中筋川ダム湖
三原村宗賀で県道21号から48号に入り、宮の川トンネルでショートカットし、再び21号に戻る。
山道もこの辺りまで下ってくると、道路標示にも「宿毛」の文字を見るようになる。
やがて前方に中筋川のダム湖が広がり、眼下に梅の木公園が見えてくる。
その先で215.5mの梅の木トンネルを抜け、黒川大橋を渡り、更に227.0mの黒河トンネルを抜ける。
そろそろ宿毛市に入ったようで、その後はひたすら平田の町を目指して山道を下るのみである。
久百々の宿からはここまで凡そ28キロほど歩いてきた。
山道はいつの間にか平坦路と成り、遠くに平田の街並みが見えて来て、途中から県道を外れ旧道に入る。
長い間人家をあまり見ることもない山道をひたすら歩き続けて来ただけに、両側の詰まった屋並みを久しぶりに見ると、何だかとても懐かしい気がする。
老舗旅館・鶴の家旅館
土佐くろしお鉄道の線路を潜り、国道に出る少し手前にある宿が今晩の泊りだ。
明治の初期から続き、今の代で四代目と言う老舗旅館「鶴の家旅館」である。
心配りの良い宿である。
到着早々、お接待で洗濯を引き受けるから、直ぐに風呂に入れと勧められる。
何時もなら、洗濯を済ませてからの風呂であるから、疲れた身には本当に助かる。
風呂はまずまずの広さも有り、ゆっくりと手足を伸ばして湯に浸かる事が出来、癒される。
夕食時、堺と掛川から来たと言う二組の夫婦遍路と一緒に成った。
ほぼ同年代、お互いが今回初めての遍路と有って、事の他話が弾み、遅くまで話し込んでしまった。
人の語る道中での体験も、自身の思い出の中にその情景を見出すと共感を呼ぶ。
歩き疲れへとへとに成った事さえ自慢話として通用するのは、お互いが辛さ苦しさを共有しているからで有ろう。
遍路道の情報交換にも怠りが無く、苦労話も今だから笑って話せるのが心地良い。
眼洗い井戸・延光寺
翌朝空は厚い雲に覆われ、今にも雨が落ちてきそうな雲行きで、予報によれば昼には雨に成ると言う。
宿を出てすぐに左折、車が激しき行き交う朝の国道56号線を歩く。
宿から、第39番札所・延光寺までは2キロ余りだ。
国道を歩いていたら、「この道が近い」とゴミ出し中のご婦人が右折する道を教えてくれる。
四国はお遍路には本当に優しい町だといつもながら感心する。
赤亀山・延光寺は余り広くはない境内だが、緑も多く良く手の入ったお寺である。
ここは土佐路の西南端、「土佐修行の道場」最後の霊場である。
これで阿波と土佐、二国の札所を打ち終えた事になる。
山門を入ると、梵鐘を甲羅の上に乗せ、竜宮から運んで来たと言う赤亀の像が迎えてくれる。
その鐘は寺に保存されていて、国の重要文化財に指定されている。
境内の一角に大師が錫杖で地面を突いたところ、水が湧き出たという縁の井戸がある。
今では、「目洗いの井戸」と呼ばれ、眼病に霊験があらたかだと言う。
宿毛の町
ここから伊予路最初の札所・観自在寺までは、30キロ余り、時間にして8時間ほどの行程だ。
「第三十九番札所延光寺」の石柱を右に見て、国道の歩道を1時間程歩き続けてきた。
既に宿毛の町に入っていて、前方に松田川に架かる宿毛大橋が見えて来た。
その橋を渡った左手に「遍路小屋 宿毛33号」があり、ここでしばしの休憩だ。
遍路道は、ここを右に折れ、宿毛の旧市街地を抜けることに成る。
町中には宿毛文化センターと言う立派な建物があり、その中に宿毛歴史館を設け、町の歴史やゆかりの人物を模型や映像・パネルなどで紹介していると言う。歴史ある町らしく、道筋には土佐藩創生の頃、奉行として活躍した野中兼山や、文化人等に纏わる史跡や「○○邸跡」の碑が多く立ち興味をそそられるが残念ながら立ち寄る余裕がない。
県境の難所・松尾坂
町中を抜け、宿毛の駅の手前で56号線から外れ、進路を山側に向け、松尾峠越えの道に進む。
住宅地に続く道に入り込むと、左手に「宿毛貝塚」がある。
縄文後期の遺跡で、四国では最大規模の貝塚らしい。
みかん畑の向こうに、顔をのぞかせる宿毛湾を見ながら進む道は、舗装されてはいるが勾配は意外にきつい。
舗装道が尽きると今度は緩やかな下り道に転じ、その先はこんなに登って来たのかと訝る程の下り道が延々と続く。
30分ほどで、錦の集落に到着した。
「3000m 松尾峠 へんろ道」と書かれた看板が、民家の庭先を指している。
ここから先は峠まで3キロ、高低差290メートルの厳しい上り坂が待っている。
途中「土佐の褐牛(あかうし)」の牧場があり、牛たちが長閑に体を寄せ合っていた。
松尾坂は伊予と土佐を結ぶ重要な街道で、麓には番所が設けられていた。
日に200〜300人も通る旅人を取り締まっていたらしく、当時の関守の子孫は現在も当地に住みついていると言う。
その番所跡を過ぎた辺りからは残りが2キロ程、いよいよ更に厳しい登り道に成る。
鬱蒼と茂る木立の中に切り開かれた旧道である。
枯れ落ち葉、岩肌の凹凸、露出した木の根、大きく掘れた穴の繰り返しで、歩き難いことこの上ない。
途中には往時の石畳の遺構や、戦時中に切り倒し油を搾るため根までも掘り起こした松並木の掘り跡等が有る。
土佐と伊予を結ぶ街道は、その歴史の古さを至る所で物語っている。
松尾峠に辿り着いた。
宿毛の町を出て、5キロ余りの道程を、2時間余り掛けてようやく峠に着いた。
大師堂の残る標高300mの峠には、うす暗い僅かばかりの平坦地に、往時は2軒の茶店が有ったと言う。
昭和四年に宿毛と一本松を結ぶ道路が開通すると、この街道の往来は廃れていく。
結果厳しい山道は、歩き遍路を悩ます古道として、その名を今に伝えるのみとなってしまった。
「従是東土佐國」
「従是西伊豫國宇和島藩支配地」
ここは予土の国境で、貞享年間に建てられたと言う、二本の国境の碑が少し離れて建っている。
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