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大糸線は、国道147号線と併走しながらその先で、有明、安曇追分などに停車を重ねる。 信濃常盤を過ぎ右にカーブを描き高瀬川を橋梁で越えると、南大町駅に停まりやがて信濃大町に到着する。 信濃鉄道が松本まで開通した大正5(1916)年に開業した駅だ。 松本からは35q余り離れていて、普通列車で直行すれば凡そ1時間の行程である。 単式1面1線と島式1面2線のホームを持つ地上駅で、特急「あづさ」の停車駅でもある。
大糸線の主要駅で、松本方面から来る普通列車の殆どは、この駅が終着で、折り返していく。 松本方面には、時間帯により複数本の設定もあるが、殆どは1時間に1本程度である。 ここから北の糸魚川に向かう便は、極端に少なくなりほぼ半減する。
駅ナカの待合室には、駅ソバの「そば処 カタクリの花」が営業を続けている。 カウンターでの立ち食いが基本だが、目の前が待合室に成っているので椅子に座って頂けるのも嬉しい。 駅ソバらしく、ゆで時間1分と迅速に提供される殆どのメニューが、ワンコイン以下で食べられる。 しかし時間があれば、そば粉6割の生ソバを使用している、ゆで時間3分の「特上」がお勧めだ。
信濃大町は、北アルプスの麓に広がる、山の町だ。 北アルプス(飛騨山脈)の雄大な山々は、町のどこからも望むことが出来きる。 そんな山岳都市の山小屋をイメージした駅舎は、平成22(2010)年に改装されたものだ。
複雑な形状の屋根は、先端に尖塔が乗り、菱葺きと呼ばれる赤色銅板葺きで、古色を帯びた趣を見せている。 切妻破風の下に見る駅名表は、地元産栃の木の一枚板で、幅80p、長さは380pの堂々たるもので有る。 時代を経れば、間違いなく「名駅舎」と呼ばれるであろう、印象深い駅舎だ。
ここは立山黒部アルペンルートの長野側の入口であり、登山や大町温泉郷、葛温泉などに向かう拠点駅だ。 外国人も多いのか、タクシーやバス乗り場には、外国語で書かれた看板も目にする。
駅を出て直ぐ右手に、観光パンフレットも置かれた「アルプスロマン館」という施設がある。 黒部おやきを売る「おやき工房」を併設した店で、キオスクが撤退後、後を引継いだ民間の施設である。 大町黒豚を使った黒豚ドックが評判らしく、店内にも信州の土産が揃い、お茶や試食のサービスもある。 一角には、地元に伝わる民話を元に作った粘土細工のジオラマが幾つも展示されている。 駅の待合室も兼ねていて、列車の発着情報等のアナウンスも流されるので、列車の待ち合わせには丁度良い。
大町市は長野県北西部に位置し、標高3,000m級の山々が連なる北アルプスの麓に広がる町だ。 標高は700mを越える地で、人口は2.6万人余りと言い、西は富山県との県境で、北は白馬村と接している。 ここは所謂日本海側気候で、年間降雪量が500センチを越える多雪豪雪地帯である。 12月から3月にかけての冬の最低気温の平均がマイナスと言うから、この地の寒さは思っていた以上に厳しい。 市内には昭和電工の工場も有り、企業城下町のようで、その関連の住民も多いようだ。
駅前から続く本町通り商店街を歩いて500m程の所に「塩の道 ちょうじや」は有る。 江戸時代宿場町として栄えた大町の庄屋で、塩問屋を営んでいた平林家の建物を開放した有料見学施設だ。 平林家は、松本藩の藩主から直接塩問屋の免許を受け、塩の売買で利益を得て豪商となった家柄である。
その屋敷の敷地面積は、300坪に余り、他にも東京ドーム五個分に相当する田畑を所有していたらしい。 今目目にする建物は、明治の大火で焼失し、明治23(1890)年に再建されたものだ。 市民による保存活動から蘇った施設は、平成29(2017)年この母屋と蔵群が国の有形文化財に登録されている。
卯建の上がる土蔵造りの町屋の内部は薄暗い土間で、三和土が奥まで続く細長い造りとなっている。 天井を見上げると、大屋根を支える太い梁の木組みが見事で、これは火事の延焼から建物を守る工夫らしい。
土間から上がると上がり框に囲炉裏が掘られていて、女性スタッフからここで施設の概略説明を聞くことになる。 この時期、赤々と燃える火があれば嬉しいのだが、残念ながら囲炉裏に火は無い。 この建物が文化財のため、火を入れられないのだそうだ。 このため、館内の要所要所にはファンヒーターを置いて温めているが、広々とした建屋内は殊の外寒いらしい。 元々冬の寒さの厳しいところにあって、天井の高い広々とした室内は、温もり難いものだ。 その為見学の前に、手の平大の小さな湯たんぽを手渡してくれる。これを懐に入れて館内を巡るのだ。
