吉田宿に出来た豊橋駅 

 

 宿場町吉田は東海道の34番目の宿駅であると同時に、牧野氏が吉田城を築いて以来の城下町である。

更に豊川を使った海運の湊町としても大いに栄えていた歴史がある。

そんな地に、官設鉄道の駅として豊橋駅が開業するのは、明治211888)年9月の事だ。

 

宿場の中心からは数百メートル離れた、周囲にはまだ田畑が広がり、民家の乏しい辺鄙な地であった。

行政上は豊橋の町中ではなく渥美郡花田村で、その後の町村合併で豊橋町となるのは、開業から18年後の事である。

 

当時はどこの宿場町でも鉄道に対する偏見と敵愾心は強く、なかなか中心部に、とは行かなかったようだ。

多くの駅が当時の街道筋からは離れた地に立地しているが、当地も多分に漏れることはなかった。

反面、この方が広大な用地の取得には良かったようでもある。

 

豊橋

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豊橋

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豊橋

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駅の開設はその鉄道が現在の「東海道線」と呼ばれるルートで開業する一年前のことだ。

それから7年後には「東海道本線」と正式な路線名称が決められている。

明治301897)年には、豊川まで開通した豊川鉄道の始発駅とも成った。

更に名鉄が終着駅としてこの駅(当時は吉田駅)に乗り入れるのは、昭和2(1927)年のことである。

 

豊橋

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豊橋

 

豊橋

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 現在の豊橋駅は、平面構造の地上駅で、東海道本線、東海道新幹線、飯田線のJR線に加え、名古屋鉄道線(名鉄)名古屋本線の四路線が乗り入れている。

西側には、2面3線の新幹線の駅が有り、1113番線を使用している。

東海道新幹線駅の殆どが高架駅であるなか、地上駅はここと米原と品川駅だけで有る。

 

在来線は5面8線で、その中央部分の4〜8番線を東海道本線が使用している。

飯田線は東寄りの1・2番線(行き止まり線)が使われているが、まれに4番線からも発着する。

 

 

名鉄との共用ホームから出発する飯田線

 

飯田線は当駅と、長野県辰野町・辰野駅を結ぶ195.7qJR東海の路線である。

歴史は明治301897)年、豊橋から豊川間で開通した豊川鉄道に始まる。

更にその後開通した、鳳来寺鉄道(大海〜三河川合)、三信鉄道(天竜峡〜門島)、伊奈電気鉄道(辰野〜伊那松島)の私鉄4社を、昭和181943)年に国が買収・統合し、国有化して開通させたのが飯田線である。

 

沿線は愛知側では豊川に沿って、その先の静岡・長野では天竜川の蛇行に沿って山間地域を通り抜けていく。

その間には何と94もの駅(起終点駅含む)が有る。

それは前身が地域の集落を結ぶ私鉄を起源とする名残であるが、単純に平均駅間距離を求めると約2.1qと成る。

これは都会の市街地を走る鉄道並みで、人口集積の乏しい地域の足としては大変珍しい存在だ。

 

豊橋駅

豊橋駅

豊橋駅

 

豊橋駅

豊橋駅

豊橋駅

 

飯田線が発着する2番線は島式ホームになっていて、向かい側の3番線側は名古屋鉄道(名鉄)が使っている。

ここではJRと名鉄が線路とホームを共有していて、名鉄は1時間に6本以内の運行が課せられていると言う。

名鉄は駅到着時に馴染みのミュージックホーンも使用が制限されていて、ここでは聞くことが出来ない。

 

豊橋駅を出ると暫くは名鉄との供用区間で、その運行管理はJRが受け持っている。

基本的には、この間は飯田線の列車が優先され、名鉄は運行本数も、列車の速度も制限される。

駅を出て4q程のところにある平井信号所までが供用区間で、仲良く走るのもここまでだ。

 

豊橋駅

豊橋駅

豊橋駅

 

豊橋駅

豊橋駅

豊橋駅

 

