内子の町並み
JRの線路を潜り、内子の町中へと入り込んだ。
内子は、江戸後期から明治にかけて木蝋の生産で栄えた町である。
今でも600mほどの間に伝統的な町屋造りの屋敷が、当時の面影を残し、軒を連ねている。
ふれあい通りにある“商いと暮らしの博物館”は、江戸後期から明治初期の商家を利用した建物だ。
内部では、大正時代の薬屋を再現展示している。
観光の中心的な施設が、大正時代に建てられた歌舞伎場である“内子座”だ。
木造二階建瓦葺入母屋造りの建物で、大正の初期に建てられたものだ。
この他にも町内には、かつて木蝋や生糸で栄えた商家や民家なども多い。
虫籠窓や連子格子の建物、情緒ある町並が残っているが、ゆっくりと見て回れないのが何とも勿体ない。
筏流しの里
内子の町並みを外れ、国道56号線を横切り、小田川に架かる橋を渡る。
正面に「道の駅・からり」を見てその前で左折、国道379号線に入り、高速道路を潜る。
しばらくは蛇行する小田川に忠実に沿って、この国道を歩くことになる。
道はほぼ平坦で歩きやすくはあるが、単調なアスファルト道の連続で、変化に乏しく些か退屈だ。
長岡山トンネルを抜けると道路わきに、ぽっんと一軒“お遍路無料宿”が建っている。
固く雨戸を閉ざしているところを見ると、誰も利用している様子は無い。
夕方に開けられるのか、どこかに連絡すれば開けてもらえるのかは定かには分からない。
短い和田トンネルを抜け、大瀬の集落を抜ける旧道に入る。
沿道の大瀬小学校は、ノーベル賞作家・大江健三郎の通った母校、その近くには生家もあるそうだ。
その先に曽我五郎十郎首塚、千人塚大師堂、落水大師などがあり、興味を注がれるがもう3時を過ぎている。
山の日暮れは早い、日のあるうちには宿に入りたいのでゆっくりと見ている暇はない。
「筏流しの里」川登の集落に入ってきた。
この地では、明治から大正・昭和の初めにかけ、奥山で伐採される良質な木材を、筏師がフジカズラを使って筏を組み、肱川河口の長浜まで運んだと言う。毎日平均30流れを数えたその勇壮な姿は、道路の整備やトラック輸送の発達により、昭和20年代を最後に、姿を消してしまったらしい。
今は緩やかに蛇行する小田川は、そんな昔日の面影もなく、穏やかに静かにそして長閑に里山を流れている。
伊予大洲から歩き始めて早6時間、ここまで25キロ以上の道のりを歩いて来た。
短い梅津トンネルを抜け、左折、橋を渡ると今晩の宿「さかえや(徳岡)旅館」がようやく近づいてきた。
内子町突合地区にある木造二階建ての、昔ながらの遍路旅館らしい。
この宿、残念ながら、遍路の間の評判は余り芳しくない。
それでも、行程上この付近に他の宿がなかったので、泊まらざるを得なかったのだが・・・。
安く泊まる遍路の宿に、余り多くを期待するものでも無い。
しかし6,500円(2012年)は格段に安いわけではなく、他の遍路宿とは遜色ないがここの内容は悪すぎる。
建物も古く、室内も整理され清潔そうには見えないし、トイレも決して綺麗とは言えず、風呂も狭い。
料理内容は好みもあり何とも評価はしないが、夕食時のビールは自分で近くの店まで買いに行かなければならい。
何よりも主人が愛猫家なのか、(これも好みの問題ではあろうが、)室内の猫の臭いには閉口した。
鴇田(ひわだ)峠越え
国道379号線を行き、鴇田峠を超えるルートから、44番札所を目指す。
きれいに舗装された国道は、交通量も少なく時折思い出したように一台ずつ、車が猛スピードで通り過ぎていく。
道はほんの僅か上っているようだが、坂道と認識するほどの事もなく歩きやすい。
途中まだ開店前の産直市で、「休んでいけ」と声を掛けられ、言葉に甘え少し休ませてもらう。
「これで良かったら、いくらでもいいから持って行け」
「もう商品価値はないけど、まだ美味しく食べられるから」と、甘夏の入った箱を指さして店主が言う。
