アプトの道(信越本線廃線跡)

 


めがね橋を後にその先に続く5号トンネル(244m)、4号トンネル(100m)、どっしりとした感じの石とレンガを組み合わせた坑門の3号トンネル(78m)を立て続けに抜けると、やがてその右手眼下に碓氷湖が見えてくる。

中尾川と碓氷川の合流地点をせき止めて造られた人造湖で、一周1.2qの遊歩道が設けられているらしい。

この辺りでもまだ標高は500mを越えていて、妙義の山塊も見え隠れし、その足下の湖を望む景色は丁度紅葉が始まった事もあり、その眺望は素晴らしい。

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

 アプトの道では危害を加えることはないらしいが、サルが良く出没するらしい。

時にイノシシやクマ、カモシカの目撃情報なども有ると言うが、元々熊ノ平と言う地だから、クマは昔からいたのであろう。

一方植物も豊富で、春の新緑、秋の紅葉は訪れる人々の目を楽しませている。

廃線から40年以上を経て、英知を集結した人口の構造物の周辺は、新たの植生も見られ、確実に豊かな自然界に取り込まれ、元の姿に変貌を進めているようだ。

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

 第3号トンネル(78m)を抜け、右手に碓氷湖を見ながら更に下る。

峠の湧き水で入れたコーヒーが自慢のカフェ、森の雑貨屋の建物が左手に見えてきた。

標高もかなり下がり、ここら当りには観光客を目当てにしたお店も立地しているようだが、熊ノ平から歩き始めた者にとっては、休憩などの出来る施設は初めて目にするものである。

その前の長い下り坂の底の国道との接点に、開放された場所があったが、緊急車輌や、工事・維持管理の車両の出入口らしい。

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

 右手遙か先に見える妙義の山塊が、特徴的な姿を見せている。

九州の耶馬溪、小豆島の寒霞渓と並んで、日本三奇勝に数えられる奇岩怪石が林立する名勝として知られた所だ。

春は桜と新緑、秋は紅葉の名所としても知られていて、その麓にある火防の神・妙義神社(国指定重要文化財)は、エネルギーに満ちたパワースポットとして最近では人気らしい。

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

 淡々とした下り道を行けばトンネル脇に、旧中山道合流地点の案内が建っている。

上州七宿を経て、碓氷関所を無事通り抜け、江戸から数えて第17番目の宿・坂本で休息を終えた旅人は、いよいよこれから勿石坂を上り勿石山を越え、旧街道最大の難所と言われた碓氷峠を目指すことになる。

昔の旅人もここから遠望する妙義山のパーワーにすがりながら歩いてのであろうか、この厳しい山並みを見ていると、歩いて旅をする昔の人々の苦労が忍ばれる。

 


 

 

「うすいねの 南おもてとなりにけり くだりつヽ思ふ 春のふかきを」

 

更に下ると近代日本の詩人・北原白秋の歌碑等も有る。

大正12年春、当時39歳だった白秋が信濃を訪れた帰り、ここ碓氷峠で「碓氷の春」と題して詠んだと説明が書かれている。

 

 1号トンネル(187m)を抜けるとその先に、「ソースカツ丼」ののぼり旗、ちから餅」の看板が立っている。

案内板に引かれ、線路跡の法面に切り込まれた石段を登り旧国道に出ると、その道路脇にドライブインが建っていた。

店内には、軽食のメニューと共に、碓氷峠のアプト式鉄道に関する貴重な写真が何枚も、飾られていて、どれも当時の姿を今に伝える貴重なものばかりで、そんな写真や写真集も売られていた。

 

碓氷貞光のちから餅

碓氷貞光のちから餅

碓氷貞光のちから餅

 

碓氷貞光のちから餅

碓氷貞光のちから餅

碓氷貞光のちから餅

 

碓氷貞光のちから餅

碓氷貞光のちから餅

碓氷貞光のちから餅

 

 この店の名物には「ソースカツ丼」も有るが、やはり250年以上の伝統の味を伝える「碓氷貞光のちから餅」である。

江戸期安政年間に、安中藩の若い武士による城下から碓氷峠の熊野神社までの7里7丁の遠駆けの折り、労いに振る舞われた餅が起源と伝えられ、それが刎石山の四軒茶屋でも販売され、中山道を行く旅人をも慰めたという。

やがてアプト式鉄道が開通すると、峠の熊ノ平駅での立ち売り販売も行われた。しかし碓氷新線が開通し、アプト式が廃止され、熊ノ平駅の営業が終わると、駅での販売も終了し、今日のこの位置に店を構えたのだそうだ。

 

