四国遍路 歩き旅の始まり
長年勤め上げた会社を定年退職し、人生80年時代の余生を健康に楽しく過ごせるようにと始めたのが、週三回のジムでの軽い筋トレと、これまた週三回近所を徘徊のように歩き回る一回一万歩目標のウオーキングである。
何しろ時間は有り余るほどあるので、これらを一日おき交互に実行するに何の支障もない。
しかし歩き始めてみると、「どうせ歩くなら・・・何か目的を持って、何か達成感の有る歩きをしたい」と考えるようになるには、左程時間を要することでもなかった。
幸い時を同じくして同じ思いの相棒も見つかり、話はとんとん拍子に進み、「四国八十八カ所」を歩いて回ろうと相成った。
今から1200年余前、弘法大師・空海は、ほぼ四国の外周に沿った八十八の霊場巡りを整備されたとされている。
それらを一回で一気に回るのが「通し打ち」だが、その距離何と1,460キロ(365里)とも言われる遍路道を巡るには、40〜50日余りを要するとされている。
しかし一般的には体力的な個人差もあり、巡る人の歳の数と同じ日数を見るのが良いと言われるほどにそれは過酷な道のりだ。
一気に廻る「通し打ち」をするだけの健脚を持ち合わせない身には、何回かに分ける「区切り打ち」しか術はない。
一年に春と秋の二回、五年程かけて都合十回で周ろうとの目論見である。
こうしておよそ信仰心もない二人の男が、遍路道を歩くことになった。
始まりは板東駅から
気温も暑からず寒からず、日も段々と長くなってくる春が遍路には最敵期とされている。
四国の春は、お遍路の鈴の音からやって来ると言われるほどだから、この時期から始める歩き遍路も多いのだ。
高松から高徳線の徳島行に乗車し、坂東駅で降りる。遍路の第一歩はこの駅から始まる。
余り大きくない駅のホームには、赤い鳥居と“四国一番 霊山寺” の標柱が立っている。
さぞかし遍路が多いのだろうと思って駅に降り立った。
しかしそこには土地の人らしき老人と、数名のグループ連れ、それに我々を合わせて10名余と少なく、些か肩透かしだ。
何はともあれ、まずは鳥居の前で記念撮影。少し遅れて駅舎を出れば、駅前広場には既に人影は無く閑散としている。
駅を後に街道に出る。この街道も昔は多くの歩き遍路が行き交ったのかと思いながら人通りも無い道を歩く。
廃館となった映画館であろうか、板戸の締められた建物を見遣りながら1番札所を目指す。
やがて案内板に導かれ角を曲がると、道の両側に四国第一番と書かれた石柱が立っている。
その先正面を見やれば、彼方に堂々とした山門が眼に飛び込んでくる。
まずは遍路拵え
まずは何をおいても腹ごしらえ。
四国に来たのだから(正しく言えば阿波の国)、ここはうどんしか無いだろうと門前のうどん屋に飛び込む。
これから先何キロも歩く身に、肉うどん一杯とおにぎりの腹では何となく心もとない気がしないでも無いが・・。
腹具合も落ち着き、山門脇の遍路用具店で、遍路用品を求める。
幾ら信仰心が無いとは言え、四国の遍路道を遍路として歩くのだ。
歩き遍路としてある程度の体裁は整え、それと一目で分かる服装は最低限だけでもしておきたい。
「弘法大師の化身」ともされる“金剛杖”と、遍路のシンボル“白衣”は外せない。
“金剛杖”は随分と種類も多いし、値段も様々だ。“納経掛軸”に心が動かされるが先ずは財布との相談だ。
“菅笠”や“輪袈裟”は大仰になるし、“頭陀袋”は多少邪魔になるだろうから・・・などと除外の方に心が動く。
“線香、ローソク、数珠”は持参したからいらない。
後は、 “白い納め札”と“
納経帖”などを揃えれば何処から見ても立派なお遍路である。
初めての白衣を着ることに多少の気恥ずかしさは有るが、回りを見ればみな同じものを着ている。
これから先、歩き遍路として一目でわかるための必需品と有れば肝も据わる。
始まりの寺 霊山寺
四国八十八カ所第一番札所・霊山(りょうぜん)寺。
山門を潜り、一歩一歩本堂に向け歩を進めると、「いよいよ始まるのだ」と心が高ぶり、何か不思議な感覚が湧き上がってくる。
