津軽線と津軽海峡線

 

 「津軽海峡線」とは、正式な名称ではない。

青森から蟹田を経て三厩に至る55.8Kmの路線を「津軽線」と言う。

又蟹田の先の中小国でJR東日本と北海道の境界を越え、青函トンネルを抜けた北海道の木古内までは「海峡線」だ。

そこから先、函館までの江差線や函館本線を含めて、青森から函館に至る路線の愛称が「津軽海峡線」である。

 

津軽線

津軽線

津軽線

 

津軽線

津軽線

津軽線

 

津軽線

津軽線

津軽線

 

津軽線

津軽線

津軽線

 

津軽線

津軽線

津軽線

 

 青森から蟹田までの間は、本州と北海道を結ぶ幹線で、およそ1時間に1本の特急が行き来している。

しかし「津軽線」を行く普通列車となると、その本数は一日に10本に満たない。

それも途中の蟹田までで、その先終点の三厩までとなると更に半分ほどに減ってしまう。

 

 

風の町 蟹田

 

青森から1時間ほどで終着駅の蟹田に到着した。

ここは「津軽海峡線」を行く特急の停車駅でもあるが、そんな華々しい印象はどこからも感じられない。

単式と島式のホームが各1面有り、合計3線を有する地上駅で、駅員が配置されている。

幹線の主要駅らしく、ホームは随分と長いが、何も無く殺風景で、むしろ寂しいローカル駅の趣だ。

 

蟹田

蟹田

蟹田

 

津軽線

津軽線

津軽線

 

『蟹田ってのは 風の町だね』

 

降り立った蟹田のホームに、津軽出身の作家・太宰治のこの言葉が刻まれた碑が建っている。

太宰は、当地を旅し『前日の西風が親友N君の家の戸障子をゆすぶっていた』情景を小説「津軽」に書き残した。

その碑の裏を見ると、「北緯41° ニューヨーク・ローマ と結ぶ町 かにた」と書かれている。

 

蟹田

蟹田

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蟹田

蟹田

蟹田

 

蟹田

蟹田

蟹田

 

蟹田

蟹田

蟹田

 

 外が浜町は観光の町と言う訳では無さそうで、駅に観光案内所は無い。

「観光カニスマ駅長 津軽蟹夫」と書かれたパネルと模型が、ポツンと置かれているだけだ。

このカニスマ駅長は、4月から5月にかけて水揚げされる特産のトゲクリカニに因むものらしい。

 

 駅前は、一寸した広場に成っていて、白亜の灯台とどう言うわけか観音様が建っている。

その奥に「蟹田駅前休憩所」が有り、その左に「ウェル蟹」と言う産地直売施設が建っている。

木造で面白い造りだと見ていたら、三厩村のスキー場にあったヒュッテを移築したものらしい。

2009年のオープンと言うからまだ新しい。

 

蟹田

蟹田

蟹田

 

蟹田

蟹田

蟹田

 

この市場は、どうやら観光客向けと言うよりも、どちらかと言えば地元の人の利用が多いらしい。

店内には鮮魚や精肉、花やお菓子が売られていて、一角には軽食堂も設けられている。

旅人には、「青森地鶏シャモロックハンバーガー」などがお勧めだと言う。

 

 

新幹線の工事現場 津軽線

 

6月の中旬とは言え、奥津軽の梅雨時は寒い日も多いようだ。

この日、日差しは灰色の雲に遮られ、冷たい風がホームを吹き抜け、僅かばかりの雨が時々ぱらついていた。

三厩行の列車を待つ半袖の身には、少々肌寒いほどだ。

 

「津軽線」の蟹田から三厩の間は、一日5往復しか走らない完全なローカル線である。

この日三厩行きの普通列車、キハ401両のワンマンカーに乗り込んだ乗客は、数えるほどしかいなかった。

 

線路は蟹田を出るとすぐに西向きに進路を変え、内陸部を終点の三厩までショートカットしていく。

中小国を過ぎ、大平の手前で、青函トンネルに向かう海峡線と交差すると、その後はほぼ併走して進む。

大平を過ぎると、緑豊かな奥津軽の車窓風景は一変する。

 

津軽線

津軽線

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津軽線

津軽線

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津軽線

津軽線

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津軽線

津軽線

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津軽線

津軽線

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周りに山が迫り、人家もまばらな地に、突然大きな工事現場が現れると津軽二股駅である。