 店内ではあんこ餅の他、ダイコンおろしをまぶしたからみ餅、ごま餅、きなこ餅等も用意されているが、ここでの一押しはやはり、少し柔らかめの餅と甘さを控えたきめの細かいこし餡との相性が良いあんこ餅であろう。

食べやすい一口サイズの楕円形と言うのも優しく、歩き疲れた身を素早く癒やしてくれるようで、この甘さはたまらない。

 


 

天然温泉「峠の湯」

 

 ドライブインを出て、前の国道を歩き、再びアプトの道に戻り暫く行くと右前方に「峠の湯」の建物が見えてくる。

ここは峠の麓に立地する、碓氷峠の森公園交流館に併設された日帰りの天然温泉施設で、平成132001)年にオープンした。

館前には広い駐車場も有り、車で来場しここを拠点に「アプトの道」を上り下りする観光客も多いようだ。

歩いて汗をかいた後、直ぐに温泉で疲れを癒やせるのが、この魅力を高めているようだ。

 

二階建ての館内の一階には、峠の釜めしが味わえる食事処や、お土産、地元品などの売店があり、ハイカーの姿も多い。

二階は浴場、ラウンジやカラオケルーム、リラクゼーションルームなどが整えられている。

館には隣接して、ログハウスのコテージのある碓氷峠くつろぎの里と言う宿泊施設も有り、利用者は「峠の湯」の温泉に無料で入る事が出来るらしい。

 

碓氷峠の森公園交流館

碓氷峠の森公園交流館

碓氷峠の森公園交流館

 

碓氷峠の森公園交流館

碓氷峠の森公園交流館

碓氷峠の森公園交流館

 

 この施設の裏手は、トロッコ列車の終点「とうげのゆ駅」になっている。

ここからは「シェルパ君」に乗って「碓氷峠鉄道文化むら」の終点、「ぶんかむら駅」まで行くことも出来、そこまではおよそ2.6qの道のりを20分ほどかけて進む。

先頭は開放感溢れるオープン型の車両で、前部には展望スペースが設けられ、2両目はガラス窓の付いた車輌となっている。

丁度前方から峠の湯に向かう便が、当りの静寂を打ち破るエンジン音を響かせ、自転車をこぐようなスピードでやってきた。

 

シェルパ君

シェルパ君

シェルパ君

 

シェルパ君

シェルパ君

シェルパ君

 

シェルパ君

シェルパ君

シェルパ君

 

シェルパ君

シェルパ君

シェルパ君

 

 館を出て旧線の下をトンネルで抜け、アプトの道に出る。

ここからの下り道は、上下二本の線路がそのまま残された道で、架線を支えた電柱や、所々には鉄道の関連設備も錆びついたまま残されていて、今にも向こうから電車がやって来るのでは、と錯覚させられるような道である。

 

横川に向かう側(上り線)は、残された線路がそのまま埋め込まれていて、ここが遊歩道になっている。

中央にはフェンスが設けられ、その向こう側の碓氷峠に向かう線路(下り線)は、現役時代そのままで、ここを観光トロッコ列車「シェルパ君」が運行している。

 


 

旧丸山変電所

 

 遊歩道を下ると、目の前に総煉瓦造りの建物が見えてくる。

明治451912)年に、碓氷線の電化に伴い新たに造られた丸山変電所の遺構で、二棟残されている。

手前が機械室、その右が蓄電室の建物で、当時このような変電所はもう一カ所同規模のものが、矢ケ崎にも造られたと言う。

内部の機械は全て搬出され、一時倉庫として使われていたため、辛うじて建物の解体は免れた。

しかし、建物は荒れるに任せ、倒壊が危惧される時期もあったようだが、平成に入り、文化財の指定を受けたことで、保存修理工事が行われ、屋根の壁などの外観が復元され今日の姿になったと言う。

 

 機械室には横川発電所から送られてくる交流電気の電圧を下げ、直流に変える機械などが置かれていて、蓄電室にはそこから送られてきた電気を、用意した312個の蓄電池に蓄え、上り列車が来ると放電し、勾配で消費する電力を補っていた。

こうして碓氷峠越えを支えた変電所も、昭和381963)年に碓氷新線が開通し、アプト式鉄道が廃止されると、その役目を終えることになる。

 

丸山変電所の遺構

丸山変電所の遺構

丸山変電所の遺構

 

丸山変電所の遺構

丸山変電所の遺構

丸山変電所の遺構

 

丸山変電所の遺構

丸山変電所の遺構

丸山変電所の遺構

 

入口を入るとまず、鉄骨で補強された壁や天井が目に入る。

機械の基礎の遺構で有ろうか、切り込まれた溝、割れたタイル、コンクリート剥き出しのまるで廃墟のように荒れた床が痛々しい。

そんな中一際目を見張るのが巨大なブレーカーを収めた構造物である。

 