殊勝な信仰心など無かった筈なのに、これが”お四国”の力、信仰の力であろうか。
いよいよ四国八十八カ所、歩き遍路の始まりだ。道中の無事、家族の無病息災を祈る。
天平年間に僧・行基がこの地に庵を結んだのが開基とされる霊山寺は、空海による四国霊場の開創で第一番札所と定められた。
この時の念持仏が釈迦誕生仏像で、それがこの寺の本尊前に納められていたことから霊場巡り始まりの地とされた。
また門前を東西に走る撫養(むや)街道の東の発端が、本州からの船が発着する撫養岡崎の船着き場が有り、大阪や京都からの巡礼者には都合が良かったからとされている。(諸説有り)
長命杉の極楽寺
次の札所2番・極楽寺までは1キロ程と近い。
遍路道には思ったより歩きの姿が多いのは、バスなどの参拝者も札所が近いことから試し歩きを楽しむかららしい。
多くは同じ方向へ向ういわゆる「順打ち」の遍路たちで、後先になりながら次の札所を目指している。
これほど近いだけに霊山寺の境内の延長のような感覚で、まだまだ意気込みの方が勝っているだけに、どの遍路の足取りも軽やかで、賑やかな話し声さえ聞くことが出来る。
ここは行基が開祖と伝わる朱塗りの仁王門が印象的な札所である。
三方を山に囲まれているせいか境内は静かで、門を潜ると極楽浄土をイメージした庭園がある。
四十段余りの石段があり、それを上ると正面に本堂、右手奥に大師堂を構えている。
境内の一角に弘法大師のお手植えとされる杉が一際威容を誇って伸び、境内に大きな日影を作っている。
「長命杉」と呼ばれる、樹齢1200年、高さ31m、幹回り6mの霊木である。
長寿をもたらす井戸・金泉寺
3番札所・金泉寺までは大して距離が無い。
朱塗りの二階建ての仁王門は、かつては京都の三十三間堂の伽藍を模した堂宇を誇ったと言われるお寺の権勢を彷彿させるに足る堂々としたものである。
ここには源平屋島の合戦前、源義経が戦勝祈願をし、その家来の弁慶が巨石を持ち上げたという巨石伝説が残されている。
ここら辺りは道も平坦で厳しくは無いので歩く遍路の姿にも余裕が感じられる。
逆打ちの遍路であろうか、はたまた満願しその報告に一番札所を目指すのか、時折前から来る歩き遍路とすれ違う。
随分な荷物を乗せて台車を引いて歩く、仙人のような風体の遍路がいた。ほぼ野宿をしての通し打ちだそうだ。
蜂須賀家所縁の寺・大日寺
3番から次の4番札所・大日寺迄は、これまでの市街地歩きとは違い、長閑な田畑を辿り更に標高のある山に向う、漸くにして遍路道らしい古道を行く事となる。
その距離およそ5q、所要時間の目処は90分程度とされている。
寺は、黒谷川に向かって張り出した標高70m程の小山の斜面に伽藍を構えていると言う。
前方の山裾に山門であろうか、甍が見えてきた。
朱塗り(弁柄塗り)の立派な鐘桜門である。それは入母屋瓦葺きの屋根を持ち、その下が鐘楼となっている。
良く手入れされた庭園のような参道を進むと正面に本堂が建っている。
境内は余り広くはないが三方を山に囲まれた地に、まとまり良く伽藍が配置され、幽玄な雰囲気の感じられるお寺である。
水琴窟の響く寺・地蔵寺
ここを過ぎると撫養街道は、徳島自動車道をくぐり5番・地蔵寺へと至る。
1番からここまでの道のりはおよそ12キロ、先ほどの大日寺では多少の山登りもあったがさほど厳しい上り下りでも無く、総体的には長閑な市街地続きの道でとても歩きやすい。
最初から難路・険路の連続では脱落者が出て先には続かないので、お大師様の粋な計らいであろう。
しかし、「此れなら歩き続けられそうだ・・・」等と思うのは早計で、落とし穴はまだまだ先に待っている。
嘗てその寺領は阿波、讃岐、伊予の三か国にも及び、末寺は300ケ寺を数え、塔頭も26寺を誇ったが、度重なる兵火や失火で悉く灰燼に帰したというが、それでも寺領は1.2万坪にも及ぶ古刹である。
境内の鐘楼脇にはお大師像が立ち、銀杏の古木が聳えているが、樹齢は800年を越えると言う。
| ホーム | 遍路歩き旅 | このページの先頭 |
(c)2010
Sudare-M, All Rights Reserved.
|