旧夕張線
札幌から乗った特急を新夕張で降り、ここでキハ40系1両のワンマンカーに乗り換える。
ここは嘗て夕張線と呼ばれ、夕張地方で産出される石炭輸送で賑わった路線である。
古い鉄道地図を見ると、沼ノ沢、清水沢、鹿ノ沢などの沿線各駅から、幾つもの炭鉱鉄道が伸びているのが分かる。
今ではそれらは全て廃線となり、僅か16.1Km残るのみの路線は、現在では石勝線の支線となっている。
本線と別れ、源を夕張岳に発する夕張川を渡ると、車窓には緑豊かな大地が展開する。
切り開かれた畑の中に、有名なメロンのハウスであろうか、所々巨大なビニールハウスが目に付く。
路線は夕張川と付かず離れず絡み合うように延び、滝の上付近の車窓からは、見事な柱状節理の大岩が見える。
石炭産業で繁栄した沿線ではあるが、過去の賑わいを感じることも無く列車は淡々と進んで行く。
夕張近辺には鹿の字の付く地名が多いと言う。
これは、昔はこの付近に鹿がたくさん住んでいたかららしい。
かつて鹿の肉や内臓は、先住民・アイヌの主要な食糧の一つであった。
皮は「ウリ」と呼ばれる毛皮のオーバーや、「ユクケリ」と呼ばれる冬用の防寒靴に加工され使われていた。
やがて町が開け、広い駐車場が広がる「レースイの湯」が右手に見えてくると終着駅、夕張に到着だ。
行き止まり駅の直ぐ横に「ホテル・マウントレースイ」の白亜の建物が建っている。
その前には、冷水山(703m)の麓に広がる広大なスキー場も見える。
夕張駅に隣接し「夕張観光案内センター」が有る。
ここは、夕張の観光案内やイベント情報、宿泊情報などを知ることが出来る総合案内所だ。
おみやげ品や夕張の関連グッツなども販売をしている。
駅の直ぐ前にある施設が「夕張屋台村」、通称「バリー屋台」である。
炭鉱住宅の廃材などを再利用して作られもので、2009年9月にオープンした。
ラーメン・ジンギスカン・カレー・すし・そばなど、洋風居酒屋が7店舗も集結している。
石炭の歴史村
駅から暫く歩いて行くと、山裾の広い駐車場に建つ古びた煙突が見えて来る。
「夕張炭鉱当時の洗炭設備の遺構」である。
その奥の少し高い平地になったところには、当時、炭鉱住宅がびっしりと並んでいたと言う。
丁度その向かい辺りが、当時の夕張線の終着駅らしく、現駅よりは2キロほど先の炭鉱前であった。
炭鉱が閉山されると終着駅は、1キロほど手前の市役所近くに移された。
その後、観光開発でホテルが立地すると、更に1キロほど手前の現在地に移されている。
「石炭博物館」近くにある「花畑牧場・夕張直営ショップ」も人気のスポットらしい。
タレントが社長を務める牧場の製品が話題を呼び、一躍北海道名物として知られることとなった。
特に「生キャラメル」は今や全国区の人気で、ログハウス風の直営店ではカフェも併設されている。
夕張では、明治21年に石炭の露頭が発見され、その2年後に夕張炭鉱所が設置され、開発が初まった。
戦前には6万人、昭和35年の最盛期には、20を超える炭鉱と、12万人を超えたと言われる人口を擁していた。
そんなことから夕張は、日本の「炭都」と呼ばれるようになった。
町には昼夜を問わず、炭鉱景気に沸く人々が溢れ、新たな文化や娯楽施設を生み、繁栄の一途を辿ってきた。
しかし昭和13年、天竜坑でガス・炭塵大爆発が起こり、161人の犠牲を出す大惨事を起こした。
加えて近代化の波は、産業構造を変え、石炭需要は激変、ついに平成元年100年続いた炭鉱の火が消えた。
そしてその炭鉱跡地は、「夕張石炭の歴史村」に生まれ変わった。
「石炭博物館」を中心に、SL館や遊園地、大劇場、「炭鉱の生活館」などを揃えた一大テーマパークである。
施設は、「炭鉱の町」から、「観光の町」に変貌するための象徴的なものと言われていた。
しかしその後景気は後退、遊園地など多くの施設は閉鎖された。
今ではそのメイン施設である「石炭博物館」や、「化石館」等が残る程度だ。
かつて人々の歓声に包まれた施設は、錆びつき、朽ちかけ、無残な廃墟と化した姿を晒したままになっている。
映画の町 夕張キネマ街道
炭鉱跡から緩い坂を10分程下ると「ホテル・シューバロ」前から延びる、「本町商店街」が有る。