 外観もよく見ると新しい煉瓦で補修が施されている。

鉄道施設なので過度の装飾はないが、堂々とした落ち着いた造りは、周囲の緑の中に良く溶け込んでいる。

側面の風貌は、長崎辺りの教会建築を思わせて、当時の建築技師の技術の高さと心意気を垣間見たような気がする。

国指定重要文化財である旧丸山変電所は、普段は内部に入ることは出来ないが、年に一二度秋頃には内部公開が行われる。

その折には、ボランティアスタッフが常駐して無料案内も行われると言う。


 


 

 

 66.7パーミルという急な勾配の碓氷峠を越えるアプト式鉄道の工事では、26のトンネルと、18の橋梁造られ、そこで使われたレンガは、およそ1,600万個といわれている。

そのレンガは、横川側は深谷、川口、また軽井沢側は軽井沢、長野など、多方面の様々な工場から調達されたと言う。

その為レンガには刻印が打たれたものや、形状には微妙な違いもあるらしい。

積み上げるレンガを繫ぐ目地の細工も、中には山形に盛り上げたものなども有り、関わった職人の拘りが感じられると言う。

 

 難工事を伴った鉄道施設は、僅か16ヶ月という驚異的な短期間で完成した。

日に1万数千人もの人々を動員した突貫工事が行われたが、その中心にいたのは鹿島岩蔵と言う人で鹿島組の創始者だそうだ。

そのほかにも有馬組や日本土木などが工事を請け負ったと伝えられている。

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

旧信越本線碓氷峠の66.7パーミルという急な勾配では、列車の退行事故も度々あったようだ。

明治34年7月、横川駅を発車した7両編成の列車がサミット手前の最後のトンネルを抜けたその時、大きな音と共にカマノ焚き口から赤い炎と白い蒸気が勢いよく噴き出し、石炭を投入しょうとしていた機関助手を直撃した。

 

機関室には白い蒸気が立ちこめ辺りが見えない中で、機関士は手探りで探り当てた非常ブレーキを必死でかけた。

しかし爆発で蒸気圧の下がった蒸気ブレーキ(主ブレーキ)はきかず、急いでハンドブレーキをかけ列車をようやく停止させた。

そんな安心もつかの間、その後列車はゆっくりと退行を始め、あっという間にその速度は次第に速くなり、先ほどくぐり抜けたトンネルを逆行で抜けようとした。

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

この頃になって異変に気付いた乗客が車内で騒ぎ出した。

たまたまこの列車に乗り合わせた当時の日本鉄道会社副社長は、このままだと谷底に落下すると判断し、皆に避難を勧めながら自らが先頭に立って列車から飛び降りた。同乗していた息子もそれを見習い続いて飛び降りた。

 

しかし副社長は不幸にも車輪に巻き込まれ、息子はトンネルに激突して死亡した。

目の当たりに惨劇の目撃者となった乗客は、色を失い、なすすべも無いまま恐怖におののいたが、ようやく列車は減速し2qほど退行したところで停車し安堵の胸を撫下ろしたという。

 

当時の蒸気機関車にとって、このトンネルの連続は常に煤煙との戦いも強いられる過酷なものであった。

暖まった煤煙は、煙突効果となったトンネルを下から上へと流れ、その中を時速8キロで走る機関車の機関室には、煤煙と蒸気が充満し、機関士や乗務員の中には窒息や失神するものが続出したという。機関士達は生死をかけて運転していたようだ。

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

アプトの道

アプトの道

アプトの道

 

工事の陰には多くの関係者の犠牲が有ったことを忘れてはならないが、そんな犠牲者の為の、鹿島組の「招魂碑」だけが横川駅近くに、「碓氷峠交通殉難者」の鎮魂碑と共に残されている。それによるとその犠牲者の数は五百名と伝えられているが、しかし、「二十数名に過ぎず・・・」との資料も残されていて、実態は良く解ってはいないらしく、たった一つの招魂碑と共に今も謎となっているそうだ。


 

そんな労苦の末完成した施設も、鉄道の廃止と共に壊され、時の経過と共に朽ち果て、気が付けば半分以上が消えていった。

そんな中、横川側のトンネルは当時の姿をとどめながら現存し、やがてそれら全てが重要文化財に指定された。

また橋梁も全線に渡り7カ所が現存し、内5カ所が文化財の指定を受けている。

いまた観光名所となっているめがね橋も、明治の地震では橋台や橋脚に被害を受け、その後補強工事が施されてはいるが、完成当時の姿を残す紛れもなく文化財である。

 



 

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