身延山久遠寺

 

身延駅に到着すると、桜のシーズンとあって、駅も駅前も花見客で随分と賑わっていた。

ハイキング姿の大勢のグループが、駅前のバス停に急ぎ、列車に接続していたバスにいち早く乗り込んで行く。

そんな客でバスは早くも満員になり、バス停に二三十人程の行列を残したまま出ていった。

 

「臨時便も出ているらしい、しかし門前町がひどく渋滞しているから、次が何時来るかもわからない」

とバス待ちの男性のグループが話しをしている。

限られた時間しかなく、浪費がもったいなくて、これを聞いて、少し奮発しタクシーに乗り込んだ。

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

目立った渋滞もなく、5分ほどで「開会関」と書かれた扁額が掲げられている総門に到着した。

全ての人々が法華経の元に救われる関門と言う意味らしい。

タクシーは更に進み、やがて参道が混み始めて来ると、高さ21mと言う巨大な三門が見えてくる。

 

 これを潜ると、涅槃(悟りの境地)へと辿り着くと言われる、287段の「菩提梯」階段が待ち構えている。

参拝者はまずこの、垂直に空高く聳える階段を必死の思いで登りその先の、極楽浄土を求めるのだそうだ。

健脚持ちでも登り切るのに十数分は要するらしく、不安な人は女坂か男坂への迂回を勧めている。

 

タクシードライバーは、この先の甘露門辺り迄大丈夫と言い、山門の手前を右折、東谷(女坂)をそのまま登る。

行き着くための「行」とも言える「菩提梯」を避けたのだから、これでは涅槃へは行けそうにない。

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

 三門を潜り、「菩提梯」を登り切ると広い境内で、正面に本堂が構えている。

伽藍の殆どが焼け落ちた明治の大火を経て、昭和60年、日蓮700年遠忌に合わせ再建されたお堂である。

正面間口32m、奥行き51m、瓦葺屋根の堂々とした建物で、法華教の根本道場だ。

外陣の天井を飾るのは、加山又造画の「黒龍」である。

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

 本堂の右手が祖師堂(棲神閣)で、総本山では中核を成す建物である。

本堂の前には鐘楼が建ち、その他にも、御真骨堂、新旧の客殿、書院、報恩閣などが甍を連ねている。

 

 境内には、数えきれないほどのしだれ桜の巨木が植えられている。

中でも、祖師堂前の樹齢400年の巨木は、全国しだれ桜10選のひとつと言われている。

今まさに満開で、絢爛豪華に咲き誇る姿をカメラに収めようとどこも人、人、人、観桜客の姿で混み合っている。

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

 

 日蓮宗の総本山、身延山久遠寺は、日本では唯一、開祖「日蓮」の名を冠した宗派である。

全国に凡そ五千三百の末寺が有り、その信徒の数三百五十万人を要すると言われている。

発祥は草庵を構えた西谷で、その後現在の地に伽藍が移され、武田・徳川家の保護を受け一大聖地となった。

 

身延山ロープウェイ

 

本堂の左脇から裏手に回り込んだ辺りに、身延山ロープウェイの乗り場が有る。

身延山の頂上付近に奥の院(思親閣)が有り、麓の久遠寺駅とを結んでいる。

麓からは高低差763mの急勾配を、僅か7分程の空中散歩で登ることが出来る。

嘗て信者は、急峻な山道を凡そ2時間もかけて登ったと言うが、今はこれで歩かずに行くことが出来る。

 

身延山ロープウェイ

身延山ロープウェイ

身延山ロープウェイ

 

身延山ロープウェイ

奥の院、思親閣

奥の院、思親閣

 

奥の院、思親閣

奥の院、思親閣

奥の院、思親閣

 

奥の院、思親閣

奥の院、思親閣

奥の院、思親閣

 

登り始めるとすぐに、眼下には本堂伽藍の連なる境内や、西谷に咲き誇る桜の賑わいが展開する。

薄いピンクの桜が、緑の木立を割るように広がり、軒を連ねる建物の黒い甍とのグラデーションが美しい。

 

登るにつれ視界が開け、恐ろしいほど深い谷が、大きく口を開けたように広がっている。

遙か甲斐の山々の間を、蛇行する富士川のうねりが遠望でき、川沿いの家並みが箱庭のように見える。

晴れた日には遠く富士山を望むことも出来るらしいが、生憎今日はカスミがかかって見る事が出来ない。

 

