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JR川越線
大宮駅で高崎線を降り、地下の21番乗り場だという駅のアナウンスに導かれ、川越線の乗り場に向かう。 改めて時刻表で確認すると同駅の新幹線から川越線の乗り換えは10分とあり、これが目安になる。 ホームに降り立ち、人混みに揉まれながら階段を上がり東西の連絡通路から、今度は深い地下への階段を降りるとそこが川越線のホームでこの間5分ほどと思ったよりも近い。
埼玉県の大宮駅と同県の高麗川駅(こまがわ)の間30.6qを、10駅で結ぶのが川越線である。 その歴史は比較的新しく、昭和15(1940)年、国策の軍需鉄道として全線が一度に開通している。 その後平成21(2009)年に、西大宮駅が日進と指扇間に新設される以外は、駅の増減も路線の変更も行われず、開業当時の姿をとどめている路線でもある。
とは言え埼京線の開業に合わせ電化され、川越と新宿を結ぶ電車が頻繁に走り始めると、通勤路線として大きな発展を遂げ、今では東京臨海高速鉄道りんかい線との直通運転が行われ、通勤快速が走り、池袋や新宿・渋谷、お台場などへ乗り換え無しでアクセス出来るようになっている。
僅か30キロ余の路線ながら、全線を直通する電車は設定されていず、大宮方面からきた列車は全てが川越駅止めである。 首都圏を構成する路線らしく、午前4時台に始発が有り、日中こそ1時間に3本程度だが、通勤通学の時間帯にはこれよりも多く設定されている。通勤路線らしく首都圏から戻る電車も、午前0時を過ぎて到着する電車が少なくない。
西側は電化された八高線の高麗川から八王子との間で直通運転が行われているが、編成も短くなりその本数は1時間に2本程度で、中には高麗川止めの電車もある。 電化されたとは言え複線区間は大宮から日進の間だけで、後は単線であり多くの駅で列車の交換が出来るようになっている。
大宮駅で乗り換えた川越線は、地下の駅を出てやがて地上に出ると、鉄道博物館を左に見ながら高崎本線と分かれ、進路を大きく西に取る。首都圏のベッドタウンでも有るさいたま市街地(旧大宮市)の広がりは指扇駅を過ぎる辺りまでで、車窓は次第に郊外の雰囲気となると、ゴルフ場を下に見ながら荒川の鉄橋を渡る。 一帯は低湿な田園地帯のようだ。位置的には武蔵野台地の東北端で、幾つかの小さな川の流れを越えるのは、ここら辺りが奥秩父から流れ出た多摩川が長年かけて形成した扇状地として形成されたからか。 これから向かう川越は、荒川・新河岸川や入間川に挟まれて立地している。
そんな川を越えないと着けない地であることから、元々は「河越」と呼ばれていたとか。 また川がもたらす肥沃な地であることから「川肥」とも言われたとか、平安時代にこの地を押さえた川越氏に由来するなど、その地名の起源には諸説有るという。
江戸情緒の漂う川越
武蔵の国・川越は、江戸時代になると有力大名が支配する幕府の北の要として、又川越藩のその城下町として栄えてきた。 町は江戸から或は領内の各所から、物資や農産・特産品の集散地として、当時は主に川越街道を使った陸運や、新河岸川の舟運の要衝としてその繁栄の歴史を支えてきた。 その為江戸との交流も厚く、文化や芸術に江戸情緒を色濃く写す町となり、時にその勢いは江戸を凌ぐもので有ったという。 町内には城跡や、神社仏閣や商家など歴史的建造物も多く残り、今日「小江戸(こえど)」と呼ばれる観光地となっている。
舟運から鉄道に変わった今日では、JRを筆頭に、西武新宿線や東武東上線等が乗り入れ、首都圏の新宿や渋谷から1時間、横浜からでも1時間半ほどの距離で、乗り換え無しで来られるようになった。 車なら関越自動道の川越ICから、観光の中心的なところまで数キロと離れてはいないのでアクセスも良い。
そんな風に地の利も良いことから、観光客の数は、年間700万人 を越えるという。 平成23年には「歴史まちづくり法」(通称)により、「歴史的風致地区向上地区」(所謂「歴史都市」)に認定されたことも有り、近年では国内のみならず、日本の伝統や、江戸情緒を求める外国人観光客も増えているらしい。
