鶴林寺道
遍路の出立は早い。
5時を過ぎる頃、早くも廊下を行き来する足音で目が覚める。「旅館金子や」の朝である。
今日の予定は山登りが有るとは言え、時間的にはそんなにキツイ行程では無く、8時に出る予定だ。
それでも17時頃には宿に入れると目論んでいたから、目が覚めてからも布団の中で愚図愚図と微睡んでいた。
6時半頃、「朝食の準備が出来ていますよ」と、宿のおかみから電話が有る。
二人分だけが取り残された食堂で、急いで卵かけご飯をかき込む。
食堂のポットでお茶をいれ、ペットボトルに二本程詰める。
道中に食事処は無いと言うので、昨夜頼んでおいたおにぎりを受け取り早々に宿を発つ。
今日は、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と言われる阿波三大難所の内、第二・第三の難所への挑戦だ。
宿の前を暫く行くと、右に進む車道とは分かれ、鶴林寺への登り口が有る。
「歩き遍路、3.1Km」の看板を見ながら左に入る。
道はみかん畑を縫うように進むが、殆どがアスファルト舗装され、緩やかな登りなので今のところは歩きやすい。
上りの勾配も少しずつきつくなるのが実感できる頃、路傍に1枚の看板が立っていた。
「お遍路さんへ、ご自由にお使い下さい」と書かれた板と共に、善意の金剛杖が何本か立てかけられている。
厳しい遍路ころがしを歩くための備えである。
みかん畑の作業道から遍路道に分け入るとやがて舗装も途絶え、階段状の厳しい登り道に変貌する。
40分ほど登ると、ほぼ中間点の水呑大師に着き、少し休憩する。
この先からは、階段状の坂道が続き、勾配は益々厳しくなりここからが正念場らしい。
所謂「胸突き八丁」と呼ばれる急斜面が続く、とは言え焼山寺道を制覇した身にはもはやなんて事はない。
やがて1時間半ほどしてコンクリート舗装された急坂の参道に到着するとその先に山門が見えてくる。
お鶴さん・鶴林寺
阿波三大難所のうち、焼山寺道に続く第二の難所、鶴林寺道を上り詰め、第20番札所・鶴林寺に到着した。
寺は、標高516mの鶴林寺山の山頂近くの鷲が尾に、三段に亘って伽藍を構えている。
参道や周囲は、樹齢千年を超えるという檜や杉、松などの古木が覆い、深山、霊山の趣を感じさせている。
仁王門を潜り、参道を進むと六角堂、大師堂、護摩堂が立ち並び、更に70段ほどの石段を登った先が本堂だ。
寺は桓武天皇の勅願により、空海が開創したと伝わる古刹である。
この由緒ある寺を、地元の人は「お鶴さん」と呼び親しんでいる。
鶴林寺の本堂は標高495m付近に有り、次の第21番札所・太龍寺に向かうには一旦山を下ることになる。
その先で那賀川を渡ってから、再び山道で、標高600メートルの太龍寺山を登る。
これも鶴林寺道に負けず劣らぬ厳しい山道で、その距離6.5キロほど、およそ2時間の行程だ。
宿坊脇にぽっかりと口を開けたように、コンクリートの階段の下り道が見える。
まず取りかかりの下り道である。
やがて道は石畳となり更に地道の丸太階段に変わり、時には石ころ道になり、長く、何処までも下って行く。
太龍寺道
立江寺から鶴林寺、太龍寺、平等寺を経て薬王寺に至る遍路道の宿泊場所は限られている。
従って、立江寺を出て生名で泊った遍路の多くは、鶴林寺・太龍寺を経て、次は黒河で泊る事になる。
そんな遍路が何組も同じような日程で廻っているので、時には同宿に成ることも珍しく無い。
「順打ちで」同じような時間に、同じ道を歩くので、道中では抜きつ抜かれつしながら進むことになる。
当然そんな折、挨拶程度の簡単な言葉は交わすようになる。
すると不思議な事に仲間意識のような物が芽生え、なんだか大勢の仲間と共に歩いているような錯覚に陥ってくる。
遍路である事が、見ず知らずの初対面を取り持ってくれるのだ。それも歩き遍路の大きな魅力の一つだと思う。
途中、後ろからの人の気配に、「お先にどうぞ」道を空け譲る。