 

奥の院 思親閣

 

 ロープウェイを降り、奥の院に向かう。

参道の周囲は、亭々とした杉木立で、標高が上がったせいか、下界より体感温度が下がったようだ。

その途中、一際目立つ大きなしめ縄が巻かれている大杉があった。

これは日蓮が自ら植えたと伝わる杉で、樹齢は700年を越えているという。

 

奥の院 思親閣

奥の院 思親閣

奥の院 思親閣

 

奥の院 思親閣

奥の院 思親閣

奥の院 思親閣

 

奥の院は生前の日蓮が、草庵から度々足を運び、安房国(今の千葉県)を望み、両親を偲んだ場所である。

温かい地で生まれ育った身には、この地の寒さが身に滲みたようで、それが一層望郷の念を掻立てたのであろう。

親思いの日蓮を偲んで、入滅後堂宇が立てられ、「思親閣」と名付けられた。

天気が良ければ、ここから南東の遙か彼方に房総半島を、故郷の小湊を、見通す事も出来たそうだ。

 

奥の院 思親閣

奥の院 思親閣

奥の院 思親閣

 

奥の院 思親閣

奥の院 思親閣

奥の院 思親閣

 

奥の院 思親閣

奥の院 思親閣

奥の院 思親閣

 

 日蓮は、法華経を唯一無二とし、「南無妙法蓮華経」をひたすら唱える事を教えた。

このため、他宗の僧やその信者等から反感を買い、命を狙われる法難や流罪などに幾度も遭うことになる。

二年半に渡る佐渡への流刑が解かれると、地頭の招きで身延山の西谷に入り、草庵を構え余生を過ごした。

それがこの桜の咲き誇る桃源郷のような聖地である。

 

 

身延山山頂

 

展望遊歩道と書かれた入り口を潜り、杉木立の整備された道を5分程緩やかに登る。

そこは癒やし安らぎの、森の香や殺菌のエッセンス、フィトンチッドが身体に入り込んでくるような道だ。

やがて前面が開けると、南アルプスや早川渓谷を望む北側展望台で、1153mの山頂である。

 

身延山山頂

身延山山頂

身延山山頂

 

身延山山頂

身延山山頂

身延山山頂

 

身延山山頂

身延山山頂

身延山山頂

 

身延山山頂

身延山山頂

身延山山頂

 

 低い山から高い山が幾重にも連なり、その背後は雄大な南アルプス連峰の山々が薄く煙って見える。

一番手前に見えるのが、1640mの富士見山の深緑色の山容らしい。

遙か最奥には、富士山に次ぐ日本第二の高峰、北岳(3192m)の山頂だけが白く輝いて際立っている。

少し東に目を転じると、雪を戴いた八ヶ岳連峰、さらに奥秩父の山々が連なって見える。

 

 

西谷を下る

 

 佐渡での流罪が解かれ、地頭・波木井氏の招きで当山に入り庵を構え、弟子の育成に捧げる事を決意した。

しかし殊の外厳しい身延の寒さからか、自らは健康を害してしまう。

 

療養を兼ね、両親の墓参に向かう途中、日蓮は武蔵国(今の東京都)で帰らぬ人となってしまった。

「墓は身延へ」との遺言により、遺骨は身延に送られ、西谷に設けられた祖廟に埋葬された。

こここそが久遠寺発祥の地で、遺骨の眠る祖廟や、草庵跡などが残されている。

 

 

西谷

西谷

西谷

 

西谷

西谷

西谷

 

西谷

西谷

西谷

 

西谷

西谷

西谷

 

山を下り、ロープウェー駅の近くの脇坊・本行坊を大勢のカメラマンたちが覗きこんでいる。

お目当ては、境内に咲き誇る桜らしい。

薄いピンクと言うよりは、少しピンク掛った白い花を一杯付け、しだれるさまは正に花の滝そのものだ。

どれも齢を重ねた巨木揃いで、圧倒されそうなほどの迫力が有る。

 

 日蓮の眠る祖廟は、三門の前の道を左に取り身延川に沿って500m程行った先にある。

立寄りたいところだが、予定したJRの時刻が迫っていて、バス停まで急がねばならない。

 



 

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