町巡りには、「小江戸巡回バス」の利用が良さそうだ。バスはレトロな小型ボンネット型で、「喜多院先回りコース」と「蔵の街先回りコース」と言うのが有り、車内では名所案内も行われるので、観光遊覧バス感覚で利用できる。 バスは駅の西口発着で、町中の有名な観光名所を結んで走る路線バスとして利用するなら一乗車200円である。 一日乗り降り自由なフリー乗車券も500円で用意されていて、この券には協賛店での特典も受けられるサービスが付いていて、一日かけてゆっくり町巡りを楽しむにはお得である。
川越の町歩きは、大きくは三つのゾーンに分けられる。 一つは、観光パンフレットなどでもお馴染みの、町を代表するスポットの「蔵づくりの町並・一番街」だ。 二つ目がこの町の発展の基となった「川越城本丸御殿」や、「博物館・美術館」、「氷川神社」のある辺りである。 そして最後が「喜多院」や、「熊野神社」、「東照宮」、「成田山」等、多くの社寺が集まるゾーンだ。 沢山の見どころがあるが、やはり観光の中心的な場所は、「蔵づくりの町並み(一番街)」のようで、その美しい町並は、「重要伝統的建造物群保存地区」や、「美しい日本の歴史的風土100選」に指定されている。
どっしりと重みのある黒瓦葺きの屋根にどっかと跨ぐ鬼瓦、落ち着きのある黒漆喰の壁、分の厚い観音開きの窓の扉、窓に嵌められた格子、屋根庇に乗る歴史を重ねた店の看板、玄関先に架かる暖簾・・・。 まるでタイムスリップをしてしまったかのような趣のある商家が立ち並ぶ様に圧倒される。 江戸時代になり、城下町が整備され、向かいあった家並みが形成されるようになると、度重なる大火の対策として、幕府が燃えにくい瓦葺き漆喰塗り込めの土蔵造りの建物を奨励したのがその始まりだという。 こうした建物の中には江戸・寛政年間に建てられたものもあり、国の重要文化財に指定されているが、町並みに残る建物の多くは、明治26年に起きた川越大火以後に作られ、今も30数棟が残されているという。これらは関東大震災をも乗り越えてきた。
とにかく人の多さに驚かされる。どこに行っても人、人、人・・・で、菓子屋横町も例外ではない。 石畳の道に20軒ほどのお菓子屋さんなどが立ち並ぶ狭い通りは、まるでお祭りの縁日のような人出である。 店を覗こうにも店先ではじかれて入れない。人気のスイーツの店先には長い行列が出来ている。通りも人が多く思うように歩けず、足下のその石畳も見えないほどの混みようだ。
その人波のピークは、この町のシンボルとも言える「時の鐘」の有る辺りだ。 「時の鐘」は、江戸時代の初め頃から城下に時を告げ、町民に親しまれてきたという。 全国的にも時の鐘は残されているところもあって、格段に珍しい存在ではないが、ここのものは、川越大火で一度は焼失して無くなったのを、再建したものだという。今有るものは4代目に当たり、機械仕掛けだそうだ。 江戸情緒の色濃く漂う町並に響き渡る鐘の音には、恐らく川越商人達のその心意気が聞こえて来るのであろう。 そんな鐘の音は、午前六時、正午、午後三時、午後六時の一日四回なるそうだ。
この地域の代表的な観光施設が、「川越まつり会館」である。 江戸の影響を強く受けてこの地に根付き発展を遂げた祭りは、国の重要無形民俗文化財となると同時に、平成28年12月にはユネスコの世界文化遺産にも登録された。そんな山車の実物を展示するのがここである。 館内では定期的に入替えられる山車が見られると同時に、休日などにはお囃子の実演も行われ、祭りの模様を伝える上映も有る。
今から370年ほど前、時の川越藩城主が地元の氷川神社に、祭礼用具を寄進し祭礼を奨励し、それを受けた氏子による御輿を渡御したのがその始まりとされている。その後町民が屋台を造り披露したことから、次第に祭りの主役が山車に置き換わり、各町が競って発展させ、今日に見る絢爛豪華なものに育て上げたそうだ。
この川越祭に使われる山車の最大の特徴は、城の門を潜る為に工夫された、二層構造の「あんどん(鉾)」と、そこに飾られる山車毎に設けられたテーマゆかりの人形だ。 水平回転する回り舞台になった台の一番上層には、その人形が飾られていて、それは二層目の内側にすっぽりと収まり、それがそのまま一層目のお囃子台(舞台)に収められる伸縮自在のエレベータ構造になっている。 山車には、赤や黒の漆塗りや、金箔がふんだんに使われ、川越職人の手になる精巧な木組みと彫り物に、金銀刺繍仕上げの艶やかな幕が飾られたさまは見るものを圧倒する美しさである。
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