ここは、炭鉱が繁栄していたころ、炭鉱で働く人々のために造られた商店街である。
当時24時間交代で働く炭鉱労働者が、仕事を終え繰り出す為、一日中人々の流れは途切れる事も無かったと言う。
その昔には、遊郭も有ったらしく、眠らない町として活気に満ち溢れていたらしい。
炭鉱が最盛していた昭和30年代、映画は市民の娯楽の中心に有った。
ここ夕張の市内にも、17館もの映画館が有ったと言われている。
しかし石炭需要が減退し、炭鉱が閉山されると人口も激減し、町は急速に寂れてしまう。
そんな町を活性させようと始まったのが「夕張キネマ街道」である。
昔から映画とは深い係わりのある町で、「幸福の黄色いハンカチ」、「北の零年」等のロケも行われている。
毎年冬には、「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」が、夕張市再生の象徴として開かれている。
多くの映画の舞台となった町は、矢張り映画と供に『映画の町の伝統』を、甦らすしかなかったのだ。
国内外で上映された映画の看板を、手書きで復活させ、商店街の家々の壁に掲げるようにした。
その看板は、今では数も少なくなってしまった本物の「映画の看板屋」が描いたものらしい。
その数何と90枚にも上ると言う。
「シェーン」「史上最大の作戦」「猿の惑星」「用心棒」どれを見ても懐かしく、当時のことが甦ってくる。
「男はつらいよ」の寅さんも、「太陽がいっぱい」のアランドロンもいる。
商店街の殆どの店がシャッターを下ろす中、映画の看板だけが、昭和のレトロ感を出している。
幸福の黄色いハンカチ想いで広場
本町からバスに乗り、「幸福の黄色いハンカチ想いで広場」を訪ねてみる。
「黄色いハンカチロケ地前」でバスを降り、すぐ右折、坂道を登りJRの線路を越え、その先で左折する。
ここからロケ地に向かう坂道が、登りながら長く伸びていて、歩いて10分ほどの道程だ。
映画「幸福の黄色いハンカチ」のラストシーンのロケが行われた、炭鉱住宅がそのまま保存された施設だ。
何処かの炭鉱住宅を、移築復元したものらしい。
内部を改築し、「幸福を希う(こいねがう)やかた」として開放している。
内部には映画で使われた小道具や、写真・パネルなどが展示されている。
中でも一際目を引くのが品川ナンバーを付けた、真っ赤なマツダのファミリアで、映画で実際に使われたものらしい。
また、その部屋には訪れた人々が記念に書いた、黄色い紙の夥しいメッセージが壁一面に張られている。
夕張鹿鳴館
鹿ノ谷駅前から国道を外れ、志幌加別川に架かる花園橋を渡ると山の方に緩く上る道が見えて来る。
ゆっくりと5分ほどかけて上ると、木立の中に「夕張鹿鳴館」の建物が有る。
炭鉱が好景気に沸く時期、役員や来賓、幹部社員や政治家などの接待に使われた施設である。
ごく限られた上流階級だけが知る、「幻の施設」と称された場所だ。
ここは大正2年に旧北海道炭鉱会社が建設した、北海道では珍しい本格的和風建築だ。
内部には、当時の様子そのままの装飾や調度品、昭和天皇が北海道国体の折宿泊された部屋も残されている。
現在では、フレンチレストラン「ミレディ」や、宿泊施設、展示ギャラリーなどからなっている。
庭園の木々、草花の織り成す四季折々の風景に囲まれた施設は、「近代化産業遺産」に指定されている。
炭鉱が閉鎖された町は、スキーリゾートや、炭鉱テーマパーク等の観光や、映画の町として転換を図った。
一時は全国的にも注目を集め、町の変貌は順調に推移しているかに思われた。
しかしそんな中、巨額な負債隠し等の杜撰で不適切な会計処理が発覚し、2007年に夕張市の財政は破たんした。
このように観光施設は有るものの、今では入り込む観光客は決して多いとは言えない状況らしい。
鉄道も過疎のローカル線で、観光都市化を目論んだ夢も、十分に成果を上げているとは言い難い。
人口1万人余りの町は、減少に歯止めが掛からない状況という。
高齢化率が全国でトップと言う町の再建は、中々容易ではなさそうだ。
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