせば、所々で護岸壁の工事も行われ、既に修復されたと思われるところも少なくは無い。
バスはそんな真新しいバイパスの恩恵を受けることもなく、多くは幅員の狭い曲がりくねった旧道を走行する。
なぜなら、そこに集落があり、そこに停留所が有り、そこにバスを頼りにする住民の生活が有るからだ。
しかし過疎の進んだ集落には、乗客など居そうには無いはずなのに、バスは律儀に停留所を巡って行く。
バスは広さ672平方キロ、日本一大きな村と言われる十津川村を駆け抜ける。
紀伊半島のど真ん中、奈良県の最南端に位置する十津川村は、広大な地のほとんどが厳しい山間の地だ。
人口3,300人余り、人口密度で言えば一平方キロメートル当たり五人余りである。
日本一と言われる面積は、東京23区よりも広く、琵琶湖をも僅かに上回っている。
殆どが急峻な山地で平地が少なく農耕作業に適さない厳しい地勢で、村の真ん中を十津川が南に向けて流れている。
そのため主な産業は林業と川魚などの加工だと言う。
この村では、これまでに鉄道や高速道路は、全く無縁の生活を強いられてきた。
村民の足は、この路線バスだけが唯一の公共交通機関で、バスに頼るしかない住民たちのその歴史を刻んできた。
この路線の運行が始まった当時は、待望され開通したこともあり、連日満員の乗客で盛況で有ったらしい。
しかし好況は長くは続かず、その後沿線の過疎が進み人口が減ると同時に、マイカーが普及し利用客は減少した。
地勢的にも豪雨災害の発生しやすい土地柄で、土砂崩れで国道が通れず、運休を余儀なくされる事も有ったりする。
こうなると当然営業収支は悪化し赤字が続き、お決まりのように路線短縮や減便が持ち上がる。
終には、廃止してしまえと言う論議も巻き上がったそうだ。
元々十津川村は、新宮との結びつきが強い土地柄らしく、昔から僅かながら一定の利用が有ったと言う。
特にマイカーを持たない高齢者にとっては、バスは唯一の貴重な足と言う訳だ。
路線を分割すれば、これらの利用者に乗り継ぎが発生し利便性が悪くなるな、と反対も根強くあったそうだ。
そこで国と奈良県や沿線自治体の補助金の出番となり、今日の長距離「日本一の路線バス」に繋がった。
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