分断された本線

 

「信越本線」は、本来は高崎から、長野や直江津を経て新潟までの250.3qを70駅で結ぶ路線である。

歴史は古く明治181885)年に高崎と横川間が官設鉄道として、その三年後に軽井沢と直江津の間が開通したのが始まりだ。

それは本州の中央を東西に貫く日本の大幹線で、首都圏と信州・上越を結ぶ重要な路線でもあった。

 

そんな路線が幾つかに分断されたのは、北陸新幹線の開業時が始まりである。

まず沿線の最大の難所である碓氷峠を越える横川と軽井沢間が廃止され、ジェイアールバス関東の路線に置き換えられ、更に軽井沢と篠ノ井間の路線は、第三セクターの「しなの鉄道」に業務移管された。

分断の試練はこれで終わる事もなく、北陸新幹線が長野から先金沢まで延伸されると、長野と妙高高原間は「しなの鉄道」に、妙高高原と直江津の間は「えちごトキメキ鉄道」に移管された。

 

信越本線

信越本線

信越本線

 

信越本線

信越本線

信越本線

 

 結果長大な路線は三つに分断された。残った直江津と新潟間の136.3qは、今でも日本海に沿った本州を縦断する幹線の一部を形成し、特急などの優等列車が疾走している。また高崎と横川の間は29.7qが残ったものの、1時間に1本程度となった高崎駅の発着ホームの時刻表にはそれでも「信越本線」との表記があるが、「本」の字がむしろ空しく感じられる。

更に僅か9.3qとなってしまった篠ノ井と長野に至っては、もはや完全にローカル線に成り下がっている。

 

 高崎を出た信越本線は大きくカーブして上越線や新幹線と分かれ、北高崎に停車後市街地を抜け、少しずつ高度を稼ぎながら次第に山岳地帯に向かう。右手にはいつの間にか碓氷川が寄り添い、その向こうには旧国道18号線も流れている筈だが、車窓からは余り見通すことが出来ない。

 

信越本線

信越本線

信越本線

 

信越本線

信越本線

信越本線

 

信越本線

信越本線

信越本線

 

信越本線

信越本線

信越本線

 

安中や磯部などでは、駅周辺に比較的多くの住宅や商店、大きな工場等も見られるが、ここを過ぎる辺りから、車窓の景色は緑濃い雑木林や田畑の長閑なものに変わり、その先には尖った岩峰の、荒々しい山塊が車窓に付きまとい目を楽しませてくれる。

地図で確かめると、祟台山や金鶏山・相馬岳のように思えるが、これらが上毛三山の一つ、妙義山を構成する山々であろう。

 

 高崎からは30分ほど、それらが次第に左間近に迫ってくると終点の横川に到着である。

高崎からこの駅の間に開設された官設鉄道が、明治181885)年に開業した歴史の有る駅だ。

碓氷峠越を控えた駅として、広大なヤードを構えていたらしいが、今その面影をどこにも見ることが出来ない。

平成9(1997)年、北陸新幹線の先行開業に伴い当駅から軽井沢間の鉄道が廃止され、信越本線の終着駅となった。

 


 

 

信越本線の終着駅横川は、相対した2面のホームに、各1線を有する有人駅で有る。

当時の貨物線か留置線の名残であろうか、錆びた線路が二本の線路の間に残されているが、何れもその先はコンクリートブロック製の車止めで封鎖されていて、ここは紛れもなく信越本線の終着駅である。

その車止めの向こう側には、3番線に向かう渡り通路設けられていて、その先に延びていたであろう鉄路を遮っている。

嘗ては島式ホームで4番線も有ったようだが、今は線路も無くフェンスで仕切られた向こう側は広い駐車場になっている。

 

信越本線

信越本線

信越本線の終着駅横川

 

信越本線の終着駅横川

信越本線の終着駅横川

信越本線の終着駅横川

 

信越本線の終着駅横川

信越本線の終着駅横川

信越本線の終着駅横川

 

その昔、東京と新潟を結ぶ幹線路として期待を担った信越本線には、大きな難題が横たわっていた。

それは路線の建設には大きな期待がかけられていたものの、そこには本線中でも最大の難所と言われ、11.2qの間の66.7パーミルと言う途轍もない勾配を持つ碓氷峠が有り、それをどうやって越えるかと言う問題である。

 

