紀伊長島

 

 紀勢本線は、多気で参宮線と別れると伊勢の国を離れ、いよいよ紀伊の国を目指す。

その国境に立ち塞がるのは、25‰の勾配で待ち構える荷坂峠だ。

しかし列車は1,914mの荷坂などの大小トンネルを幾つも潜り抜けながら難なく超えていく。

軽快にそれを抜けると目の前には太平洋・熊野灘の大海原が広がる。

今度はそれに向け急坂を一気に駆け下ると、列車はその先でようやく紀伊長島に到着する。

 

1面1線の単式と1面2線の島式ホームを持つ駅で、特急の停車駅である。

駅前でレンタサイクルを借り、次の列車待ちの僅かな時間ではあるが長島の町を走ってみた。

目的が有るわけでは無いが、観光案内板を頼りに、まず海に向け2キロほど先の港を目指してみる。

 

紀伊長島

紀伊長島

紀伊長島

 

紀伊長島

紀伊長島

紀伊長島

 

紀伊長島

紀伊長島

紀伊長島

 

 ここは熊野灘に於ける漁業の町で、海に近づくと港町らしい古い町並みが続いている。

そんな中に樹木がうっそうと茂った長島公園が有り、その中心に長島神社が祀られていた。

黒潮に近いせいか、木々は旺盛に茂り大木が並び立っている。

 

 この長島神社の社叢(しゃそう)は、三重県の天然記念物の指定を受けているそうだ。

スギやクスノキのほかイヌマキ、スダジイ、ヤマモモなど、暖地性の植物群が知られている。

中でも目を引くのが樹齢約1000年、樹高28mのオオスギや、樹高30m、幹回りが10m余りと言うオオクスだ。

 

紀伊長島

紀伊長島

紀伊長島

 

 

二つの赤い道路橋

 

そこから暫く走ると海に出た。

近くに漁協の卸売市場が有ったが、もうすでに取引が終わった刻限で人影もなく閑散としていた。

海辺には喫茶店や食事処などのお店の他、何軒かの魚介類や干物を販売する店も並んでいる。

しかし、観光客らしき姿を見かけることもなく静かなものだ。

これらの店の中には予約すれば「干物造り」が楽しめるところも有るようだ。

 

漁船が出入りする長島港の向こうには、太平洋・熊野灘の碧い海が一杯に広がっている。

紀伊長島はまさに、黒潮に恵まれた豊かな漁場を擁する一大漁業の町である。

 

紀伊長島

紀伊長島

紀伊長島

 

紀伊長島

紀伊長島

紀伊長島

 

紀伊長島

紀伊長島

紀伊長島

 

港で一際目を引くのが、江の浦湾に架かる二つの赤い道路橋である。

湾の奥に架かる「江の浦橋」は、橋の下を船が通ると中央部が上昇する、昇降式の可動橋だ。

丁度今まさに橋の下を船が通過中で、橋の中央桁がユックリユックリ上昇を続けている。

橋は全長が85mで、その中央部30mが上昇すると言う。そこには踏切のような遮断機が設けられている。

 

手前に架かるのがループ橋の「江の浦大橋」だ。

上から見ると“α”に見えることから「アルファ橋」とも呼ばれている。

殆ど自動車専用のような橋で、歩行者や自転車は「江の浦橋」を利用するのだそうだ。

 


 

雨の町・尾鷲

 

紀伊長島を過ぎると、太平洋・熊野灘はいよいよ車窓に近くなる。

しかしこの辺りは、小さな半島が幾つも海に突き出す厳しい地勢のリアス式海岸である。

列車はそんな半島の付け根を貫く、幾つものトンネルで駆け抜けて行くので思う存分にとは中々いかない。

それでもトンネルを抜けるたびに目の前には碧い海が、広く大きく飛び込んでくる。

そこには白砂の美しい海岸があり、はたまた奇岩怪石が聳え立つ、荒磯であったりする。

 

 紀伊長島からは、30分ほどで尾鷲に到着する。

ここで数分の停車時間が有るので、慌ただしく駅前に降り立ってみた。

この辺りの沿線は、多雨地域として知られていて、中でもここ尾鷲は一日の降水量日本一の記録を持った町だ。

子供のころ教科書で降水量日本一と習った記憶が有るが、観測地点の増えた今はそうでもないらしい。

それでも年間の降水量では、屋久島などと共に、常に上位にランクされている。

 

尾鷲

尾鷲

尾鷲

 

新宮

新宮

新宮

 

 尾鷲

尾鷲

尾鷲

 

 尾鷲を出て、厳しい地勢のリアス式海岸を幾つかのトンネルで抜けると列車は熊野市に入っていく。

ここから先は、いよいよ太平洋の海岸線が線路脇まで近づいてくる。

途中下車の予定はないので、専らこの絶景を車窓から楽しむだけである。

 

 三重県の最南端、紀宝町はウミガメが産卵に来るまちとして知られている。

町内を貫く国道42号線には道の駅があり、ここにウミガメ公園が併設されている。

地元の産物のほか、ウミガメグッズなども販売され、水槽では悠々と泳ぐウミガメを間近に見ることが出来る。

 

 

新宮

 

 その先で三重県から県境を越え和歌山県に入ると、最初の停車駅が熊野川の河口西側に開けた新宮だ。

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線を持つ新宮市を代表する有人駅である。

駅構内には何本もの側線が有り、この路線にあっては大きな駅だ。

 