ここは「海峡線」の津軽今別駅とは目と鼻の先で、直線距離にしても数百メートルも離れていない。

新幹線が開業すると、この津軽今別は廃止され、本州最後の新幹線駅・奥津軽駅(仮称)が出来るのだ。

 

駅周辺の豊かな緑は削られて、赤土の大地が、至る所で剥き出しになっている。

巨大なコンクリートの柱が何本も立ち上がり、駅舎と高架がその姿を現しつつある。

山深い景色の中の建設現場は、凡ローカル線らしからぬ風景を見せ、新幹線開業の期待感を高めている。

 


 

最果ての終着駅 三厩

 

深い山の中を走ってきた列車が、今別を出た先で、左に進路を変えると右手に海が見えてくる。

久しぶりに車窓から見る津軽海峡の三厩湾である。

暫くは海岸に沿って進み、津軽浜名を過ぎ、再び山に向き直るとその先が「津軽線」の終着駅・三厩だ。

 

 以前は「みうまや」と読んでいたが、平成3年、「みんまや」と読みを改められた。

ここは義経伝説の地である。

奥州平泉で自刃したとされる義経主従がそこを脱出、蝦夷地に逃れる出発地となった所と言う。 

三頭の竜馬を得て、その駒を繫いだとされる厩石が残されていて、それがこの地の名前の起こりとされている。

 

三厩

三厩

三厩

 

三厩

三厩

三厩

 

三厩

三厩

三厩

 

 島式1面2線のホームの先で、線路は絞られて一本となり、そのまま機庫の中へと吸い込まれている。

ここはその先に続く線路とて無い、本州の果て、津軽半島最北端の終着駅である。

北海道に向かう「海峡線」は、この駅の数百メートル南の地を、既にトンネルとなって抜けている。

 

 こじんまりと、かわいらしく、小さな駅である。

改札の上には、一日5往復の列車の時刻が、随分と大きな字で書かれ、掲げられていた。

冬の寒さが厳しいとこらしく、待合室の真ん中には、石油ストーブが据えられている。

駅舎を出ると何もない広場には、竜飛崎に向かう町営バスが一台、静かに待っていた。


 

 

本州の袋小路

 

 駅前広場を出たバスは、駅の左手から始まる「竜泊ライン」には背を向けて、竜飛崎に向けて走り出した。

バスは時折海沿いの広い道を外れ、思い出したように集落の中の狭い道を、軒先を擦るように走り抜けて行く。

旧道沿いには古くから人々の生活があり、そこにバス停があるからだ。

板張りの粗末な家屋に混じり、所々でカラフルな色の新しい家も混じっているが、余り商店らしきものは見かけない。

 

かつて岬までの道のりは、たいそう厳しいものであったらしい。

バスも途中の宇鉄までで、その道は海岸ぎりぎりで、時には波しぶきを被ることも有った。

その先は歩くより仕方なく、岩山をよじ登り、海中の洞穴を潜り抜けたり、と言うありさまであったそうだ。

 

竜飛崎

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竜飛崎

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竜飛崎

竜飛崎

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大正から昭和の初めにかけて、現在の国道339号の基礎が築かれた。

発破と手掘りにより、途中には13もの岩をくりぬいた洞門を通し、道路作りが行われた。

作業の中心となったのは地元漁協で、あわび潜水器事業の収益金で工事費用を賄ったと言われている。

そんな経緯から、完成するとこの道を、人々は「あわび道路」と親しみを込めて呼び合ったそうだ。


 

竜飛崎

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竜飛崎

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竜飛崎

竜飛崎

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 「青函トンネルの工事の折は、町は賑わった」

「漁師も漁をするより稼げるからと、皆揃って飯場にいった」

「狭い道を大きなトラックが何台も行き来した」

 

他に乗客もいない気安さからか、バスのドライバーが、気軽にこんな事を話してくれた。

そんな道路を今は、観光のバスやマイカーが時折行き交っている。

 

竜飛崎

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竜飛崎

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竜飛崎

竜飛崎

竜飛崎

 

『この本州の路のきわまるところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、

私はそれから目をそらして、ただ自分の足元ばかりみてあるいた』

 

 当地を旅した太宰は、青森市から乗ったバスで、4時間もかけて三厩までやって来た。

当時はここがバスの終点で、この先は波打ち際の心細い道を歩いて、3時間半ほど竜飛に向け北上している。

歩いて辿り着いた太宰は、この地を『ここは本州の袋小路だ』と表現した。

 




 

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