鈴鹿の関

 

「昔 此処鈴鹿の関成。故に関と言う」

 

亀山宿から凡そ1里半、江戸日本橋からは百六里の距離に当たるのが、旧東海道47番目の宿場町、「関」である。

この関には、既に7世紀ころには「伊勢鈴鹿の関」が設けられていて、それが地名の由来とも言われている。

しかしその関所(お役所)の存在そのものは間違いがないが、その場所となると未だに霧の中である。

その理由は、場所が度々変えられ、今日の研究でも諸説有って特定することが出来ないのだそうだ。

 

鈴鹿の関

鈴鹿の関

鈴鹿の関

 

鈴鹿の関

鈴鹿の関

鈴鹿の関

 

鈴鹿の関

鈴鹿の関

鈴鹿の関

 

関宿の東の追分には、伊勢神宮の一の鳥居と常夜灯、道標が建っている。

お伊勢参りに向かう、伊勢別街道(伊勢参宮道)への分かれ道で、伊勢山田外宮までは凡そ15里と記されている。

 

 江戸時代の旅人は、一日十里を目途として歩いたと言われている。

江戸日本橋を旅立った人々は、単純に計算すればここまで、10日ほど歩き続けて来たことになる。

そんな人々にとってこの関の宿場町は、難所鈴鹿越えを前に、しばし身体を休める大切な宿場であった。

と同時に、関所を無事通過し峠を越えれば旅も大詰め、京・三条大橋に近づく事を実感できる場所でもあった。

 

鈴鹿の関

鈴鹿の関

鈴鹿の関

 

鈴鹿の関

鈴鹿の関

鈴鹿の関

 

鈴鹿の関

鈴鹿の関

鈴鹿の関

 

鈴鹿の関

鈴鹿の関

鈴鹿の関

 

鈴鹿の関

鈴鹿の関

鈴鹿の関

 

 そんな宿には、本陣が2軒、脇本陣が3軒あり、旅籠も多く90軒を数えたという。

当時の人口は2,000人程度と言われ、600軒余りの家屋が建ち並んでいた。

中には色々な商いをする商家も軒を連ね、芸妓、飯盛り女も多く、大そうな賑わいだったと伝えられている。

因みに当時の宿賃は200文(凡そ890円)、人足一人56文(凡そ200円)と言われている。

遊興の相手・飯盛り女は、他の宿場とほぼ同額の500文(2,200円)が相場であったらしい。

 

 

鈴鹿越え

 

 関の駅には隣接して、「道の駅・関宿」が建っている。

地元の新鮮な野菜などが並ぶ直売店や、食事処、情報コナーなどが併設されている。

駅前には町内を巡回するコミュニティバスが乗り入れ、道の駅にはレンタサイクルも用意されている。

旧宿場町の町並や、旧東海道の街道を巡るなら、利用するのが便利である。

 

 関西線は関を出ると、いよいよかつての難所、加太越え(鈴鹿山脈越え)に挑むことに成る。

とは言えそれは昔の事今では2両編成のジーゼルカーが25‰の急坂を、エンジン音を高めるだけで難なく越えて行く。

関ヶ原から続く鈴鹿山脈は、左手に見える錫杖ケ岳(676m)までの辺りらしい。

この鈴鹿の峠越えは、昔から東海道を歩く旅人にも、鉄道が開通した後の機関車にも、大変な難儀であったようだ。

 

鈴鹿越え

鈴鹿越え

鈴鹿越え

 

鈴鹿越え

鈴鹿越え

鈴鹿越え

 

9030431

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鈴鹿越え

 

鈴鹿越え

鈴鹿越え

鈴鹿越え

 

手元に有る「写真集・汽車(昭和467月 写真評論社)」には、加太越の様子が残されている。

加太からかつてスイッチバックの信号所が有った中在家間を、D51が補機を付け力強く走る姿だ。

写真からは、そのドラフトが今にも聞こえてきそうな力強さを感じる。

 

撮影者の苦労談を読んでみると、中々に興味深い。

当時撮影の絶景ポイントとして知られた信号所付近へは、歩いて行くしか方法がなかったと言う。

ただ加太には、僅かながら、一台のタクシーが常駐していたので、絶えず奪い合いが起こっていたそうだ。

乗りそびれると、国鉄に乗って無理やり信号所付近で降ろしてもらうしか方法が無かったとも書かれている。

そんな無理が、まかり通っていたと言うから、その頃はのんびりとした良い時代で有ったのかも知れない。

 

 今ではこの信号所は、一部列車の行き違いに使用されるだけで、かつての信号所としての機能は廃止された。

列車はアッという間に通り過ぎてしまうので、峠越えを実感することも無く、難所越えは終わってしまう。

 

鈴鹿越え

鈴鹿越え

鈴鹿越え

 

鈴鹿越え

鈴鹿越え

鈴鹿越え

 

鈴鹿越え

鈴鹿越え

鈴鹿越え

 

鈴鹿越え

鈴鹿越え

鈴鹿越え

 

鈴鹿越え

鈴鹿越え

鈴鹿越え

 

 少し平野が開けると草津線との接続駅・柘植に到着する。

ここまで車内で愛嬌を振りまいていた飼い猫が、飼い主のかごに入れられ降りて行った。

 

草津線はここ柘植と甲賀、貴生川を経て東海道本線の草津とを結ぶ36.7Kmの路線である。

途中の貴生川駅からは、狸の置物で知られる焼き物の里・信楽駅に向かう信楽高原鉄道が接続している。

又、近江八幡駅や彦根駅方面に向かう近江鉄道も発着している。

 

 

伊賀上野

 

三重県の北西部、上野盆地にある伊賀市は、伊賀地域の中心的な町である。

関西本線の沿線上に位置し、丁度大阪と名古屋の中間地点辺りにある人口9.6万人ほどの町だ。

古くから街道が通り交通の要衝の宿場町として、或は藤堂家の城下町として栄えた歴史を持っている。

一般的には、「忍者の故郷」として知られているが、俳聖・松尾芭蕉の生まれ故郷でもある。

 

伊賀上野

伊賀上野

伊賀上野

 

伊賀上野

伊賀上野

伊賀上野

 

伊賀上野

伊賀上野

伊賀上野

 

柘植からは15分ほどで、伊賀鉄道伊賀線の接続駅である有人駅の伊賀上野に到着する。

2面4線を持つ駅構内も結構な広さがあるが、何となくガランとした寂れた印象がぬぐえない駅である。

嘗ては関西線を走る特急や急行の停車駅であったが、現在同線に優等列車の設定はなく、普通の停車駅である。

駅前には広いロータリーがあり建物が取り巻いているが、店らしきものが営業している風もなく静まり返っている。

 

伊賀上野

伊賀上野

伊賀上野


 

伊賀上野
  
 

伊賀上野

伊賀上野


 

伊賀上野
  
 

伊賀上野

伊賀上野


 

伊賀上野

伊賀上野

伊賀上野


 

その市街地の中心は旧上野市で、最寄り駅である上野市までは伊賀鉄道で7分ほどの距離である。

1番乗り場に接続する伊賀鉄道の電車が待っている。

伊賀鉄道は上野盆地に位置する伊賀市の中心市街地を通り、伊賀神戸までの間16.6Kmを結ぶ路線だ。

終点の伊賀神戸では近鉄大阪線と接続している。

元々近鉄の支線であったが、今は分離され伊賀市も出資する近鉄の子会社となっている。

 



 

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