荒涼とした風景も 千歳線
「幾駅ものあいだ、駅とその官舎らしい建物のほかに、村らしいものもなく、農家も見えない。
何とした荒涼とした風景であろう。人間はこの土地に住まないのだ。」
終戦直後、千歳線に乗った作家の伊藤整が見た沿線風景で有る。
千歳線は、函館本線の白石から室蘭本線の沼ノ端を結ぶ56.6Kmの路線である。
開業が大正15(1926)年と言うから、比較的新しい路線だ。
当時の主力路線である室蘭本線の、札幌と苫小牧を結ぶ都市間短絡路線として新たに敷設された。
終戦当時の状況とは、今日では一変し、札幌近郊は高層ビルやマンションが建ち並ぶ大都会に変貌した。
沿線にはベットタウンが出来、新たな町を創世し、北広島や千歳にも賑やかな町並みが広がっている。
今や千歳線は、北海道では一番の繁盛路線、道内を代表する花形路線としての地位を確立している。
札幌を経由して新千歳空港へは、凡そ1時間に2本程度の快速エアポートが疾走している。
他に札幌始発の快速が1時間に4本も有り、これに特急が加わるので列車の運転密度は非常に高い。
南千歳から新千歳空港間は僅か2.6q、これを乗り潰すために、今、札幌から新千歳空港に向かっている。
苫小牧の朝
苫小牧は、北海道の中南部、太平洋に面した人口16万人余りの市である。
昔から、広大な森林地帯を有し豊富な水資源と相まって、古くから製紙業が盛んな町として発展した。
今でも明治43(1910)年操業、王子製紙の中核を成す工場が町中で稼働を続けている。
翌日に、室蘭本線を乗り潰すため、夜遅く新千歳空港から当地入りをした。
ここはスケートの町らしく、ホテルの近くにも大きなアリーナが有った。
元々、王子製紙のアイスホッケーチームの本拠地と言うことも有り、市民の間でも盛んに行われていたらしい。
聞けば市内には公営が4か所、民間1か所のスケート施設が有ると言う。
たいして大きな町では無いのに、スケート人口は特に多いらしく、「スポーツ都市宣言」を行っている。
苫小牧の朝は、6月も半ば過ぎと言うのに、冷たくて肌寒い霧雨が煙るように降っていた。
ここは、太平洋に面した太平洋気候で、冬はさほど多くはないが積雪も有り、マイナスになる日も多いそうだ。
又、夏は比較的涼しく、日の平均気温が真夏でも20度前後と過ごしやすい地であるらしい。
駅のホームで、掃除中の男性と目があった。
「6月なのに寒いですね・・・」と話しかけると、作業の手を少し休め、答えてくれた。
「今年はこれであったかい方だ。冬は、雪は少ないが、風の強さ寒さは半端じゃない」と少し笑って応えてくれた。
霧雨に霞む製紙工場の大きな煙突を見ながら、8時半過ぎの室蘭本線で岩見沢に向かう。
寝台特急・カシオペアの到着が、予定時刻よりも遅れ、それに伴って普通列車の発車が遅れるとの放送が流れる。
ワンマン運転のキハ40系1両編成の列車は、3分程遅れて、岩見沢に向けて出発した。
十数名乗り込んだ乗客は、それぞれがボックス席を一人占めするような形で席を確保した。
室蘭本線の凋落
室蘭本線は、長万部から東室蘭、苫小牧を経て岩見沢に至る218Kmの路線で、函館と札幌を結ぶ幹線である。
しかし苫小牧から岩見沢の間は、幹線の座を千歳線に譲り、凡そ2時間に1本程度のローカル線に凋落している。
かつては夕張や角田など沿線の産炭地から、室蘭や苫小牧の港に石炭を運ぶ花形路線であったらしい。
残念ながら、その栄光の面影は、今どこにも感じることは出来ない寂しい路線になっている。
苫小牧を出ると次が沼ノ端で、ここは千歳線の起点駅である。
札幌方面に向かう優等列車の多くは、ここから千歳線に入り、室蘭本線を行く列車はない。
早来には、物産館を併設したモダンな形の駅舎が建っている。
追分けは、単式1面1線と切り欠け島式1面3線を持った大きな駅だ。
文字通り線路の分岐駅で、南千歳から新得まで行く石勝線が乗り入れている。
次の三川には、安平と全く同じ形の駅舎が建っていて、これは、この先の古山、栗丘とも同型らしい。
室蘭本線の沿線には、際立った特別な景観が有るわけでもない。
