十津川温泉から8時35分発の村営バスに乗り、「熊野本宮大社」に向かう。
乗り込んだ乗客は7名ほどで、全員が前夜十津川温泉に泊まった観光客と思われる。
バスは二津野ダム湖に沿うように、通行する車もほとんどない新道を軽快に進む。
所々で川沿いの小心細そうな旧道を、集落に向かい入り込んだりするが、停留所に地元民らしきの人の姿は無い。
途中、七色か八木尾の集落を越えた辺りで、新宮発の大和八木行の第一便と行違った。
昨日の便の運転手は、始発から終着まで6時間半を交代なく一人で乗務して、翌日の便で戻ると言っていた。
恐らくあのバスに乗務していたのであろう、等と考えている内に熊野本宮大社前に到着した。
さすがユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録された地だ。
観光バスやマイカーで訪れる観光客も多く賑わっている。バスの乗客全員もここで降りた。
バス停から目の前の国道を横切って、大鳥居を潜り境内に入ると、左手が瑞鳳殿だ。
神社の研修施設、参拝者の休憩施設として、売店やカフェが併設されている。
災害の多い当地らしく、万一の時には避難場所としても使われるのだそうだ。
「熊野大権現」と書かれた白い幟旗の立てられた参道を進む。
杉木立の茂る森の中の、神域に向かう158段の石段を上ると、手水舎が有り、その先には宝物殿がある。
参道は神様が中央を通られ、参拝は右端を上るのが作法とされているから、手水舎も上り詰めた右側にある。
石段を上り終えれば右手に授与所が、左手に真新しい拝殿が威容を誇り、その間の正面に神門が建っている。
大注連縄の掛かる神門を潜ると、そこは社域の中でも一番神聖とされる場所で、正面に檜皮葺の御社殿がある。
平成7年に、国の重要文化財に指定された建物だ。
まず正面の素戔嗚尊を祀る証誠殿から参り、次に左の中御前と西御前を、その後右端の東御前に向かうのが作法だ。
全国にあまたある「熊野神社」の、総本山に当たるのが熊野三山である。
その中でもとりわけ古式ゆかしい雰囲気の漂うのが、この「熊野本宮大社」だと言われている。
その深い緑に包まれた静謐な空間は、千年の昔から祈りをささげる人々の心を静かに受け止めてきた。
今またここに悠久な時を刻み、更に未来永劫、心の拠り所として人々の尊崇を受け続けて行くのであろう。
三本足の八咫烏は、元々は神武天皇との縁で「熊野権現」のお使いとされている。
そのため境内には、幟旗や看板等色々な所で目にするが、中には上部に八咫烏が留る黒い丸ポストもある。
実際に使われているポストで、ここから葉書を投函すれば、記念のスタンプが押されるという。
また、この八咫烏は今では、日本サッカー協会のシンボルとして使われていることは広く知られている。
大斎原(おおゆのはら)
国道を渡り駐車場脇の細い道を10分ほど歩くと、日本一と言われる大鳥居が見えてくる。
嘗ては熊野川と音無川、岩田川の三川が合流する木々の茂った中洲で、「大斎原」と呼ばれたところである。
「熊野本宮大社」は正式な名称を「熊野坐(にます)神社」と言い、かつてはこの地に鎮座していた。
縁起は古く二千年の昔に遡り、中世に盛んに行われた熊野詣はこの地を目指していた。
江戸時代に描かれた絵図によれば、その規模は一万坪にも及ぶ境内の概要が窺い知れると言う。
そんな中洲を明治22(1889)熊野川の大洪水が襲い、建物類の大部分が流出した。
辛うじて水難を逃れた四社を、近くの小高い丘の上に遷座したのは災害の二年後で有った。
それが現在の「熊野本宮大社」である。
いまその広大な原には二基の石祠が立てられ、かつての栄華を今に伝えている。
「熊野本宮大社」の参拝を終え、バス停に戻ってきた。
次の目的地、湯の峰温泉に向かうバスに乗るためだが、時刻表を確認すると予定していた11時発の便が無い。
あわてて目の前の「熊野本宮館」に駆け込み、観光案内所の職員に尋ねてみる。
「次を待つか、歩くか、タクシーしかありませんが・・・」と、つれない返事しか返ってこない。
湯の峰温泉までは、「熊野古道大日越」と言うルートが有って、距離は4キロ弱だ。
途中で大日峠を越えるので、1時間では少しきついと言う。
歩けなくはなさそうだが、これなら次のバスを待っても到着はそれほど変わらない。
さんざん悩んだ挙句、タクシーに電話をしてくれると言うのでやむを得ずこれを選択した。
「たった一台ですから捕まるといいのですが・・・」、「門前にいませんでしたか?」と職員が聞く。
「鳥居の前に、プリウスが停まっていたど」と答えると、「それです」と言い、タクシーは直ぐにやって来た。
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