この時代では、普通の機関車ではとても上れない峠と考えられていて、その対応策は様々な検討が行われていた。

その結果、当時ドイツで採用されていた急傾斜でも運行が可能な「アプト式鉄道」が採用される事になった。

「アプト式鉄道」とは、線路の間に一本歯のレール(ラックレール)を取り付け、機関車の下に付けた歯車(ピニオン)の動輪とかみ合わせて走る方式の鉄道のことだ。

 

信越本線の終着駅横川

信越本線の終着駅横川

信越本線の終着駅横川

 

信越本線

信越本線の終着駅横川

信越本線の終着駅横川

 

碓氷峠を控えたこの横川駅では、峠越えのため補機の連結や解結作業が行われ、列車が長時間停車することも有り、そんな時間を利用して、多くの乗客はホームに降り立ち長旅の疲れを思い思いに癒やしていた。

そんな人々の人気を集めたのが、駅名物のおにぎり弁当であり、後の「駅弁・峠の釜めし」であった。

 

改札脇のホームの片隅には、今もその看板を掲げた立ち食いのそば屋が営業をしている。

その「おぎのや」は、駅開業と時を同じくして創業し、当初はおにぎり弁当の販売を始めたと言う。

「駅弁・峠の釜めし」が発売されるのは昭和331958)年のことで、益子焼の一人用釜に入れられた斬新なアイディアが受け、人気を得たという。

 

信越本線の終着駅横川

信越本線の終着駅横川

信越本線の終着駅横川

 

信越本線の終着駅横川

信越本線の終着駅横川

信越本線の終着駅横川

 

 碓氷峠を越える鉄道が廃止された今日では、その代役はバスが務めていて、その先に乗り継ぐ場合一旦改札を抜け、駅前の乗り場から出る、ジェイアールバス関東のバスを利用することになる。

軽井沢行きは新道の碓氷バイパスを経由し直行する便が殆どで、一日八往復運行されていて、その所要時間は30分余だ。

また峠を訪れるハイカーに対応するため、旧道を行き、各停留場に停まる便が一便だけ運行されている。

 


 

碓氷峠鉄道文化むら

 

 横川駅を出て左に少し歩き、軽井沢行きのバス乗り場を横切り、その先の道路を越える。

その正門前の道路には、そのまま埋め込まれた何本もの廃線レールが見られ、ここが嘗ての鉄道施設であった事を窺わせている。

そんな線路跡を踏みながら少し行くと、煉瓦造りの券売所を構えた「碓氷峠鉄道文化むら」が有る。

 

元々ここには横川駅の横川運転区があり、それを生かしながら生まれ変わったもので、平成111999)年にオープンした。

鉄道の歴史や仕組みを伝える博物館と言う要素を含みながら、どちらかと言えば、見て、触れて、体験できる、子供向けの学習・遊戯施設のようだが、勿論大人も楽しめる。

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

 券売所を抜けると目の前には煉瓦造りのアーチ橋を模したゲートがある。

その上には園内を一周(800m)する子供向けの蒸気機関車「あぷとくん」のレールが敷設されている。

広い園内の少し高くなった奥には、ミニSLが走るコースも有り、途中の駅では乗り換えすることも出来る。

園の右側には、トロッコ列車の「ぶんか村駅」があり、旧信越本線の下り線を利用して「とうげの湯駅」までの間、2.1qでトロッコ列車シェルパ君が運行されている。本格的なトロッコ列車であるが、文化むらに入村しないと乗れない園内の遊具施設である。

 

 園の中央にある大きな建物は鉄道展示館だ。

ここは車両の検査や修理をする場所を公開した施設で、当時の状況のまま残されている。

屋外には、旧国鉄時代に活躍したSLや電気機関車など、数々の車両が屋外展示されていて、中には実際に運転席や車内に乗り込めるものもある。又隣接して鉄道資料館も有り、中には碓氷峠のジオラマ模型等が有り、碓氷峠の鉄道の歴史を紹介している。

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

 「碓氷峠鉄道文化むら」の主なテーマは、碓氷峠を越える鉄道の建設と運行時間短縮との戦いの歴史である。

昔から碓氷峠は交通の要衝であると同時に、鉄道の敷設にとっては、66.7パーミルもある急勾配が最大の難関で、それをどう克服するのかが命題となっていた。その答えが「アプト式鉄道」の導入であった。

 

