柳川のお堀巡り
柳川は福岡県の南部、筑後平野の南西部に位置する、人口6.5万人ほどの市である。
起伏の少ない平坦地で、西部は有明海に面している。
福岡の中心からなら、西鉄で凡45分、久留米や大牟田からなら15分程度の距離である。
日本の近代文学を代表する詩人・北原白秋の故郷として知られ、生家が今も残されている。
又市内には総延長900キロにも上る掘割が縦横に張り巡らされ、「水郷の町」とも呼ばれている。
旧立花藩の別邸「御花」や、鰻などの川魚料理、どんこ舟で行く「お堀めぐり」等が人気の観光の町でもある。
「お堀巡り」の観光船は、幾つかの事業者がそれぞれに乗船場を構えているようだ。
この日は、西鉄柳川駅にほど近い、赤い欄干橋のある三柱神社前の乗船場に向かった。
乗り場には、北原白秋ゆかりの「松月文人館」が併設されていて、直筆の書画などが展示されている。
一日に何便出ているのか、気にもせずやって来たが、大して待つこともなく乗ることが出来た。
ここから20名程が乗り込んだ「どんこ船」は、船頭の操る一本の竹竿で岸を押され、滑るように水面に出て行った。
舟は直ぐに左折して柳川橋の下を潜ると、最初に見えてくるのが黒瓦葺白壁造りの「柳川古文書館」だ。
所々に立つ白秋らの詩碑や、岸辺の木々や草花に視線を送りながら、船頭の名調子に耳を傾ける。
周りの建物も、潜る橋の上を行く自動車も、岸辺に花をつける木々も、何もかも低い視線から見上げている。
今までに経験の無い視界が展開し、何か別のものを見るようでもあり、その新鮮さに感動する。
川岸には、乗船客目当ての飲食店が店を開いていて、手にメニューを持った従業員が頻りに売り込んでくる。
客のニーズがあれば立ち寄るのであろうか、船頭さんは竿の手を緩めることもなく、近くを掠めていく。
岸辺には、「カッパの夢」と題したカッパの置物や、文学碑なども建てられている。
舟客を起きさせない為の持て成しのようだが、残念ながら文学碑はその内容を読み取る間もなく通り過ぎてしまう。
やがて、「柳川市民文化会館」の黒瓦葺白壁の建物が見えてくる。
掘り割りは、クリークと呼ばれる水路で、昔から上水道や農業用水、水運などの目的で整備されてきた。
一時は余りにも多い水路を持て余し、荒れるに任せた時期もあり、水質も悪化して埋め立て議論も成されたようだ。
しかし、折角の資源をみすみす失うのは・・と、やがて存続の気運も高まり、浄化作業などが行われ甦ったそうだ。
今では貴重な農業水利であると同時に、お堀巡り観光の貴重な資源となっている。
当地を訪れる観光客の数は、百万人を超えているという。
近年になって道路整備が進むと、当然掘り割りを跨ぐ橋が架けられることになる。
橋は幹線道路の物ばかりではないので、短く狭い橋も多く、そんな橋の下は舟一艘がやっとと思うほどに狭い。
中には、まるで秘密の抜け穴のように、低く狭くて、小さな穴のような場所もある。
それでも、船足が衰えることもなく、側に当てる事も無く、吸いこまれるように滑らかに潜っていく。
乗っている者は、思わず首をすくめてしまうほどだが、こんな所は、ベテラン船頭の腕の見せ所でもある。
「ウナギの供養碑」や、筑後の国主「田中吉政像」、「檀一雄文学碑」が見えてくる。
切り株に手を乗せた少女象は、北原白秋の童謡「まちぼうけの碑」である。
その先で、賑々しく風にはためいている幟旗は、時節柄、端午の節句の祝い旗であろうか。
鯉のぼりではなく、幟旗というのは、この地方の習慣なので有ろう。
やがて心なし水路の幅が広くなったように思える頃、「かんぽの宿」の大きな建物が見えてくる。
その先で、又々狭い掘り割りに入り込むと、右手には広大な旧立花藩の藩主邸「御花」の敷地が続いている。
外塀の向こうは鬱蒼と茂った森になっているようで、そんな中「殿の倉」と呼ばれるナマコ塀が見えてくる。
屋敷を巡るように進み、左折して沖ノ端橋を潜ると ここらあたりが柳川観光の中心的な場所らしい。
突き当りに水天宮の建物が見えてくると、凡そ70分の舟旅は終わりで、舟は静かに降船場に着けられた。
運行業者によって多少の違いは有るようだが、概ねこの観光の中心的な場所で下船することに成る。
下船場所の川岸には、柳並木が植えられ、そぞろ歩く観光客の姿も俄然多くなってきた。
柳川名物・鰻めし
「筑後路の 旅を思へば水の里や 柳川うなぎのことに恋しき」
下船すると、どこからともなく、ウナギを焼く香ばしい、良いにおいが漂ってきた。
ここ柳川では、「一に白秋、二にうなぎ」、と言われるほどに鰻が名物である。
周囲にはお土産屋、有明海の旬の魚介類や柳川の川魚を食べさす食事処等に混じり、鰻専門店なども多い。
「鰻めし」は、ご飯の上に鰻の蒲焼きを乗せ、更にその上に錦糸卵を散らし、セイロで蒸したもので有る。
ここ柳川の代表的な鰻料理で、食事処で提供されるのは殆どがこれで有る。
何度もタレを潜らせ、焼き上げた鰻を再び蒸すことで、焼きたてのようなより香ばしい香りが立っている。
錦糸卵も相性が良く、鰻の身も心なしふっくらとして美味い、「名物に美味いもの有り」だ。
白秋の生家と記念館
北原白秋は明治18年、この柳川でも一二を争うような酒造業を営む名家の長男として生まれた。
中学に入ると短歌の創作を始め、この頃には「白秋」と言う号も使い始めていたという。
多感な時期を、この自然豊かな柳川で過ごしたことで、繊細で豊かな詩心が育まれたと言われている。
そんな白秋の業績を紹介する記念館と共に、生まれ育った生家が残されている。
当時の家屋敷は、一町三反と言われた広大なもので、店舗と母屋の間の掘り割りは、今も残されている。
白秋の生誕百年を記念して、広大な敷地跡に、なまこ塀土蔵造りの記念館が造られた。
明治・大正・昭和の三代を生き抜いた、白秋の業績に加え、柳川の歴史等が紹介されている。
旧立花家の別邸・「御花」
その生家からほど近いところに有るのが「御花」である。
江戸時代、柳川を治めた立花家の別邸で、当時の地名花畠から、地元の人々が愛着を込めてこう呼ぶようになった。
一際目を見張るのが正面の「西洋館」で、鹿鳴館時代の特徴を表す建物は、明治時代に迎賓館として建てられた。
現在では結婚式場として使われていると言う。
立花家400年に渡る歴史で受け継がれてきた収蔵品を見せるのが、「立花家資料館」である。
他にも、宿泊施設や料亭等を備えていて、柳川の観光を代表する施設に成っている。
以前訪れた折には、「集景亭」で郷土料理を頂きながら、国名勝に指定された「松濤園」を眺めた事があった。
建物も流石に豪華で有るが、庭園も見事なまでに美しかった。
大きな人造池に、大小の岩を配し、周囲に松などを見事に配置し、作り込まれた典型的な観賞式庭園である。
目の前の大海に見立てた園池では、沢山の野鴨が群れ遊んでいて、この事を印象深く覚えている。
もし、次に訪れる機会があれば、更にゆっくり時間を取って、今一度優雅な一時を過ごしてみたいものだ。
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