上信電鉄の上信線

 


上信電鉄上信線は、JR高崎駅に併設された高崎駅から下仁田駅までの間、33.7qを21の駅で結ぶ私鉄の路線である。

高崎と途中の主要駅である上州富岡の間で運行される便も若干有るが、殆どが始点駅と終点駅の間の運行で、全てが各駅に停まり、急行などの設定はない。この間大凡の所要時間は60分で有る。

 

開業は古く明治301897)年5月に前身の上野(こうずけ)鉄道が、高崎と上州福島(当時は福島)の間で営業を始めたのが始まりで、その後延伸を重ね、同年の9月までに現在の路線が開通している。将来的には下仁田から予知峠を越えて、信州を走る佐久鉄道(現JR小海線)と結ぶ計画があり、上州と信州を結ぶ鉄道としてこの社名が決められた。

現存する私鉄の中では、明治211888)年に運行を始めた愛媛県を走る伊予鉄道に次ぐ古さである。

 

上信電鉄上信線

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上信電鉄上信線

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上信電鉄上信線

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上信電鉄上信線

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 沿線には世界遺産もあり、その玄関駅としても知られている。

その一つが、上野三碑(こうずけさんぴ)」で、7〜8世紀頃の「山上碑」「多胡碑」「金井沢碑」の古代石碑群である。

日本に18例しか無い最古の石碑群で、歴史的価値が高く、国の特別史跡に指定されると同時に、平成292017)年にはユネスコの「世界の記憶」に登録されている。起点の高崎駅のホーム脇には、これらのレプリカが置かれて居る。

 

 またもう一つは、平成262014)年「世界遺産」として登録された「富岡製糸場と絹産業遺跡群」だ。

その中心的な富岡製糸場の最寄り駅は上州富岡で、駅からは徒歩15分ほどの所に立地している。

 

上信電鉄上信線

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上信電鉄上信線

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これらの世界遺産を巡るのに便利な割引切符も用意されている。

「上野三碑」を巡るのは、高崎から吉井の間で乗り降り自由な通年発売の「フリー乗車券(1,120円)」がある。

石碑は最寄り駅からは徒歩で、1030分ほどの距離に有るらしい。

 

また製糸場へは、高崎と上州富岡の往復乗車券(1,580円)と、製糸場の見学料(1,000)がセットになった「往復割引切符」(2,140円)がある。「ゆき」券と「かえり」券が付き、往路・復路とも一回だけ希望する駅での途中下車が出来る。

この切符は駅の券売機でも購入が可能だが、持ち帰りの出来る記念乗車券駅は窓口でしか販売していない。

 

上信電鉄上信線

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上信電鉄上信線

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沿線の吉井や富岡等の町は古くからの商都だと言い、特に江戸時代の吉井は、火打金(火打石と打合わせ火をおこす道具)の一大産地として、全国的に知られていた。

当時善光寺参り向かうには、取り調べの厳しい碓氷峠を避け、裏ルートを通行する旅人も多かったらしく、その通過点であった吉井で実用的な旅の土産物として特に持て囃されたと言う。

明治8(1875)年、日本で最初のマッチが製造され、その後全国的に広がると、急速に衰退したらしい。

 

上信電鉄上信線

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上信電鉄上信線

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上信電鉄上信線

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上信電鉄上信線

上信電鉄上信線

上信電鉄上信線

 

 富岡製糸場見学の玄関駅上州富岡は、高崎から40分ほどのところである。

ここは同電鉄の中では主要駅で、島式と単式の2面ホームに3線の有人駅で、駅舎は平成262014)年に建て替えられた。

世界遺産の指定に歩調を合わせ、建屋も製糸場をイメージさせる煉瓦造り風で、構内には待合室を兼ねた広いスペースが有り、情報発信の場ともなっている。駅前ではキャラクター「お富ちゃん」が観光客を迎えている

 

元々製糸場の年間見学者数は20万人ほどだったが、世界遺産に登録されると同時に桁違いに跳ね上がり、100万を優に越える賑わいが続いたそうだ。しかしそんなピークは長くは続かず、ここ一二年は減少傾向に有り、少しずつ沈静化してきていると言う。


 

 

官営富岡製糸場 

 