それでも如何にも北海道らしい風景は、所々で淡々と車窓を流れていく。
広大な原野、整備された農地、カラフルなサイロを持った農家、時折白樺の木が点在する雑木林等が見えている。
途中、栗山、栗丘、栗沢と栗の字の付く駅が三つも続く。
車窓から見る限り栗の木が多いようには見えないが、その昔この辺り一面は、栗の大木に覆われていたらしい。
室蘭本線の建設工事では、その栗の木は、枕木として大量に切り出されたと言う。
そんなことからこの辺りには栗の字の付く地名が多いのだとか。
余談だが、プロ野球・日本ハムの栗山監督は、同名のよしみで栗山に住居を構えていると聞いた。
由仁の周辺には、結構賑やかな町並みが広がり、栗山の駅前には大きな工場も有った。
ここでは、若い女性やサッカー少年が大勢乗り込んできて、車内がたちまち満員になり、一変に賑やかになった。
その混雑は、終点の岩見沢まで続いていた。
1時間半ほどで到着した岩見沢は、かつて町中の競馬場で「ばんえい競馬」が開催された地だ。
ホームには力強く橇を引く馬の像が建っている。
その競馬は、60年の歴史の幕を、惜しまれつつ閉じたと言う。2006年のことだ。
岩見沢から函館本線の旭川行き特急に乗車し、途中の深川で下車をする。
ここ深川は、函館本線の途中駅であると同時に、留萌本線の起点駅でもある。
嘗ては北の名寄とを結ぶ深名線の起点駅でも有ったが、平成7(1995)年に同線は廃止されている。
それだけに今でも駅構内は広く、単式1面、島式2面のホームに4線有する地上駅で、駅員もいる。
この駅でのお目当ては、駅構内の売店で手に入る、名物の「ウロコダンゴ」を買い求めることだ。
それは大正時代の初めに、留萌線の開通を記念して作られ、販売されたのがその始まりとされている。
当時ニシンを満載して運ぶ貨車に、一杯ウロコが付いていたことから着想し名付けられたと言う。
この「ウロコダンゴ」は、深川地方では名の知れた名物で、今では旭川の駅でも購入は出来るらしい。
この名物は、いわゆる蒸菓子(団子)で、その形状は、鱗とは異なり三角形をしている。
その各辺の断面には、波を思わすキザギザの加工が施されている。
丁度、名古屋名物「ういろう」より少し柔らかめと言った感じで、モチモチとした食感が特徴だ。
モチ米の旨さを引出すために、甘さは控えめと言い、白あん、あずき味、抹茶味の三つの味が楽しめる。
函館本線は、神威トンネルを抜けると右に石狩川が見え始め、暫くすると近文の駅を通過する。
半世紀近くも前、高校三年生の貧乏旅では、この地のアイヌ部落を初めて訪ねている。
アイヌの存在は承知していたが、その文化の違いには少なからずショックを受けたことを俄かに思い出した。
その当時はこの後旭川に出て、その日の夜行列車で稚内を目指している。
市街地が広がり、石狩川の橋梁を渡ると列車は旭川に到着する。
駅周辺には大きなビルが立ち並んでいて、北海道第二の都市と言うだけのことは有る。
ホームからは、石狩川の支流・忠別川の流れと広々とした緑も豊かな緑地公園を見下ろすことが出来る。
ホームに降りると、珍しく駅弁売りがいたので、「写真、撮らせてください・・・」とカメラを向けた。
すると、「この方が絵になるだろう」と言って、持っていた赤いジャンバーをわざわざ羽織ってくれた。
その後、肩から弁当の入った箱を下げ、「ベント〜ウ」と一声発し、ポーズをとってくれた。
高架駅の旭川には、近代的な駅舎が建っていた。
高三生の貧乏旅行では、稚内から戻りこの駅に再び降り立って、寝場所を探しながら市内を随分と歩き回った。
そんな折、偶然見つけた公園で野宿をした。今では野宿は許可されないであろうが、それが常盤公園であった。
当時の駅の事も、町並みの事も、常盤公園がどこにあって、どんなところだったのか等、何も覚えてはいない。
それなのに不思議と「常盤公園」の名だけは、今でも鮮明に覚えていて、懐かしい記憶として残っている。
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