関西本線

 

関西本線は、名古屋と難波の間を174.9q、52駅で結ぶ路線である。

途中の亀山までがJR東海、そこから先がJR西日本の管轄だ。


 

同線は、中京圏と関西圏とを結ぶ大動脈であったが、今では全線を通して運行する列車は無く成った。

両圏に近い辺りでは、都市近郊路線として期待を担っているが、中間部は最早ローカル線の様相を呈している。

嘗て優等列車が行き交い、東海道本線や近鉄名古屋本線等との熾烈な競争の時代は、既に過去の物となっている。

 

関西本線

関西本線

関西本線

 

関西本線

関西本線

関西本線

 

関西本線

関西本線

関西本線

 

「快速・みえ」は、名古屋から15分程で木曽川に架かる橋梁を渡り、愛知から三重への県境を越える。

ここら辺りは木曽三川、すなわち木曽川、長良川、揖斐川(伊尾川)が伊勢湾に流れ出る沖積地帯である。

この川に囲まれた低地は、所謂海抜ゼロメートル地帯で、古くから「輪中」と呼ばれた土地だ。

そんな地を通ると、何時も脳裏を過ぎるのは、あの切なくも悲しい江戸宝暦年間の出来事である。

 

 

宝暦の治水

 

 その昔、木曽三川は、流れが定まらない暴れ川であった。

今では完全に分流され、更に強靭な堤防で囲まれ、この地が水禍に煩わされることも少なくなった。

しかしこの地には激しく壮絶に繰り返し続けられて来た、水との戦いの悲しくも力強い歴史が秘められている。

その一つが、「薩摩藩士による宝暦の治水」と言われる史実である。

(詳しくは、「孤愁の岸」杉本苑子 1982年刊 講談社文庫)

 

 江戸時代この「輪中」地帯の尾張藩側(徳川御三家の一)には、「お囲い堤」が聳え建っていた。

しかし不条理にも、美濃側はそれよりは一段と低い堤しか築く事を許されていなかったのだ。

木曽三川は各々の水面の高さが違うため、ひとたび豪雨に見舞われると、大水害から逃れる事が出来ない。

特に美濃側に取っては、この災厄は宿命のようなものであった。

 

治水神社

治水神社

治水神社

 

治水神社

治水神社

治水神社

 

治水神社

治水神社

治水神社

 

 幸か不幸か、巨大な河川がもたらすものは災害だけではない。

度重なる氾濫は、尾張・美濃を広大な平野にし、豊かな沃地となり豊富な農産物をもたらすものではあった。

しかし幕府は、それでも大水害を見捨ててもおけず、川普請に着手することになる。

とは言え、幕府が直接金を出し工事を行うのでは無く、多くの場合、有力大名にその工事をやらせるのである。

 

 非情な下命は、77万石・島津薩摩藩に下された。勢力を衰えさせるための、外様潰しの方策で有る。

剣術では後れを取らないと自負する薩摩隼人でも、土木工事は全くの素人集団に過ぎない。

しかも作業の現場は見も知らぬ土地で、自然と対峙する経験則のない大事業である。

やがて知ることになるが、彼らが立ち向かうには、自然の脅威は余りにも大きなものであった。

度重なる猛威に翻弄されたその工事は、凄惨を極める事になる。

 

治水神社

治水神社

治水神社

 

治水神社

治水神社

治水神社

 

治水神社

治水神社

治水神社

 

 宝暦4年1月、総奉行・平田勒負(ひらたゆきえ)を初めとする薩摩藩士947名は美濃の地に派遣された。

作業小屋での新たな共同生活が始まったのである。

工事区域は三川の河口域から上流に向けた数十キロにも及ぶ広範囲なもので有った。

もともと地盤が緩い低湿地な上、とにかく流れる川の水の勢いが強いところで、工事は難渋を極めた。

 

何度も自然の猛威に苦しめられる過酷な飯場は、人と自然とが闘う凄惨な消耗戦となった。

最後には、人柱まで立てて、ようやく完成したと言われるほどに困難を極めることに成る。

慣れぬ地で疫病に倒れ、望郷の念を抱きつつ朽ち果てる藩士も多数出た。

中でも最大の難工事は、木曽川と伊尾川(揖斐川)の流れを分離する「油島千間堤」で、多くの犠牲者を出した。

 

それでも不屈な薩摩隼人は、語り尽くせぬほどの辛酸をなめながらも、工事はどうにか完了した。

宝暦5年6月、島津藩主・薩摩守重年は、幕府に請負普請の完成を届け出ている。

出来栄え検分を終えた背割り堤約1Kmには、薩摩から取り寄せられた日向黒松が植えられた。

 

治水神社

治水神社

治水神社

 

治水神社

治水神社

治水神社

 

治水神社

治水神社

治水神社

 

 検分を終えた総奉行・平田勒負の胆は既に固まっていた。

藩士を事故や病で亡くした事は、国元に残してきた家族には申し開きの出来ぬ痛恨事であった。

当初予算を大幅に上回る費えで、藩に多額の借財を残した責任も逃れられない。

何よりも度重なる設計変更や工事費の増額など、幕府の不条理な対応には押さえ切れない義憤がある。

勒負はそれらを決着させ、仲間の鎮魂、幕府への無言の抗議の思いを込め、最早これしかないと考えていた。

 

労苦を共にしながら、半ばで逝った多くの藩士と共に、かの地に眠ることを決意、終には自裁するのである。

しかし、その死すら幕府には「持病による病死」と届けられている。

当時割腹は「お家断に処す」と定められていたから、身を呈した抗議も幕府に伝えられることが無かったのだ。

 