塩の道
母屋一階は帳場で、当時使われた階段簞笥、帳簞笥、帳場机、帳簿入れ等の調度品がそのまま残されている。 箱簞笥を上がった二階が「千国街道」に関する資料や、実際に使われていた古民具などが説明と共に展示されている。
千国街道は信濃国松本から北アルプスの麓を経て、越後国糸魚川に至る街道で、糸魚川街道とも松本街道とも言う。 通称「塩の道」と呼ばれ、そのルートはほぼ今日のJR大糸線に沿っている。 この間に十一の宿場が有り、大町は松本から数えて三つ目の宿場町として栄えたところだ。
この街道は古くから開け、日本海の糸魚川などで採れたヒスイが運ばれていた。 やがて北陸や越後で取れる海産物や木綿、薬などを、信州松本に運ぶ道として利用される。 我が国では昔から海の物を内陸に運ぶ為の街道が幾筋もあり、若狭の鯖を京に運ぶ「鯖街道」等が良く知られている。
当時、日本海側から信濃に入り込むルートは幾つもあったらしい。 しかし、松本藩は治安維持や租税徴収の利便から、このルート以外での塩の運搬を禁じていた。 その為この道では、生命の維持では欠かすことの出来ない塩を運んだことから、「塩の道」とも呼ばれたと言う。
糸魚川から大町まで「並急」扱の塩は、通常数日かけて運ばれるが、「大急」扱の生魚等は24時間程で届けられた。 特に寒鰤を薦で巻いた「巻鰤」や、新鮮な「一塩鰤」等は、信州で持て囃されたと言う。 その役を担ったのが、「歩荷(ボッカ)」と呼ばれる人達である。
ここには江戸時代後期に造られたという文庫蔵、漬物蔵、塩蔵の三つの蔵も残されている。 文書蔵は文字通り、商いに必要な売掛帳などを保管していた蔵で、日用雑貨の展示スペースとなっている。 当家では古くから、サイドビジネス的に味噌醤油を造っていて、それを使って漬物を漬け販売していた。 温度が一定する土蔵で漬ける漬物は、上々の味わいが好評で、その樽を保管したのが漬物蔵である。
「塩荷」は、担いで歩く「歩荷(ボッカ)」や牛馬によって運ばれ、その粗塩を貯蔵したところが塩蔵である。 「塩荷」は60sにも及ぶ俵で、それを背負って歩く歩荷は過酷な仕事であった。 塩は運搬中に乾燥すると軽くなり、湿気を吸うと重くなり、このことでトラブルも多かったらしい。 その為、荷受けの問屋では、蔵入れの前に必ず看貫(カンカン:計量する事)をしていたという。 更に塩蔵で保管する塩も空気中の湿気を吸い、苦汁(ニガリ)として溶け出してくる。 当時それを集めた「苦汁受け」の仕掛けが、そのままに保存し残されていて、これは大変貴重な資料だという。
流鏑馬会館
「塩の道 ちょうじや」の奥には、「流鏑馬会館」が併設され、共通券で入館できる。 大町市で夏の風物詩と言われる、若一王子神社の祭礼では流鏑馬(県指定無形民族文化財)が奉納される。 この700年の伝統を誇る、夏祭りに関する展示紹介がされた施設である。
起源は農作の豊凶を占う習俗的な祭に、中世以降武家社会で盛んになった「流鏑馬」の形を取り入れたらしい。 毎年7月の第四金、土、日曜日に開催され、「やぶさめ」の神事はその最終日に奉納される。 京都の賀茂神社、鎌倉の鶴岡八幡宮と合わせ、これらを三大流鏑馬と言うのだそうだ。 この祭が終わると北アルプスの麓の町も、本格的な夏の季節を迎えるという。
祭りは神輿渡行や稚児行列から始まり、最終日のクライマックスでは、町内六町から山車六台が引き回される。 二階建ての山車は、多くが人形などを飾る舞台造りで、当地では「舞台」と呼ばれている。 中には江戸時代前期に創建されたものも有るという。 あわせて十町より10騎の流鏑馬が出揃って神社に向かい巡行し、最後に境内で奉射の神事が行われると言う。 その大きな特徴は、乗馬する射手が小学校低学年の子供(7〜9歳の男子)で、これは全国的に見ても珍しい。
会館では、祭りの様子を伝えるビデオが上映されている。 また山車の模型展示や説明、狩衣に似た煌びやかな、当日実際に子供達が着用した衣装なども並べられている。
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