 始発の豊橋駅辺りの標高は、国土地理院の電子地図によれば8メートル余りだ。

沿線は北上につれ次第に高度を上げ、長野県内の終点に近づく辺りでは700メートルを超える。

その為途中には急勾配区間も有り、赤木と沢渡の間では40‰に達し、JRの路線では最大の勾配と言われている。

またトンネルも多く、加えて川の流れに沿って進む為直線が乏しく急カーブの連続だ。

 

列車は車両を軋ませ、車輪の摩擦音を発しながら、平均にすれば時速30キロ程度でゆっくり進む。

豊橋と岡谷や上諏訪間には、乗換え無しで行ける普通列車も設定されていて、その所要時間は6時間半ほどだ。

そんな列車は、秘境の趣を見せる沿線風景と相まって、鉄道フアンには根強い人気が有るようだ。

 

 

豊川稲荷

 

「豊川、矢作川、おほや川とて三つの川あれば三河の国といふなん」

 

豊川は、旧国名である三河の国を流れる三大河川の一つである。

この豊川に架かる旧東海道筋の橋を「豊橋」と言い、当地の地名の由来と言われている。

 

飯田線の列車は、暫く豊橋市街地を走りやがてこの豊川を、続いて豊川放水路を橋梁で超える。

この先で進路を北に変え牛久保駅を過ぎ、やがて左から名鉄の豊川線が寄り添ってくると豊川駅に到着する。

有名な「豊川稲荷」の門前駅である。

 

豊川稲荷

豊川稲荷

豊川稲荷

 

豊川稲荷

豊川稲荷

豊川稲荷

 

稲荷に続く道は飲食店や土産物店等100店以上が犇めく、昔ながらの門前町が賑わっている。

ウナギ、味噌カツ、ちくわの店、和菓子から洋菓子などの飲食店が軒を連ねている。

また焼き稲荷、焼き油揚げや、焼きたての煎餅、おきつねバーガーなどは食べ歩きを楽しむ事も出来る。

 

 当地の名物は、なんと言っても江戸時代から200年以上の歴史を持ち、発祥の地とも言われる「いなり寿司」だ。

市内には「豊川いなり寿司」に関連する店が約60店舗あるという。

定番から、工夫を凝らし毎年新作も出ると言う個性豊かな変わり種まで、様々なバリエーションがあるらしい。

わさび・柚子・一味などの風味や、みそかつ、鰻まぶし、天むす、焼きそば入り、イカスミ入りなどなど・・・が。

 

豊川稲荷

豊川稲荷

豊川稲荷

 

豊川稲荷

豊川稲荷

豊川稲荷

 

豊川稲荷

豊川稲荷

豊川稲荷

 

豊川稲荷

豊川稲荷

豊川稲荷

 

豊川稲荷

豊川稲荷

豊川稲荷

 

門前町を抜けると豊川稲荷の惣門が聳えている。

屋根は銅板鱗葺き、唐破風付の入母屋造四脚門を構えていて、門扉は欅の一枚板で銘木として知られているそうだ。

潜ると正面には現存する最古の建物と言われる山門がある。

 

山門を潜れば、右手に総欅造りの鐘楼や最殿等がある。

鐘楼は比較的新しい建物で、昭和12年の建立という。

左手の石畳に導かれ、鳥居を幾つか潜るとその先が大本殿である。

間口10間(約20m)、奥行き21間(約38m)、高さ百二尺(約30m)の総欅造りの堂々たる建物である。

 

豊川稲荷

豊川稲荷

豊川稲荷

 

豊川稲荷

豊川稲荷

豊川稲荷

 

豊川稲荷

豊川稲荷

豊川稲荷

 

豊川稲荷

豊川稲荷

豊川稲荷

 

豊川稲荷

豊川稲荷

豊川稲荷

 

豊川稲荷は正式には「圓福山妙厳寺」という曹洞宗のお寺である。

境内に祀られた秘仏から一般に豊川稲荷との呼び名が定着した。

商売繁盛の神様として全国的に有名で、3万坪を越える境内には100棟余りの伽藍を構えている。

 