「後ろから女房が来ます」と言い残し、精悍なスポーツマンタイプの男性が、足元も軽やかに下って行った。
昨夜同宿だった夫婦連れのご主人の方だ。
暫くして「主人、待ってくれなくって」とこぼしながら、笑顔の素敵な奥さんが降りてきた。
「ご主人この先で休まれていますよ」
少し先の下りカーブの道端に、黒いザックが見えるので教えてあげる。
この厳しい道を、なんだか“鬼ごっこ”でもしながら、楽しんで下っている風にも見える。
途中県道を横切ると、今までの遍路道からは考えられないような夏草の生い茂った道に入る。
これまではどんな山道でも厳しい登り道でも、急な下り坂でも何処も良く手入れされ、整備された遍路道が多かった。
しかし、この道だけはどうやら様子が違う。
過疎化が進んでいるのであろう。
「ボランテアで道を整備する人も居なくなってしまったのだろうか」などと、話しながら暫く歩く。
1時間半ほど下ると人家が現れ大井の集落に近づいてきた。
県道の先に“水井橋”の標識が見えた。
歩いていると橋の手前で土地の年老いたご婦人が声を掛けてくれた。
土地訛りの強い言葉で「今日は天気が良いから、歩くのには丁度良いだろう」と言ったようだが上手く書き表せない。
確かに天気は良いし、風も強くないが歩いているとこの天気はかなり暑い。
幸いなことに湿度が低そうな事と、時折吹く風の爽やかさにだけは救われる。
橋の無い昔は、渡しが遍路を運んでいたと言う清流を見ながら橋を渡る。
初めのうちはのんびりとした、緩やかな農道或は林道と言う感じの道で厳しくもなく気持ちよく歩くことが出来る。
舗装道を1時間ほど歩くと、やがて右に取る石段の遍路道が現れる。
ここからがいよいよ最後の登りの始まりで、道はその傾斜も次第にきつくなり、足元も悪くなる。
西の高野・太龍寺
山道を登り終えると、山門も近くなり、アスファルトで舗装された急坂に変わる。
しかし、山登りでダメージを受けている足腰には、この道は決して優しくは無い。
途中、野仏に花を供える寺僧が「もう少しです」と教えてくれたが、その「もう少し」がなんとも遠い。
アスファルトがやがて緩やかな石段に変わるとその先に寺の建造物の中では最も古いと言う仁王門が見える。
第21番札所・太龍寺の表玄関だ。
この中の巨大な仁王像は鎌倉時代の作で、徳島県下では最大で最古のものらしい。
そのためか、重厚な山門の周りにはやたらと防火用水が目に付いた。
門を潜っても鬱蒼とした林の中にまだ坂道が先へと延びている。
木立の隙間から、不動明王を祀る護摩堂が見えるとやっと境内に到着する。
龍天井を覗き、納経所で納経を済ませ、境内のベンチに腰を下ろすと金木犀のふくよかな香りが疲れを癒してくれる。
生名で同宿の、見覚えのある遍路の顔もここで休んでいる。
本堂は、標高505m付近に有り、八十八カ所の内では、6番目の高所である。
左手の本堂へと続く階段の途中に立派な鐘楼門がある。
それを潜って登りきると右手に中興堂、大師堂、その奥に御廟がある。
左手正面の弁才天に続いて本堂がその大屋根を見せ、その奥に多宝塔が見える。
寺は、四国山脈の東南端、標高618mの太龍山の山頂近くに位置している。
齢を経た杉・檜などの鬱蒼と茂る山塊に、城のような石垣を築き、なんとも広大で立派な伽藍を構えている。
背後には、大師が19歳の折、100日間の虚空蔵求聞持法を修行されたと伝わる「捨心嶽」が控えている。
ここは「西の高野」と呼ばれ、古くから信仰を集めてきたらしい。
嘗てこの寺は、遍路ころがしと呼ばれる厳しい山道を登り、徒歩でしかお参りが出来なかった。
参拝者の不便を解消するために、山にロープウェイが開通したのは、平成4(1992)年7月のことである。
麓の鷲の里駅から太龍寺の門前の間を、西日本では最長の全長2,775m、凡そ10分で結んでいる。
本堂前の石段を下りたところが、丁度茶店を併設した山頂駅になっている。
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