明治251892)年にドイツからC型アプト式機関車3900型が輸入された。

僅か11.2qの間に26カ所のトンネル、18の橋梁が作られた横川と軽井沢間がその翌年に開業し、いよいよデビューとなった機関車ではあるが、当初の峠越えはのろのろ運転で75分を要したと言われている。

その後明治40年代には電化され、ドイツから電気機関車が輸入され、それにより所要時間は50分を切るようになる。

更に昭和に入り、国産の電気機関車が開発されると、牽引量は倍増し、所要時間は47分まで短縮された。

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

こうして運用の始まった碓氷峠のアプト式鉄道ではあったが、人、物の交流が更に活発化した昭和も半ば頃になると、このボトルネック的な特殊区間では、輸送量不足が懸念され、これでは時代の趨勢に合わず、改善策の検討は急務であった。

さらには、車両や施設の老朽化も顕在化し始めていた。

その為、アプト式を廃止した新たな方式、勾配の緩和、複線化新線などの計画や、様々な案が検討されることになる。

 

検討の結果、補助機関車を使用した通常の運転方式で複線化と決められ、昭和361961)年に工事が始まった。

1万数千人の人力と最新の技術を駆使した工事で使用された資材は、れんが1800万個、セメント17500タル、松丸太や杉丸太等が六万本、他にも切石や砂などが東京や群馬、長野、新潟など広い範囲からから運ばれたと言う。

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

碓氷峠鉄道文化むら

 

こんな難工事ながら、1年6ヶ月と言う短期間で、アプト式線路の北側に新線が開通した。

新線用の機関車も新たに開発され、EF62形機関車を本務運転に、EF63形機関車を補助運転とした牽引で、その牽引量は飛躍的に増え、列車の運行回数も倍増させている。何よりも特筆すべきはその所要時間を、なんと17分まで短縮していることだ。

これにより信越本線のアプト式鉄道は完全に撤退となり、70年余の歴史は幕を閉じることになった。

昭和381963)年9月の事である。

 

 ここでは嘗て峠を上り下りした、そのEF63形機関車が動態保存されていて、指導員の添乗の元運転の体験が出来るメニューが用意されていて、それは国内ではここでしか体験できないコースだと言う。

学科講習を受け、その翌日に片道400mの線路を往復する30分の体験乗車が出来る。運転実技はその走行回数により、見習いから始まり、補助機関士、本務機関士の資格認定があり、各ステップの腕章が与えられるという。(勿論有料で予約が必要)

 

 

坂本宿と碓氷関所

 

江戸時代街道の整備に合わせ、幕府は治安の維持管理を目的に各地に関所を設けた。

取分け関東入国の抑えとして重要な関所と言われたのが、東海道の箱根峠に設けられた箱根関所と、浜名湖の今切の場所に置かれた新居関所である。また五街道の一つ中山道には、木曽の山中の福島に福島関所が、またこの碓氷峠にも碓氷関所が置かれ、これらを総称して日本四大関所と呼ばれていた。

 

 碓氷関所跡と言われる地には、当時から残されていた門の台石、柱や扉、屋根材の一部などを使った、総ケヤキ材の高麗門形式で、格子の扉が付けられた門が建てられている。元々は街道を塞ぐように建てられていたものを、近年この地に移転再建したものだ。

そこには関所資料展示室も有り、公開されている。

入口付近には「おじぎ石」が置かれていて、説明によると通行人がこの石の前に座り、手をついて手形を差し出したのだと言う。

 

坂本宿と碓氷関所

坂本宿と碓氷関所

坂本宿と碓氷関所

 

坂本宿と碓氷関所

坂本宿と碓氷関所

坂本宿と碓氷関所

 

坂本宿と碓氷関所

坂本宿と碓氷関所

坂本宿と碓氷関所

 

坂本宿と碓氷関所

坂本宿と碓氷関所

坂本宿と碓氷関所

 

坂本宿と碓氷関所

坂本宿と碓氷関所

坂本宿と碓氷関所

 

 碓氷峠を下り、碓氷関所を無事通り抜ければ、江戸から数えて第17番目の坂本宿である。

坂本宿は6町19間の街道沿いに、本陣、脇本陣各二軒、旅籠四十軒、戸数一六二軒、人口七百人余りと言うから、中規模程度の宿場町であったようだ。旅籠の数が多いのは峠を控え、体を休める人々で賑わったかららしい。

宿場からはこれから超える刎石坂、それに続く碓氷峠が遠望でき、旅人はその厳しさを思い描いていた事だろう。


 



 

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