 嘗て奈良県の五條市から紀伊半島の中央部を南下して、新宮にいたる「国鉄五新線」の建設が計画された。

大正時代に計画され、昭和141939)に着工されているが、地元の反対なども有り工事は凍結され未成線となった。

元々沿線の吉野杉などの運搬を目的としていたが、駅数が思惑よりも少なく地元の不満が募ったようだ。

結局停留所の多いバス路線でと成ったものの、そのバス路線も全線開通せず、今では運行もなくなってしまった。

 

新宮

新宮

新宮

 

熊野速玉大社

熊野速玉大社

熊野速玉大社

 

新宮

新宮

新宮

 

紀伊長島から乗り込んだジーゼル車両の運行はここまでだ。

この駅の手前にJR東海とJR西日本の会社境界線が引かれていて、西日本の管理駅となっている。

一部特急はこの先の紀伊勝浦まで行く便もあるが、そのほかは全てここで乗り換えとなる。

ここからは「きのくに線」の愛称が付けられている電化区間に成り、電車にバトンタッチされる。

 

熊野速玉大社

熊野速玉大社

熊野速玉大社

 

熊野速玉大社

熊野速玉大社

熊野速玉大社

 

熊野速玉大社

熊野速玉大社

熊野速玉大社

 

熊野速玉大社

熊野速玉大社

熊野速玉大社

 

熊野速玉大社

熊野速玉大社

熊野速玉大社

 

新宮は熊野三山の一つ「熊野速玉大社」の門前町として栄えた町である。

その最寄り駅であると同時に紀伊半島南部の観光や、世界遺産巡りの拠点となる町だ。

「熊野速玉大社」は、駅から1.5キロほど離れていて、徒歩なら20分ほどだ。

 

 

名駅舎・那智

 

 新宮から15分も乗ると那智に到着する。

駅の南には太平洋が広がり、海岸は那智海水浴場(ブルービーチ那智)でホームからも良く見える。

ここは無人駅ながら2面2線の相対式ホームのある駅で、開業百周年を迎えている。

駅前からはおよそ1時間に1本程度の那智山や勝浦行のバスが出ている。

 

駅舎は名駅舎として知られている。

朱塗りの柱に白壁が映える黒瓦葺きの神社風建築は、那智大社などを模し昭和11年に改築されたものだ。

この駅舎は真正面から見るよりも、駅前の石碑が建つあたりの、やや斜めから屋根の重なりを眺めるのが良い。

 

那智

那智

那智

 

那智

那智

那智

 

那智

那智

那智

 

那智

那智

那智

 

那智駅

那智駅

那智駅

 

 那智駅は、駅そのものが「道の駅・なち」となっている。

駅前広場はその広い駐車場を兼ねていて、周りには地元産の農産物の直売所が有る。

また駅舎には、町営の日帰り入浴施設「丹敷の湯」があり、那智駅交流センターが併設されている。

一階が「くつろぎ広場」「情報コーナー」や「熊野那智世界遺産情報センター」で、二階に風呂が有る。

 

 駅前の緑地には、石碑が立っている。

一つは当地出身の衆議院議員・山口熊野(やまぐち・ゆや)の顕彰碑だ。

自由民権運動に係る傍ら、紀勢本線の開通に尽力したことを伝えている。

 

もう一基は、日本サッカーの始祖と言われる中村覚之助の顕彰碑だ。

当地で生まれた覚之助は、師範学校在学中に日本初のサッカー指導書を発刊し蹴球部を創設した。

日本最初の近代サッカー試合を行った人物で、日本サッカー協会の旗章「三本足の八咫烏」は氏に因んだものだ。

 

 

世界遺産「熊野古道」

 

「熊野古道」は、2004年ユネスコの世界遺産に登録された。

古代から中世にかけて信仰が高まった熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣道である。

 

そのルートは幾つも有り、その内の田辺から本宮に向かう中辺路は、最も多くの参詣者が歩いたと言われている。

このほかにも田辺から海岸沿いに那智・新宮に向かう大辺路や、高野山から熊野本宮に向かう小辺路が知られている。

又日本人にとっては特別な場所である伊勢神宮と繋がる「伊勢路」も有る。

高野山麓の慈尊院から高野山奥の院に向かう町石道も、小辺路に繋がる「熊野参詣道」として登録されている。

 

熊野古道

熊野古道

熊野古道

 

熊野古道

熊野古道

熊野古道

 

熊野古道

熊野古道

熊野古道

 

熊野古道

熊野古道

熊野古道

 

 紀伊の山地には「熊野三山」「高野山」「吉野・大峰山」と言う三大霊場が有る。

昔から自然崇拝・信仰の聖地とされ、修験道などによる山岳修行の場として知られていた。

 

それはこの地には深い山々が、太平洋に崩れ落ちるように南に延びる独特な厳しい地形があったからだ。

暖流に乗ってやって来る、湿った暖かい空気が山々にぶつかり、上昇し、冷やされ、雨となる。

その降り注ぐ雨が、豊かで、濃密で深い、神秘的な植生をもたらしてきた。

そんな自然環境もあって、この地は山岳信仰の霊場として次第に形成されていったのだそうだ。

 

 熊野三山は、天皇や皇族、武家階級から町村の庶民に至るまで、あらゆる階層に信仰の対象とされたのが特徴だ。

そのため参詣道は人々であふれ、切れ目が無いほどで「蟻の熊野詣」と例えられる賑わいを見せたと言われている。

 



 

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