 ここは狐を祀った神社では無い。

鎮守する神が稲穂を担い、白い狐に跨がっている事から何時しか豊川稲荷と言う通称が広がった。

元々狐は田畑などの作物を荒らす野ねずみを退治することから、稲の守り神として崇められ、それがこうした信仰に繋がっているとの説があるそうだ。

 


 

鳥居強右衛門勝商 

 

 飯田線はここまでが複線区間で、豊川を出るとその先は単線となる。

東名高速道路を潜り、砥鹿神社のある三河一宮、賑やかな町並を見せる新城などに停車を重ねる。

その先で大きなS字カーブをでると鳥居、更に長篠城を経て本長篠に到着し、ここで17分間停車する。

 

 天正年間の三河国、世は戦国時代で、この辺りは「長篠の戦い」所縁の地である。

徳川家康から託され長篠城を守る奥平貞晶が擁する兵士は約500人。

一方攻める武田軍は、その30倍もの大群を率いて城を包囲し、過酷な籠城戦と成っていた。

 

鳥居強右衛門勝商

鳥居強右衛門勝商

鳥居強右衛門勝商

 

鳥居強右衛門勝商

鳥居強右衛門勝商

鳥居強右衛門勝商

 

武田軍の火矢により食料蔵を失った奥平貞晶は、城から討ち出て戦いを挑む事を決意する。

と同時に、家康の居る岡崎城に援軍要請の使者を送る決断を下す。

しかし、大軍に包囲されている状況下では、それは命がけの困難な任務であった。

 

 これを自ら志願したのが、奥平家の足軽・鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)であった。

夜陰に乗じて城の下水口から脱出、寒狭川を潜り抜け出した強右衛門は、その日の夕方岡崎城に到着する。

この時織田信長の援軍も到着しており、織田・徳川連合軍約3.8万は、翌日長篠への進軍が決められていた。

 

鳥居強右衛門勝商

鳥居強右衛門勝商

鳥居強右衛門勝商

 

鳥居強右衛門勝商

鳥居強右衛門勝商

鳥居強右衛門勝商

 

この朗報をいち早く伝えようと強右衛門は、急ぎ城に戻るがその途中武田軍に捕まってしまう。

事情を知った武田軍は、助命し家来に引き立てるから援軍は来ないと伝えろと命令する。

命を助けてくれるなら、と従うふりをした強右衛門は、密かに一計を案じていた。

引き立てられると処刑を覚悟の上で、「援軍は二三日で到着する」と城に向かって大声で叫んだという。

 

 これにより士気の高まった長篠城の城兵は援軍が到着する迄持ちこたえ、城を守ることに成功する。

この忠義の士の最期の地がこの鳥居である。

駅に程近い新唱寺には、この三河武士をたたえる墓があるという。

 


 

湯谷温泉

 

 長篠城辺りから車窓右側に宇連川が寄り添うと、始発から1時間半ほどで湯谷温泉駅だ。

この温泉の歴史は古く、開湯は1300年ほど前と伝えられている。

周囲に鳳来寺山があり、宇連川は鳳来峡と呼ばれる景勝を見せる地で、10軒ほどの温泉旅館がある。

 

湯谷温泉

湯谷温泉

湯谷温泉

 

駅からは左手に温泉街が望まれる。

当地は今から半世紀以上も前、入社して間もない頃、会社の慰安旅行で訪れた懐かしい地である。

殆ど何も覚えては居ないが、宴会の後下駄を引きずりながら粋がって温泉街を歩いた記憶だけが残っている。

しかし、車窓から見るか限りでは、そんな賑わいは見受けられず、駅前も何だか寂れた様子だ。

 

宇連川

宇連川

宇連川

 

宇連川

宇連川

宇連川

 

宇連川

宇連川

宇連川

 

 この先では宇連川と周囲の緑の景観が車窓を慰めてくれる。

琥珀色の岩盤の上を、透明な流れは滑るように、様々な変化を見せながら下っている。

それは時に細やかな白波を立て奇岩を避け、或は小さな滝と成り、早瀬と成り、藍色の深い淵も見せている。

この川は底がまるで板を敷いた様に見えることから「板敷川」の別名を持っている。

 



 

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