富岡製糸場は、明治51872)年に明治政府が日本の富国強兵・近代化のために設立した日本で最初の大規模な工場である。

当時群馬県内では古くから養蚕が行われていて、小さな工場は幾つも存在したが、これほどの規模を誇る工場は、世界でも初めてで日本の近代化の礎となった。これはこの地には絹の製糸や織物に関する産業があり、原料繭の確保がし易かった事と、農地としては不向きな広大な用地も有り、豊富な用水が確保でき、燃料となる石炭も近場で調達できる等地の利が良かった等の理由による。

また明治になると日本では生糸などの輸出量が大幅に増え、更なる外貨獲得のためには大量生産が必要で、新政府の中には大規模工場建設の機運が高まったからだ。

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

当初はフランスの技術を導入した官営工場として開業し、全国から女工が集められたが、多くは旧士族の娘達であったという。

その後日本独自の湿気を加味した工夫で技術革新が次々と行われると同時に、このような工場が全国各地に造られるようになると、そうした工場で技術を伝えたのは、ここで学んだ女工達であった。

 

工場経営はその後民間に払い下げられ、何社かが経営に関わり、昭和621987)年の操業停止まで、115年間にわたり高品質な生糸を大量に生産し絹産業発展に貢献してきた。

操業停止後も建造物は保存良く残され、建屋の中には操業停止まで使われた自動繰糸機がそのまま保存されていて、そんなことも平成262014)年に「世界遺産」に登録される要因で、その年の暮れには施設の一部が国宝にも指定されている。

 


 

国宝の建物群

 

明治5(1872)年に開設された富岡製糸場は、日本の近代化に大いに貢献すると同時に、元々零細な存在であった絹産業を、工場で大量に生産する技術革新に大きく寄与した。

そんな歴史有る工場は、5.5万平米という広大な敷地を有し、そこには数々の建物群が残され、見所の一つと成っている。

これらの建物は、幕末期にフランス海軍の協力で作られた横須賀製鉄所に導入された技術で、木で構造をくみ上げ、外壁を煉瓦で覆う木骨煉瓦造である。

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

 東置繭所(ひがしおきまゆじょ)と呼ばれる建物は、工場設立と同時に造られた建物である。

外壁に規則正しく配置された窓には、蝶番の付いた観音開きの窓が嵌め込まれ、単調な壁に力強いアクセントを加えている。

妙義山などから調達した杉や松などの用材で骨格を組み立て、礎石には近隣で切り出された砂岩を置いている。

当時まだ一般的ではなかった煉瓦は近くに釜を築きフランス人技術者の指導の下瓦職人が作ったと言う。

フランス積みされた煉瓦を繫ぐ漆喰は、下仁田産の石灰で造られたものだ。

木骨煉瓦造二階建て、瓦葺き屋根で、長さ104m、幅12m、高さ12mもある建物は、東洋と西洋の融合が図られた国宝である。

 

富岡製糸場

富岡製糸場

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富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

アーチ状に開けられた入口を入ると、内部は実験や体験のスペース、お土産品や絹製品の販売所、製糸場の紹介スペース、イベント会場等になっていて、入口近くのブースでは、手回し式の座繰り器での実演が行われていた。

当時この建物の一階は作業場で、二階には乾燥繭が保管されていたと言う。

建物に設けられている沢山の窓は、風通しを良くして繭の乾燥を完成させるための工夫だそうだ。

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

 同様の建物を西側にも向かい合わせに配置し、それを「コ」の字形に結ぶ位置には、巨大な木造の繰糸場(そうしじょ)が配され、その間には乾燥場があり、シンボルの煙突も立っている。これらは工場の中心となる建物で、何れも国宝に指定されている。

その繰糸場は、トラス構造と言われる木組みで屋根を支えていて、中央に柱のない広い空間を作り出していて、そんな内部の木組みも美しく見事で見応えがある。

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

 そのほかにも場内には、様々な建物が残されていて、それらの多くが国の重要文化財の指定を受けている。

首長館(ブリュナ館)は指導者であったブリュナが家族と暮らした家で、後には工女の宿舎や学校として使われた建物である。

建物は木造煉瓦造りで、床を高くしてそこに回廊を巡らせ、窓には鎧戸を付けた作りで、コロニアル様式と言う造りらしい。

 

検査人館は、フランス人の男性技術者の住居として建てられたものだ。

後には工場の事務所として使用され、貴賓室を備えているという。(内部非公開)

また、女工館はフランス人の女性教師の住居である。

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

富岡製糸場

富岡製糸場

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富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 


 

工女の募集

 