今その場所は「油島千本松原」と名付けられ、国の史跡に指定された公園の一部となっている。

その北端には勒負を祭神とする「治水神社」が祀られ、藩士達はここで安らかに眠っている。

 

 

桑名 義士の菩提寺

 

 木曽三川を橋梁で渡り終えると、「快速・みえ」の最初の停車駅は桑名である。

JR東海の関西本線と、近鉄の名古屋本線、養老鉄道の養老線の乗り入れる県内では有数の駅だ。

JRは単式1面1線と島式ホーム2面2線を持つ地上駅で、全ての列車が停車する。

 

 駅の東口を出て、八間通りを東に向けて途中国道1号線を越え、暫く行くと左手に寺がある。

歩いて10分程、通りに面して建つ寺で、名を「法性山・海蔵寺」と言う曹洞宗の寺院である。

ここは宝暦の治水に関わった薩摩義士の墓所として知られている。

 

海蔵寺

海蔵寺

海蔵寺

 

海蔵寺

海蔵寺

海蔵寺

 

海蔵寺

海蔵寺

海蔵寺

 

 故国とは三百里も離れ、言葉とて通じ難い他国の地での土木普請は、凄惨を極める事となった。

自然の猛威は想像を絶するもので、加えて幕府の非礼とも言える処遇にも耐えなければ成らぬ毎日であった。

朝は夜明けと共に、夜は日暮れても尚、自らの身体に鞭を打つが、疲れた体を癒やす風呂さえ満足に入れない。

食事も馳走は固く禁じられ、一汁一菜と粗末なもので、村々にも施しを禁止する高札を立てる程の徹底ぶりだ。

 

 そんな工事が始まり、幾らも経たない内に、早くも最初の犠牲者が出てしまう。

横暴な役人の対応、幕府の施策・処遇に対する義憤から、二人の藩士が差し違えて自害をする。

その後も抗議の意を込めた割腹自殺は相次ぎ、終には51名の多きを数えるに至った。

(最近の研究では、切腹はこんなに多くはなかった、とする説もあるらしい。)

 

海蔵寺

海蔵寺

海蔵寺

 

海蔵寺

海蔵寺

海蔵寺

 

海蔵寺

海蔵寺

海蔵寺

 

しかしその死さえ幕府に憚って、届け出は「腰の物にて怪我致し相果て候・・・」と偽らざるを得なかった。

葬儀も、幕府のお達しで仕事を終えた夜間に行われる始末で、弔いさえ引き受ける寺院がなかったと言う。

日が暮れて埋葬場所を捜すため寺院を廻る中、最後に訪れたのがこの桑名の海蔵寺であった。

時の大和尚は、「死者を弔うのは僧侶の役目」と、快く戒名を与え、懇ろに供養をしたのだそうだ。

 

この寺には、割腹した24名の義士と、総奉行の平田靭負の墓碑が祀られている。

このほかにも、疫病などの病死が33名、人柱も1名など、工事の犠牲者が出て、各地に葬むられている。

他にも三重県内に4ケ寺、岐阜県に10ケ寺、京都に1ケ寺、薩摩義士の墓は有るそうだ。

 


 

おちょぼさん

 

 治水神社から北に10キロ程行った旧海津町の町中に、今から500年余前の室町時代創建の稲荷神社がある。

正式には「千代保稲荷神社」、「御先祖の御霊を千代に保て」との教えから名付けられた。

地元では「おちょぼいなり」や「おちょぼさん」の愛称で親しまれている。

この社もお決まりのように、京都の伏見、愛知の豊川と共に日本三代稲荷の一つを名乗っている。

 

おちょぼさん

おちょぼさん

おちょぼさん

 

おちょぼさん

おちょぼさん

おちょぼさん

 

おちょぼさん

おちょぼさん

おちょぼさん

 

おちょぼさん

おちょぼさん

おちょぼさん

 

神社の社域は左程広くはなく、規模も大きくはないが、商売繁盛、家内安全などのご利益があるとされている。

年間の参拝者は、200万とも250万人とも言われ、この地域ではずば抜けている。

特にお正月の初詣、月末の夜から月初の朝にかけてお参りする「月並祭」が知られている。

 

参拝は社前で「おあげ」と「ローソク」のセットを買い求める。

献灯所で「ローソク」を献じ、その奥の社殿に「おあげ」をお供えしてお参りする。

お供えされた「おあげ」は、時におさがりとして参拝者にふるまわれたりもする。

商売繁盛を願う人は、賽銭に名刺を張り付け投げ込んだり、霊殿に自身の名刺を挟み残しお願いするのだそうだ。

 

おちょぼさん

おちょぼさん

おちょぼさん

 

おちょぼさん

おちょぼさん

おちょぼさん

 

 この神社参拝には、もう一つの楽しみがある。

南口大鳥居から神社の門前を経て、東口大鳥居に至る凡そ800mの参道の、100軒以上にも及ぶ門前町の賑わいだ。

食べものなら草餅、串カツ、ドテ煮、漬物、川魚料理、お菓子、野菜、果物、唐辛子等と何でもあり、多彩だ。

特に淡白な味で美味しいナマズのかば焼きは、この地方の名物料理として知られている。

招き猫や、おもちゃなどなどもあり、この参道は雑然とした雰囲気がどこか懐かしく、昭和の香りがプンプンする。

 



 

| ホーム | 国内の旅行 | このページの先頭 |

 

(c)2010 Sudare-M, All Rights Reserved.

 

inserted by FC2 system