佐渡の金山
国の史跡に指定されている「佐渡金山」では、宗太夫坑が有料で公開されている。
日本では最大級の鉱山で、それを支えたのが坑口の高さ3m、幅2m程ある江戸時代初期から開坑された坑道だ。
それはまるで地下の蟻の巣のようで、東西3000m、南北600m、深さ800mあり、その総延長は400qにも及ぶ。
斜坑は佐渡を取り巻く外海の下まで伸びていると言われている。
地下深く掘り進められた坑道跡には、採掘作業の様子が忠実に再現されている。
金窄大工達がタガネを上田箸で挟み、鎚で打ち採掘していた構内は、少しひんやりとしている。
実物大の人形で再現された姿からは、劣悪環境の下、過重で過酷な、気の遠く成る様な作業の様子が窺い知れる。
展示資料館の第1室では、佐渡金山絵巻に描かれた様子を、縮尺1/10の500体の人形で忠実に再現している。
第2室では小判の製造工程の説明や、各種小判の展示、純金延べ棒に直接触れるコーナーなどがある。
佐渡の山々では、古くは平安時代末期頃から、砂金が取れていたとする記録が残っているそうだ。
そんな古い歴史の有る金山が広く知られるようになったのは、関ヶ原の合戦が行われた翌年である。
その年にこの地は天領となり、以後徳川幕府が大規模な開発を進め、佐渡金山として広く知れ渡るようになった。
坑内での採掘は多くの人手を要したため、幕府は近隣の農村に人足割り当てをし、安い賃金で多量の人足を雇った。
と同時、当時の都市部からは、無宿人を多量に送り込み、労働力を確保したと伝えられている。
金山で採掘された鉱石は製錬され、小判の地金となる延金に鋳造される。
更にそこから一枚分の重さに荒切りされたものが打ち延ばされ、形が整えられて仕上げられる。
その後江戸に送られた金貨や金塊は通貨として使われ、長崎貿易の輸出品となり幕府の財政を支えてきたのである。
近代炭鉱の跡
道遊坑は、明治に成って開発された近代的な坑道で、平成元年まで操業が続けられていた。
閉山後は当時の姿のまま残され、それは近代の鉱業遺産としての文化的価値も非常に高いとされている。
宗太夫坑が人力により掘り進められたのとは違い、多くの部分で機械化されていてその対比も興味深く面白い。
資料館から外れ少し山側に歩くと、異様な容をした小さな山が見えてくる。
明治以降に採掘が行われた跡、「道遊の割戸」と言われる佐渡金山のシンボルで、国の史跡に指定されている。
これは佐渡金山発見当初からの主要鉱脈の一つで、山頂は斧で割り裂いたように成っている。
当時の露頭掘りの跡であり、その下には大きな空洞がぽっかりと口をあけている。
「道遊の割戸」を下りると、赤い櫓が印象的な高任立杭の前に資料館がある。
機械工場の前に敷かれた幅の狭い線路に、チョコンと乗っかる様な「2トンバッテリートロッコ」が可愛らしい。
車庫に残されているトロッコは、これでも時速12〜13qの速度で、当時の坑内で活躍していたと言う。
ここには充電設備、ターンテーブル等も当時のまま残されている。
坑道内では、江戸末期には初めて火薬発破も行われ、明治14年には初めて削岩機が導入されたと言う。
これは画期的的な技術革新で、国内の主要鉱山として、いち早く官営化・近代化も行われている。
宗太夫坑や道遊坑は自由見学だが、ここにはガイド付きのツアーも色々用意されている。
当時の風情を色濃く残した町並や、採掘から始まり、湊での積み出しまで、一連の産業遺跡を巡るものがある。
又、江戸から近代にかけた歴史を体感する、真っ暗な坑道を歩くツアーなども有る。
金山奉行所
佐渡金山から大佐渡スカイラインを少し下ると、その登り口付近に「佐渡奉行所」がある。
元々は金山開設のころ建てられた役所であるが、度重なる火事で焼失していた。
近年になってその跡地を発掘・調査して、平成12年にお役所部分のみを再建したのが現在の建物である。
当時の奉行所は、そこで働く役人の住む陣屋の機能と、その役所・裁判所の機能を兼ね備えたもので有ったようだ。
金銀を生成する工場「寄勝場(よせせりば)」が設けられていて、近年跡地にその施設が復元されている。
この辺りには、当時の遺構が数多く残されていて、それらは世界遺産に登録申請されているらしい。
「北沢浮遊選鉱場」は、東洋一と言われた鉱石の処理場跡で、濃縮装置などが現存しているという。
明治時代に御料局佐渡支庁跡は、現存する建物が相川郷土博物館として一般公開されている。
鉱石の積み出し港として栄えた大間港には、煉瓦倉庫等の港湾施設も残されている。
時間があれば、佐渡金山や奉行所だけではなく、これらも巡って見たいものだ。
おおさど丸
両津でレンタカーを借り、一泊二日で慌ただしく佐渡島を巡って、再び両津に戻ってきた。
佐渡島は一周が約280qも有り、面積で言えば、東京23区の1.4倍の広さがある、本州最大の島である。
誰も持ち込む者がいなかったのか、島には猿も^も鹿も熊もいないと言うから、どこに行っても安心である。
海に囲まれマリンスポーツも盛んで、里山の大自然も、伝統芸能も、見るべきものは多いという。
農産物や魚介類も豊富とくれば、出来ればもう一泊して、ゆっくりと巡りたいところで有る。
これからフェリーで新潟に戻り、次の目的地弥彦温泉を目指す。
運航する船は、昭和63年から就航している「二代目・おおさど丸」(5373トン)である。
往路で利用した「三代目・おけさ丸」と比べると、全長もトン数も若干小さく、速力もやや劣る。
とは言え、所要時間が余分にかかるものでも無く、新潟港までは行きと同じ2時間半の船旅である。
越後国の一宮 参詣路線 弥彦線
新潟港から新潟交通のバスで、新潟駅に戻り、JR越後線で吉田に行き、弥彦線に乗換え弥彦に向かう。
弥彦線は、東三条と弥彦を8駅で結ぶ17.4qの短い路線であるが、その歴史は意外に古い。
大正の初期に前身の越後鉄道が、吉田から弥彦まで、越後の国の一宮・彌彦神社への参詣鉄道として開業している。
沿線の吉田では越後線、燕三条では上越新幹線、東三条では信越本線との接続がある。
終着の弥彦駅は、越後の国の一宮・彌彦神社の門前駅で、単式1面1線の行き止まり駅である。
ホームが結構長いのは、嘗ては多くの参拝客を乗せた長大編成の列車が発着していたのであろう。
駅北口から彌彦神社までは、外苑坂通り、神社通りなど町のメインストリートを歩いて10分ほどの距離である。
まちはどうやら祭りが開かれているらしい。
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