 繭から糸を取る作業を繰糸(そうし)と言い、その作業が行われたのが、繰糸工場である。

建物には大きな明かり取りのガラス窓が二段に嵌められているので、一見すると二階建てに見えるが平屋造りであり、屋根には蒸気を抜くための越屋根が設けられている。

 

 室内に入ると十分に明るいことが感じられる。作業の性格上、大きなガラス窓が多用されているが、当時日本には平板で大きな板ガラスを作る技術が無かったため、フランスから輸入したものが使われているという。

東京銀座に日本初のアーク灯がともったのが明治151882)年と言うから、当然当時の工場には電灯は無かったのであろうが、晴れた日であればこれで十分な明るさだ。因みに工場が電化されるのは大正91920)年の事だそうだ。

 

 

 

 工場内には自動繰糸機が保存されている。この機械は煮た繭から目的の太さの糸を繰り出す工程を自動化したもので、これにより人の作業は全体の監視調整や、トラブル時などに限られ相当な省力がはかれたらしい。

今ここには、長さが32m、幅が2.1m、高さが1.8mと言う巨大なものが10セット残されている。

それは昭和411966)年頃から順次導入され、操業停止まで使われたものだ。

 

 後年になり自動化された繰糸作業であるが、創業当初はフランスから輸入された機械を使って手作業で行われていた。

その作業の担い手が若い女性達であったが、工場で働く工女を全国で募集したものの、その人集めは難航を極めたそうだ。

その大きな理由が「外国人に生き血を取られる・・・」であったと言う。

 

政府が招いた技士がワイン好きであり、赤いワインを好んで飲む外国人の姿を見て、当時の人々が奇異の目で見ていたのである。

実際に工場内の発掘調査では、その頃のワインボトルらしき瓶の欠片も見つかっている。

根拠の無い噂話を払拭するため、日本側の責任者・尾高惇忠は自分の娘、当時14歳の尾高勇(ゆう)を工女第一号として入場させるなどで、ようやく予定の半分ほどを集め操業にこぎ着けている。翌年には主に旧士族等の娘を中心に更に人集めが行われた。

 

 

 

 当初200名余しか集まらなかった工女は、操業の翌年にはやっと目標の500名を越えた。

こうして集められた15歳から25歳までの若い工女達は、フランス人教婦から技術を学び、熟練度により分けられた等級を上がり、やがては「一等工女」を目指して日々研鑽した。

 

工女達は、1日8時間労働の日曜休みで、年末年始とお盆には長期休暇も与えられたという。

その生活は女子の身だしなみとして髪をすかし、おしろいを塗り、紅をさすなど化粧が許され、風呂は毎日入ることが出来た。

場内には診療所も設けられ、外国人医師が駐在した。質素ながら食事も「賄い所」で、医薬品と同様に官費であった。

待遇面では当時としては画期的な優遇である。

 

  
富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

 その反面作業の環境となると、風通しの悪い煉瓦造の建物は、蒸気で蒸した繭から糸を取り出すには、決して良い環境では無く、おまけに独特な匂いにむせ返る毎日であったようだ。

日頃から日の当たらない室内作業で、日焼けをした工女はいなかったと言い、おまけに何時も蒸気を帯びたシルクを扱い、絶えず湿気を浴びているとあって、髪のつやも顔色も、町の娘とは比べものにならないほどの美人揃いであったと言う。

 

しかも工場での作業は努力すれば、仕事内容も変わり、「一等工女」への昇進も待っていた。

工女達の給料は、その腕前により細分化した等級で支払われていて、1等は一ヶ月175銭、2等が150銭、3等になると1円であったと言う。そんな工女達は、やがて日本全国に作られる工場で、指導に当たるため散らばり、絹産業、強いては日本の近代化に大きく貢献したのである。

 

富岡製糸場

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富岡製糸場

富岡製糸場

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富岡製糸場

富岡製糸場

富岡製糸場

 

富岡の工場が操業を始めた頃、同様な製糸工場を計画中の長野県は、富岡で学ぶ工女を募集していた。

そんな中で、自ら父に「工女に行くと」願い出た、16歳の少女がいた。

旧信州は松代藩の士族の娘で、横田(後に結婚して和田姓になる)英(えい)と言う少女である。

こうして彼女が決意したことにより、その後十数名の娘達も、つられるように次々と応募に応じたと言う。

横田英の「富岡日記」には、当時の工女の生活が様々に綴られていて、その生活を知る上では貴重な資料となっているそうだ。

 



 

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