峠越えを控え余り荷を重くしたくはないが、好物を逃がす手もなく、大きそうなのを選りすぐり、二つほど頂いて礼を言って再び歩き始める。
平均標高800m「四国の軽井沢」と呼ばれる久万高原にある札所に向かうルートは、幾通りもある。
一つは、国道379号線を進み、途中県道42号線に入り、下坂場峠(標高570m)と鴇田峠(標高790m)を連続して超える道で、距離的にはすこし短くはなるが、連続した二つの厳しい峠越えが待ち構えている。
久万高原に出ればそのまま44番に向かうことになるが、そこから45番は打戻りとなる。
二つ目は、突合から分かれる国道380号線で新真弓トンネルを抜け、父二峰から農祖峠(標高651m)を超え久万高原に至るルートであるが、峠は一つしかなく若干標高は低くなるがその分歩く距離は長くなる。
この場合、農祖峠を越え、そのまま先に45番に向かい、その後44番を打つ逆ルートを選ぶ人もいるらしい。
突合から久万高原に至る20キロほどの間には宿がないので、この行程は悩ましい。
前後の宿泊地との兼ね合い、自身の足の具合との相談で、ルートの組み合わせの選択肢は多くなる。
何れにしても札所の中間点、中札所・第44番・大宝寺への道筋は、厳しい起伏の連続する山岳道である。
滝ノ上橋休憩所のところで国道を離れ、県道41号線に入る。
落合トンネルを抜けると道幅も段々と狭くなり、上りの勾配も気のせいかきつくなってきたように感じられる。
途中三島神社で休憩をする。
神社前の道を右にとれば、畑峠から農祖峠(標高651m)を超え、久万高原に至るルートになるが、ここでは左にとってそのまま進み、その先で県道を外れると一つ目の峠への上りが始まる。
と言っても舗装された林道が続いていて、本格的な上り道が始まるのは更に先で林道を外れてからだ。
林道を外れた峠道は上りだすとそれが結構きつい。鬱蒼と茂る杉木立の中は昼なお暗く、道幅も狭くなる。
そんな急坂を、息を切らして上ること20分ほどで、標高570mの下坂場峠に到着した。
可なりの汗をかき、息を荒げながら山道を登り終えた。
峠に出るとそこには立派なアスファルト道が通り、些か拍子抜けするような、明るく開けたところであった。
ここからの道は、かなりきついアスファルトの下り坂が延々とこれでもか、と言うほどに続いて行く。
由良野の集落を抜けると峠までは2キロ余り、本格的な山登りがまた始まった。
木立の間から差し込む日は淡く、あたりは夕暮れ時のように薄暗い。上へ上へと道が向かって伸びている。
勾配もきつく、どこまで行っても終わろうとしない急こう配の地道が先へ先へと続いている。
上り始めて40分ほどで、「だんじり岩」と書かれた看板に出くわした。
その昔巡錫中のお大師様が、この地で疲れ果て、重ねて空腹のため、己の修行の足りなさにじだんだ(だんじり)を踏んだ岩だと説明が記されている。
さらに勾配の増した上り道を歩くこと10分ほどで、ようやく僅かばかりの平地のある標高790mの峠に到着した。
宿を出て5時間、本格的に上り始めて2時間ほどが経過していた。
ここは昔からこの地域には欠かせない主要な街道で、昭和30年頃までは、この場所にも茶店があり、行きかう人々で大層な賑わいを見せていたと言う。
上りがきつければ、下りもきついのは道理、厳しい勾配の赤土の道が続いている。
とは言っても所詮は下り、足への負担は大きいものの、息が上がることもなく楽であることには違いない。
1キロ半ほどの下り道を20分ほどで下り切ると、いきなり視界が開けた。
新緑の薄緑と古葉の深緑が混じり合う山々が霞み、それに囲まれた箱庭のような町並みに人家が犇めいて見える。
久万高原に開ける久万の町だ。
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